有田芳生の『酔醒漫録』

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吉村昭さんを偲ぶ

2006-08-02 10:08:46 | 人物

 8月1日(火)精神の奥深いところで〈わたし〉が〈わたし〉であることを築きあげてきた大切な存在がまた消えてしまった。早朝に起きて名古屋に出かけ、最終の「のぞみ」で東京に戻ってきたのは午後11時53分。「ザワイド」のスタッフと別れ、ひとり「はら田」のカウンターで黙々と焼酎を飲む。名古屋市港区にある県営住宅で仕事をしているときだった。携帯電話にニュース速報が届いた。作家の吉村昭さんが亡くなったというのだ。とうとうまとまってお話を聞くことが叶わなかったことに喪失感を感じている。この気持ちはやはり作家の須賀敦子さんにお会いすることができなかったときよりも深い。わたしには「失われた10年」がある。オウム事件を原因として、本来為すべき仕事ができなかったからだ。現状告発型ではないノンフィクションを書くことへの熱望である。現実に次から次へと杭を打つ仕事ではなく、未来に向って開かれている過去を描きたいーーそれが精神の支えにもなっていた。テレサ・テンを現代史のなかで記録した『私の家は山の向こう』を描くときの教科書は、実は吉村昭さんの『戦艦武蔵』なのだった。事実を淡々と組み立てることでシーンが立ち上がってくる。吉村さんのその方法に1ミリでも2ミリでも近づきたかった。テレサをどれぐらいの枚数で書くかを思案していたとき、350枚を基本としようと決めたのも、『戦艦武蔵』がその枚数だったからである。フリーランスで仕事をするようになってから、叙述方法でもっとも影響を受けたのも吉村さんだった。歴史小説を書くときに徹底した調査を行ったことは、まさしくノンフィクションの基本的手法だ。たとえば100年前の「ある日」の天気まで、日記の発掘で確定する。生麦事件で使われた刀の長さを記録から探しだし、事件の情況を詳しく蘇らせる。どこまでも事実を追求することで創作をできるかぎり排するのだ。

  
060801_17260001 「ザ
ワイド」で麻原彰晃の精神鑑定を取り上げるかどうかを検討したとき、わたしは吉村昭さんに話を伺うプランをたて、スタッフも新潮社の担当者に連絡を取ってくれた。たまたま「BC級戦犯」の参考文献として『プリズンの満月』(新潮文庫)を読んだとき、吉村さんが戦犯の精神情況を調べていることがわかったからであった。結局企画が形になることはなかったが、番組にとっても吉村さんのような知性に出演していただくことで、質的向上に資することができるはずだった。吉村さんはいちども編集者と取材旅行にでかけたことはない。自分でテーマを設定し、出版社に借りを作ることなく、自ら調査旅行に出かけた。仕事が終れば、地元の酒場のカウンターで一献を傾ける。よく刑事や建築関係者に間違えられたというのも、その風貌からであった。仕事のストレスを解消するために鍼を打ってもらい、その合間にも頭のなかでは執筆の構想をめぐらせていたという。そんな暮らしぶりもわたしにとっては魅力的だった。テレサ・テンを書き上げたとき、もうこれほどのテーマはないだろうと先が見えずに落ち込んだとき、吉村さんの言葉が励ましになった。「書く題材は、探すというより向こうのほうからやってくる」(『創作のとき』、淡交社)というのだ。そして「BC級戦犯」というテーマはたしかに「向こうのほうからやってきた」。鶴見俊輔さんに相談したように、そのうち吉村昭さんにもご意見を伺うつもりだった。そこに不意討ちのように訃報を知らされた。名古屋の小さな公園に佇む。木々の合間から聴こえてくる蝉の低い鳴き声が吉村さんの逝った夏を偲ばせるのだった。東京駅の新幹線ホームで短い立ち話をしたことが一瞬の邂逅となってしまった。