昨年の今日は、時間がない出勤の途中で滅多にないこんな風景に出合い、撮らずにはいられなかった。 刺すようなピシッと音がするような冷たい空気は嫌いではなかったのに、今年はもうとてもそんな空気の中へは入っていけなくなった。 時間に追われることもなく、必ずしなければならない事も何もない、自ら正さないといくらでも自堕落になる暮らしだ。 もしかしたら生活のアクセントだったかもしれない認知症の親の行動も、今はない、もうずうっとない。
空っぽの暮らし。
夢を見ていた、どんな夢だったか目覚めた時は既に覚えていなかったけど久しぶりに夢を見ていた。 一時期、毎日夢を見ていて、歳をとると夢を見る様になるのかなと思ったくらいだった。 昨晩NHKの番組で、アルジェリアで亡くなった人の中に毎年放送される私が好きな番組「ロボコン」にその人が参加していてその時の映像が映り、眠りにつくまでずっと考えていたので、何かそれに関係している様な夢だった気がする。 「怪我をしているけど無事です」と肉声が流れた人だ、若い命。 私の親が亡くなって悲しかった気持ちが、少しずつ薄らいでいった寂しさが連鎖する様に重なり今朝も悲しい。
先日クラスメートからの電話で「亡くなってからの方が親と話す様になってない?」と聞かれ、そうだと気が付いた。 朝晩の挨拶はもちろん「今日も寒いよ」「ご飯だよ」「〇〇さんのとこ行ってくるからね」 好物を備えるときは「美味しそうでしょ」 頂くときは「頂戴ね」と云って食べる。 親の夢を見たいものだと思うけど全く見ない。
もう一度お風呂へ入れてあげたかった
もう一度お寿司を食べさせてあげたかった
年越し用に注文したカニを一緒に食べたかった
春になったら桜を・・・・もう一回だけ桜を・・・見せてあげたかった