予約制でありながらいつも1時間は待つ親の受診、今日は1時間半待った。 その待合室でポツンと親が言った。
「○○(弟の名)は焼けたかなぁ」
焼けたって何?どういう意味?
「あらっ!死んだんだよ 今日葬式だよ」
人は、寝たきりの老人や認知症の老人や体の不自由な老人を見ると、あんな風にはなりたくない、コロッと逝きたいものだと大抵は云う。 けれども、不確かながら自分も行く道だと感じ、一方で自分はそうはならないだろうとどこかで願っている。
人にはみな人権があり、人格があり、感情もある。 もちろん寝たきりであっても認知症であっても。
だけど・・・と思う、親を見てると。 喜怒哀楽という感情は一過性の物、だから心を痛め深く悩むとか、音楽や詩や風景に触れ感動に心打たれるとか、人の温かい言葉や態度に感銘するとか、そう云う事ってない様に思う。 勿論、美味しいものを食べると「美味しい!」お花いっぱいのところへ行くと「綺麗だね!」一瞬の事。 老後や将来の不安、生活の不安、そんなものはないだろうし、一緒に暮らしている人間の思いなど知る由もなく・・・・それで良い、それだから彼女は救われる。
歳を重ねるって残酷?それとも慈愛? 他人には分からない、当人にもわからない、結局誰にも分からない。
今日もいっぱい話をしてみた、身上調査? 聞けば聞くほど複雑な家系で
結局私は今のところ函館にいる妹の様だ。
今一番心配な事、困っている事はある?と聞いてみた。
「年金が少ない事」即答。 確かに(笑)
「○○は焼けたかなぁ」にはぎょっとするけれど、息子の死が悲しいと云う感情は無いに等しくそこがと云うかそれでこそ認知症、呆けてしまえばこっちの物、私がそう思う所以。 そんな風にはなりたくない!なんて思わずに呆けもまた楽しで、思い悩むことなく暮らすのが幸せかもしれない。
夕方、ものすごい通り雨と、
夜は、涼しい秋風と、
そんな8月のとある一日。