ワタシ、20代後半、身体がだるくて体調が悪くて病院を受診したら、いきなり「癌の疑いあり。」って。
それでより詳しく検査したんだけど、結果は、良性と悪性の確率は五分五分(たぶん当時の医学の限界)。でも決して楽観できるようなものではないので、必ず検査で経過監察してください、と。実家の祖母に電話したら、いきなり電話口で泣かれてしまい。。。(祖母は若い時、看護婦長をしていたのです。)「ああ、ワタシ死ぬんだな」と。「若いから、進行も早いんだろうな。2年位は生きていられるのかな。」って、まるで他人事みたいに、ぼーっと。。。
その時思ったのは、ー想像ではわからないこと、ってあるんだな。
自分の死を意識したとき、人はなにを想うのか。
ワタシがその時思ったのは、
「世界は、なんて美しいんだろう。」
自分でも驚いた。普段は、こんな世の中やだ!とか、汚い事がたくさんある、って思っているのに。
「自分が今まで生きてきたこの世界は、ー青い空に白い雲が浮かんでる、穏やかな日差しだ~。木々の緑、なんて美しいんだろう。そしてワタシはこの美しい世界にお別れするんだ。」って!!
世界の見え方が変わっちゃう!そして自分の生き方も。あとどれくらい生きられるのかわからないのなら、残された時間をどう生きる?!あの時から、それを大切に考えるようになりました。本当の気持ちを一生懸命探す。(まだ、生きてるけど!笑)もし明日地球が終わっちゃうとしたら、何をしたい?って質問みたいな感じかな。
山形に帰ってきて、ほんとによかった!!(自分の知らない自分に出会えた。)
それからのことなんですけどね。癌の検査・・・言われたとおり、始めの頃は毎年。あとからは、一年おき検査続けました。集団検診だと必ずひっかかってしまうので、直接大きな病院で。そしてようやくこれは大丈夫、と言われたのが、2010年震災の前の年なのです。その間、疑いは残ったままといえども、十数年は生き続けたわけで。(これは一体どういうことなんだ?!)と。「たぶん大丈夫だよね。」と、最初の頃の悲壮感はなくなっていましたが。
不思議で面白いことがあったのです。最後に「今の医学の進歩では、これは無罪、と言うんです。よかったですね」と宣告してくれた先生(笑)なんと、十数年前、はじめて山形で検査をしてくれた先生だったのです(ワタシ、なぜか雰囲気を覚えてた)実は、外来は午前中で診察終わりなのですが、受付とワタシの間でお互いの思い違いがあり、午前中に診療を受けることができなかったのです。が、午後から特別に先生が診て下さるということになり、ぽつんと診察室で待っていたのです。そこへ、入ってきた先生、カルテを見るなり「こんなことってあるんだ。初診の時、ぼくが診てるんじゃないか~!!」って。もちろん、十数年も経っていますから、途中担当の先生は何度も変わっています(大きい病院なので)。びっくりしちゃいます。こんなことがたびたび起こってしまう自分に(笑)でも、死を意識した経験は、人生を変えてしまうほど意味のあることなんです。
次の年2011年には、また「人が死ぬ」ということに直面してしまいます。自分が死ぬということよりも、自分以外の大切な人たちが死んでしまうかもしれない、ということの方がずっと怖かった。実際に身内の方を亡くされた方々のことを思うと・・・・。
死ぬ、ということを考えるということは、
生きる、ということを考えることに、自然とつながっていくと思うんです。
先日、久しぶりに会う方と新年会と称してお話してたんですけど(面白かったー。ふふっ)
ワタシも過去の話なんかをしちゃって(歳とったからさっ)振り返ってみて、自分でも、なんでもやってみる(挑戦してみる)ということをしないで、自分がやりたいと思えなければ「やりません。」って。なんでもかんでも「やりません。」幼稚園児の「嫌々園」みたいだな~って(笑)ワタシのためを思って、チャンスを与えようとしてくれてる人に対して、ね~。ーいつも感謝はしていました。信じてもらえないかもしれないけど。どうしたらよかったんだろ?
今でこそ、あれは挑戦してみたかったかも。なんて思わなくはないこともあるけど、「未来を知ってから」では、ずるいでしょ。自分で納得できるのは、その時の自分の思いとか、なんで「嫌です、やりません」って答えたかの理由を今でもちゃんと言葉にできること。あの時、精一杯考えて出した答えは、あの時の自分そのもの。
いろいろな大きな災害や、世界各地の紛争
死が近いものになればなるほど、生きる意味を考えることも多くなる気がする。それは大切なこと。
そして、(ワタシにとって)「世界は、なんて美しい」って感じたあの時のことは、神様のくれた贈り物、のような気がする。
それでより詳しく検査したんだけど、結果は、良性と悪性の確率は五分五分(たぶん当時の医学の限界)。でも決して楽観できるようなものではないので、必ず検査で経過監察してください、と。実家の祖母に電話したら、いきなり電話口で泣かれてしまい。。。(祖母は若い時、看護婦長をしていたのです。)「ああ、ワタシ死ぬんだな」と。「若いから、進行も早いんだろうな。2年位は生きていられるのかな。」って、まるで他人事みたいに、ぼーっと。。。
その時思ったのは、ー想像ではわからないこと、ってあるんだな。
自分の死を意識したとき、人はなにを想うのか。
ワタシがその時思ったのは、
「世界は、なんて美しいんだろう。」
自分でも驚いた。普段は、こんな世の中やだ!とか、汚い事がたくさんある、って思っているのに。
「自分が今まで生きてきたこの世界は、ー青い空に白い雲が浮かんでる、穏やかな日差しだ~。木々の緑、なんて美しいんだろう。そしてワタシはこの美しい世界にお別れするんだ。」って!!
世界の見え方が変わっちゃう!そして自分の生き方も。あとどれくらい生きられるのかわからないのなら、残された時間をどう生きる?!あの時から、それを大切に考えるようになりました。本当の気持ちを一生懸命探す。(まだ、生きてるけど!笑)もし明日地球が終わっちゃうとしたら、何をしたい?って質問みたいな感じかな。
山形に帰ってきて、ほんとによかった!!(自分の知らない自分に出会えた。)
それからのことなんですけどね。癌の検査・・・言われたとおり、始めの頃は毎年。あとからは、一年おき検査続けました。集団検診だと必ずひっかかってしまうので、直接大きな病院で。そしてようやくこれは大丈夫、と言われたのが、2010年震災の前の年なのです。その間、疑いは残ったままといえども、十数年は生き続けたわけで。(これは一体どういうことなんだ?!)と。「たぶん大丈夫だよね。」と、最初の頃の悲壮感はなくなっていましたが。
不思議で面白いことがあったのです。最後に「今の医学の進歩では、これは無罪、と言うんです。よかったですね」と宣告してくれた先生(笑)なんと、十数年前、はじめて山形で検査をしてくれた先生だったのです(ワタシ、なぜか雰囲気を覚えてた)実は、外来は午前中で診察終わりなのですが、受付とワタシの間でお互いの思い違いがあり、午前中に診療を受けることができなかったのです。が、午後から特別に先生が診て下さるということになり、ぽつんと診察室で待っていたのです。そこへ、入ってきた先生、カルテを見るなり「こんなことってあるんだ。初診の時、ぼくが診てるんじゃないか~!!」って。もちろん、十数年も経っていますから、途中担当の先生は何度も変わっています(大きい病院なので)。びっくりしちゃいます。こんなことがたびたび起こってしまう自分に(笑)でも、死を意識した経験は、人生を変えてしまうほど意味のあることなんです。
次の年2011年には、また「人が死ぬ」ということに直面してしまいます。自分が死ぬということよりも、自分以外の大切な人たちが死んでしまうかもしれない、ということの方がずっと怖かった。実際に身内の方を亡くされた方々のことを思うと・・・・。
死ぬ、ということを考えるということは、
生きる、ということを考えることに、自然とつながっていくと思うんです。
先日、久しぶりに会う方と新年会と称してお話してたんですけど(面白かったー。ふふっ)
ワタシも過去の話なんかをしちゃって(歳とったからさっ)振り返ってみて、自分でも、なんでもやってみる(挑戦してみる)ということをしないで、自分がやりたいと思えなければ「やりません。」って。なんでもかんでも「やりません。」幼稚園児の「嫌々園」みたいだな~って(笑)ワタシのためを思って、チャンスを与えようとしてくれてる人に対して、ね~。ーいつも感謝はしていました。信じてもらえないかもしれないけど。どうしたらよかったんだろ?
今でこそ、あれは挑戦してみたかったかも。なんて思わなくはないこともあるけど、「未来を知ってから」では、ずるいでしょ。自分で納得できるのは、その時の自分の思いとか、なんで「嫌です、やりません」って答えたかの理由を今でもちゃんと言葉にできること。あの時、精一杯考えて出した答えは、あの時の自分そのもの。
いろいろな大きな災害や、世界各地の紛争
死が近いものになればなるほど、生きる意味を考えることも多くなる気がする。それは大切なこと。
そして、(ワタシにとって)「世界は、なんて美しい」って感じたあの時のことは、神様のくれた贈り物、のような気がする。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます