10月30日(木)
人生には忘れることのできない1日というものがある。誰にも限りある一生。思いある人の逝去は重い。定例役員会を終え、信濃町で知人と打ち合わせをして駅のホームに立っているときのこと。上田耕一郎さんが亡くなったという知らせが届いた。衝撃だった。昨年からの病状は聞いていた。「そんなに早くということはないよ」とご自宅で会った知人からそう知らされていた。とはいえ気になったのでお手紙を書いたのは、まさに勝手な不肖の弟子だったという自覚があったから。想い出を書けば切りがない。
ヘッドオフィスに戻り、「わが師・上田耕一郎さんご逝去の報に接し、衝撃を受けています」にはじまる弔電を書き、携帯電話でご自宅に送る。そもそも17歳の高校生時代から上田さんの人格、理論に魅かれてきた。上京して個人的な交流が深まった。関係が切断される道は小田実さんとの対談を担当したあとからのこと。査問されたとき「君はくよくよするタイプか」と聞かれたので「そうです。どうすればいいんですか」と聞くと「そういうときはほかのことを考えるんだよ」とアドバイスされたこともある。
昨年の参議院選挙が終わったとき、わが共産党経験を新書で書こうと思ったことがある。私が20代から30代にときどき書いていた日記には上田さんとの会話内容が詳しく記録されている。私的精神史を掘り起こそうと考えたのだった。体調が悪化している上田さんの存命中に読んで欲しいと思った。しかし新党日本の副代表としての肩書きがあるいまはやめるべきと判断したのは昨秋のこと。いつかきっと書く。
神保町で上田さんの最後の著作『人生の同行者』(新日本出版社)を入手。対談相手は小柴昌俊さん、鶴見俊輔さん、小田実さん。「萱」で焼酎を飲み、バーで赤ワイン、さらに「北京亭」でビールを飲み、上田さんを独りで偲ぶ。「アリタさん、このバーボンが美味しいんだな」と「ワイルドターキー」を教えてくれたのは、私が職場を追われたあとで誘われた国立のご自宅でのこと。二階の書斎の机上には「朝日ジャーナル」の巻頭に書いた私の記事が置いてあった。
あるとき共産党幹部から「このままでは上田さんがミヤケン(宮本顕治氏のこと)に切られてしまう」と私の編集者時代の仕事をたしなめられたこともあった。小田実さんとの対談が問題とされたあとのこと。赤城宗徳元防衛庁長官との対談を企画したときの想い出である。ネットから削除していた「上田耕一郎という〈私の大学〉」をここに再録する。実は党を除籍されてからの後日談がある。いまは書かない。
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今回の訃報はまことに残念というほかありません。
※有田さん総選挙頑張ってください!応援しています!!
ある夏の夕方、同氏が街頭演説をしているところに行きあわせた。前々から相談していたことがあったので、声をかけると「仕事はすんだ」といって気軽に応じてくれた。「生ビールでも飲もう」というので、びっくりした。というのは当時、アルコールによる事故が多発していたため、外部での飲酒が禁じられていたからだ。
同氏はまったく気にするふうもなく店に入った。酒につよい上耕が2杯目のジョッキを手にすると、同行していた秘書が姿を消した。
また、国会質問の資料がほしいというので、議員会館に持参したことがある。30センチぐらいの分量があった。それにもかかわらず上耕は「予断がはいるから説明はいらない」と断った。委員会質問はその翌日。それをきいてまた驚いた。引用の仕方から、たった一晩ですべてに目をとおしていたことがわかったためだ。
このような上耕であるが、「多重人格者」「党内犯罪の加担者」との批判がある。強力な支配者であった故・宮本顕治氏がおこなった党内弾圧・粛清の共犯であり、自説すら曲げたというものだ。これも一面の事実だろう。
民主集中制とかいう組織原則でしばっている同党では、ごく少数の最高幹部をのぞけば、だれもが強制(イジメ)の加害者であり、被害者になる。企業でもリストラや実績追及の局面では、きょうの加害者があしたの被害者に転じる。だが同党では、ほぼ全員がこのような立場にいる。上耕とて例外ではありえなかったのだ。