有田芳生の『酔醒漫録』

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

石堂清倫さんからの手紙

2006-08-30 10:34:10 | 人物

 8月29日(火)ジムのラウンジで携帯電話を通じてラジオに出演。泳いでから品川へ。舟木稔さんと食事をしながら、これからのテレサ・テンに関連するイベントの打ち合わせをする。第9回世界華商大会が2007年9月15日に神戸で開幕し、17日に大阪で閉幕する。この大会は世界で活躍する華商(中国系の企業経営者)が一堂に会し、経済活動の向上をめざす。日本では外務省、経済産業省、国土交通省が後援し、政治家や財界人が名前を連ねている。実行委員長は蒋暁松・中国人民政治協商会議委員。この蒋氏が台湾のテレサ・テン基金を訪れ、大会への協力を申し入れた。いずれ具体化されるが、この動きに中国政府のテレサという歌手への思い入れが現れている。テレサ・テンの遺志が大陸で形になる日も近い。いつものようにパシフィックホテル東京のバーへ。飯干晃一さんと何度か通った思い出の場所だ。帰宅して資料を整理していたら石堂清倫さんからの手紙が出てきた。人物ノンフィクションを1992年の「サンデー毎日」に書いたとき、掲載誌をお送りしたことへのお礼状だ。その後、奥様が2000年に亡くなり、石堂さんも2001年9月1日に97歳で逝去された。マルクス・エンゲルス全集を翻訳しただけではなく、イタリア共産党の指導者にして理論家のグラムシを日本に紹介した功績は不朽だ。戦争と革命の時代を生き抜いた世代の粒の大きさは、立場の違いを超えて作り上げられたものである。最近の政治家が小粒な理由について「戦争を経験していないからだ」と中曽根康弘元首相は語っている。これは戦争を肯定した発言ではなく、激動の時代が人間を規定するという意味である。創造的理論家がなかなか見受けられない現代にあって、石堂さんの遺したものは、いまなお光彩を放っている。

060829_21090002  清瀬の自宅を訪問したとき、よく手入れされた小さな庭と石堂さんの驚異的な記憶力が強く印象に残っている。私信の公開は本人や遺族の承認が必要だが、いずれも故人となってしまった。文面はプライバシーを侵害するものではなく、わたしの誤認を正す指摘がある。石堂清倫さんのお人柄を偲び、ここに個人的責任で公開する。

 有田芳生様

 このたびは御厚情に浴することができ まことにありがたく存じました 本日ご送付の十部を頂戴いたしました あなたは私のマイナス面には目をつむり「よいところ」をお書き下さったような気がします 本当はこんなではないのでしょうが 老残の私をおはげまし下さったものと ふかく感謝いたします むかしの友人や親戚のものに送ろうと思いますが 晴れがましすぎるようにも思ったりいたします    五月二十七日
                            石堂清倫
 二伸
 ことによるとお電話をいただいているかも知れませんが妻不在のときは 電話がわかりませんので失礼したかと思います それからどうでもよい事ですが、私が戦後東京駅にもどってきたときは三十五でなく四十五でした。 大学のバラック寮を渡辺銀行と結びつけてありましたが、この渡辺の方は 宏徳学寮で本郷へはそのあと移ったのでした べつに改めるほどのことはありませんが、事実だけ申しておきます
 この渡辺銀行の取付が昭和二年の金融大恐慌の発端になったのですが、当主の渡辺勝三郎は 大正デモクラシーの熱気をそのまま持続させたといいたいような人物でした 劇評家の渡辺保氏はその孫ではないかと思います

     (一九九二年五月二十七日付 文中の句読点も原文のまま)