最近、東京新聞の頑張りが目立つ。数年前までは、失礼ながらこの新聞を気にかけるどころか、手に取ることもなかったが、今年に入ってからは宅配購買こそしていないが週に何度か駅売りを求めるようになった。
それは、かつての地方紙なのか全国紙の東京版なのか分からない半端なものから見事に脱皮して、きちんとオピニオン・リーダーとしての役割を意識した紙面作りをしている意欲が紙面を通して感じられるからである。
特に、「戦後60年」と題した特集は、非常に読み応えがあり、「これがあの東京新聞?」と思うことがしばしばだ。その中の「20代記者が受け継ぐ戦争」も今月たった4回紙面を飾っただけで終わってしまったが、数年前から毎年8月に継続している企画とのことで、合点がいった。
つい最近連載していた、日本軍の中国人を人体実験に使った話は、ある意味私にとって戦争をライフワークとしようと決意した原点の一つだ。
それは、「731部隊」とも「石井部隊」とも言われて中国の地元住民に恐れられた、旧日本陸軍関東軍の一部隊の話だ。石井部隊は、表向きは感染の予防や飲料水の浄化を研究するのを目的としていたが、その実態は、中国、朝鮮、ロシア、モンゴルの人たちを使用して細菌・科学戦術実験を行なう科(化)学者集団であった。
子供の頃、私は書店で「三光」(光文社刊)と題された本を手にした。
「捕まえてきた原住民は『丸太』と呼ばれ、実験用に送り込まれた。研究者は、原住民の血管に注射器で空気を入れていき、その丸太が死に至るまでの反応を克明に記録したり、丸太の手足を切り取り、やはり死に至る過程を研究した」
本にはそんな内容の記述が続いた。
私はページを繰るごとに目に飛び込んでくるそのような衝撃的な記述に、心を凍らせた。怒りが身体の芯から湧き上がってきた。怒りの雄たけびを上げたい衝撃に駆られた。もしその時、本屋のオヤジか店員がはたきで私を払いに来たら恐らく喧嘩になったろう。そのくらい大きな衝撃だった。
その怒りはしばらくしてもっと大きくなった。なんと、その「三光」がしばらくして発禁処分になったのだ。
私の記憶では、それは自分が中学か高校に通っている年頃であったはずだが、先程調べてみると、1957年とある。だとすると私はまだ小学生だ。今から自分の半生を振り返ると、まあ、ませた子供だったと少々感慨深いものがある。私は小学生の頃から新聞は毎日隈なく読んでいたし、その種の本も日常的に手にしていた。
成人してAP通信の記者になると、私はある人物を追い続けた。その人物は戦時中、石井部隊に所属した将校で、戦後は東京歌舞伎町で整形外科医院を開業していた。「三光作戦」の実態を証言してもらおうと、何度も突撃取材を試みた。だが、しつこく取材する私に対して彼の口は堅く閉ざされたままついに事実を語ることはなかった。彼が作戦に関わっていた感触はあったし、それは確信に近いものだったが、活字にすることは叶わなかった。
事実は確実に風化するものだが、この問題もそれから時を経ると、三光作戦は中国側がでっち上げた「架空の絵空事」と言い出す者が現れた。「三光」などというのは中国人しか使わない用語で、中国共産党が南京事件と共に作り上げたというのだ。
その三光作戦を「戦後60年」は、再度取り上げた。最近、腰砕け気味で本質を見失いがちのマスコミでは珍しい「腹の据わり」ようだ。敗戦を終戦と言い換え、自らが行なった加害から受けた被害に目を転じさせようとする最近の風潮の中にあって、この姿勢がいつまでも変わらないように願いたいものだ。そのためにも親会社の中日新聞さん、東京新聞の部数をあまり増やさないようにしましょう。肥大化した大手紙が、その巨人故に動きが取れなくなったり、自己矛盾を起こしている姿を目の当たりにされていますよね。
それは、かつての地方紙なのか全国紙の東京版なのか分からない半端なものから見事に脱皮して、きちんとオピニオン・リーダーとしての役割を意識した紙面作りをしている意欲が紙面を通して感じられるからである。
特に、「戦後60年」と題した特集は、非常に読み応えがあり、「これがあの東京新聞?」と思うことがしばしばだ。その中の「20代記者が受け継ぐ戦争」も今月たった4回紙面を飾っただけで終わってしまったが、数年前から毎年8月に継続している企画とのことで、合点がいった。
つい最近連載していた、日本軍の中国人を人体実験に使った話は、ある意味私にとって戦争をライフワークとしようと決意した原点の一つだ。
それは、「731部隊」とも「石井部隊」とも言われて中国の地元住民に恐れられた、旧日本陸軍関東軍の一部隊の話だ。石井部隊は、表向きは感染の予防や飲料水の浄化を研究するのを目的としていたが、その実態は、中国、朝鮮、ロシア、モンゴルの人たちを使用して細菌・科学戦術実験を行なう科(化)学者集団であった。
子供の頃、私は書店で「三光」(光文社刊)と題された本を手にした。
「捕まえてきた原住民は『丸太』と呼ばれ、実験用に送り込まれた。研究者は、原住民の血管に注射器で空気を入れていき、その丸太が死に至るまでの反応を克明に記録したり、丸太の手足を切り取り、やはり死に至る過程を研究した」
本にはそんな内容の記述が続いた。
私はページを繰るごとに目に飛び込んでくるそのような衝撃的な記述に、心を凍らせた。怒りが身体の芯から湧き上がってきた。怒りの雄たけびを上げたい衝撃に駆られた。もしその時、本屋のオヤジか店員がはたきで私を払いに来たら恐らく喧嘩になったろう。そのくらい大きな衝撃だった。
その怒りはしばらくしてもっと大きくなった。なんと、その「三光」がしばらくして発禁処分になったのだ。
私の記憶では、それは自分が中学か高校に通っている年頃であったはずだが、先程調べてみると、1957年とある。だとすると私はまだ小学生だ。今から自分の半生を振り返ると、まあ、ませた子供だったと少々感慨深いものがある。私は小学生の頃から新聞は毎日隈なく読んでいたし、その種の本も日常的に手にしていた。
成人してAP通信の記者になると、私はある人物を追い続けた。その人物は戦時中、石井部隊に所属した将校で、戦後は東京歌舞伎町で整形外科医院を開業していた。「三光作戦」の実態を証言してもらおうと、何度も突撃取材を試みた。だが、しつこく取材する私に対して彼の口は堅く閉ざされたままついに事実を語ることはなかった。彼が作戦に関わっていた感触はあったし、それは確信に近いものだったが、活字にすることは叶わなかった。
事実は確実に風化するものだが、この問題もそれから時を経ると、三光作戦は中国側がでっち上げた「架空の絵空事」と言い出す者が現れた。「三光」などというのは中国人しか使わない用語で、中国共産党が南京事件と共に作り上げたというのだ。
その三光作戦を「戦後60年」は、再度取り上げた。最近、腰砕け気味で本質を見失いがちのマスコミでは珍しい「腹の据わり」ようだ。敗戦を終戦と言い換え、自らが行なった加害から受けた被害に目を転じさせようとする最近の風潮の中にあって、この姿勢がいつまでも変わらないように願いたいものだ。そのためにも親会社の中日新聞さん、東京新聞の部数をあまり増やさないようにしましょう。肥大化した大手紙が、その巨人故に動きが取れなくなったり、自己矛盾を起こしている姿を目の当たりにされていますよね。