私は毎朝、仕事に行くため5:30過ぎには家を出ます。
昨日まで「朝がくるのが遅くなったなぁ」と思いながら家を出ていましたが、
今朝は、とてもきれいな朝焼けの中、空に見とれての出勤でした。
曇りと晴れの日って、こんなにも夜明けの感じが違ったんだ!と
改めて感じた通勤時間でした。
「環境を調整する」という言葉を初めて聞いたのは、
10年ちょっと前、学校の中で支援員という仕事をやりはじめた頃のことだったと思います。
支援員を束ねていた、S市の教育委員会での研修で、
「目移りがしやすかったり、こだわりがある子など教室の中はスッキリとしていた方が学習しやすい」
「子どもが学習しやすいように、教室の環境を整えましょう!」
「時と場合によっては、子どもが起こす問題行動は無視して、その子ひとりにしましょう」などという話を聞き、
支援員ペーペーの私は、そんなものなのかぁ〜と思ったものでした。
その後、私は学習するときには子どもの前に不必要に物を置かないようにしたり、
あまり、いらないことを言わないようにしたり、
ぎゃーぎゃー暴れ文句を言う子をいないものとして無視して淡々としたり…としていました。
でも、不必要ではない、三色ペンに興味を持って話しかけてきたり、
私の持っている消しゴムに興味を持ったり、時間割の話をしてきたりと、
話があちらこちらに行ったり、気が散ったりということは多々ありました。
また、「いや、これ、無視してる場合か?!」というような
理不尽な言動をする子どもがいて、なんだか気持ちがもわぁ〜っとしていました。
そんなことが起こるたびに、使っていたペンを子どもから見えないところに隠し持ったり、
目にしたものからの話を早々に切り上げるような発言で遮ったり、
聞こえない、見えていない風で子どもの言動を無視したり、そんなことをしていました。
でも、あれ?なんか、違わない?
学習する環境は、ごちゃごちゃしてるよりスッキリしてた方が、気持ちはいい。
でも、子どもがふと、目についたことは興味があることかもしれないのではないのかな、
子どもが、今なんでその話し?と思うような話も、
その子の探究心や好奇心を刺激する元になったのではないのかな?
普通のクラスでは通用しない子どものおかしな言動を注意もしないというのは、
この子はどうでもいいということにならないのかなぁ。
そんなことを考えるようになりました。
そして、私が支援員として研修で教えてもらったことは、
「いかに、子どもを黙って座らしておくか」ということだったり、
「どうやって、最小限の出力で子どもと接するか」ということだったのではないかな、と思うに至ったのです。
子どものためではなく、
子どもの周りの大人や支援者にとって都合の良い環境調整ということだったのではないかなぁ、と。
そして、この支援や療育で用いられる環境調整ということは、
実は支援や療育を必要とする子どもなり、成人を最小限の労力で管理するか、ということのために
作られた言葉で、決して、支援や療育が必要な子どもや成人の方々が
より生きやすく、より自分らしく生きるためのアイテムではない、と気がつきました。
そこからは、一見、関係なさそうな子どもがする動きや話の中に
子どもの発達の息吹が感じられないかなぁ、と思いながら、
子どもの話を聞くようにしました。
また、子どもの言動もおかしいところは「おかしいよ」と言い、
子どものストレスがチャラになるように身体を動かすということを、
でき得る限りするようにしました。
そんな人だったら当たり前の日常が、
「環境調整」という言葉でぶっ飛んでしまうおかしさに、
支援する人はもちろんですが、親御さんにも気がついて欲しいな、と思うことです。
昨日まで「朝がくるのが遅くなったなぁ」と思いながら家を出ていましたが、
今朝は、とてもきれいな朝焼けの中、空に見とれての出勤でした。
曇りと晴れの日って、こんなにも夜明けの感じが違ったんだ!と
改めて感じた通勤時間でした。
「環境を調整する」という言葉を初めて聞いたのは、
10年ちょっと前、学校の中で支援員という仕事をやりはじめた頃のことだったと思います。
支援員を束ねていた、S市の教育委員会での研修で、
「目移りがしやすかったり、こだわりがある子など教室の中はスッキリとしていた方が学習しやすい」
「子どもが学習しやすいように、教室の環境を整えましょう!」
「時と場合によっては、子どもが起こす問題行動は無視して、その子ひとりにしましょう」などという話を聞き、
支援員ペーペーの私は、そんなものなのかぁ〜と思ったものでした。
その後、私は学習するときには子どもの前に不必要に物を置かないようにしたり、
あまり、いらないことを言わないようにしたり、
ぎゃーぎゃー暴れ文句を言う子をいないものとして無視して淡々としたり…としていました。
でも、不必要ではない、三色ペンに興味を持って話しかけてきたり、
私の持っている消しゴムに興味を持ったり、時間割の話をしてきたりと、
話があちらこちらに行ったり、気が散ったりということは多々ありました。
また、「いや、これ、無視してる場合か?!」というような
理不尽な言動をする子どもがいて、なんだか気持ちがもわぁ〜っとしていました。
そんなことが起こるたびに、使っていたペンを子どもから見えないところに隠し持ったり、
目にしたものからの話を早々に切り上げるような発言で遮ったり、
聞こえない、見えていない風で子どもの言動を無視したり、そんなことをしていました。
でも、あれ?なんか、違わない?
学習する環境は、ごちゃごちゃしてるよりスッキリしてた方が、気持ちはいい。
でも、子どもがふと、目についたことは興味があることかもしれないのではないのかな、
子どもが、今なんでその話し?と思うような話も、
その子の探究心や好奇心を刺激する元になったのではないのかな?
普通のクラスでは通用しない子どものおかしな言動を注意もしないというのは、
この子はどうでもいいということにならないのかなぁ。
そんなことを考えるようになりました。
そして、私が支援員として研修で教えてもらったことは、
「いかに、子どもを黙って座らしておくか」ということだったり、
「どうやって、最小限の出力で子どもと接するか」ということだったのではないかな、と思うに至ったのです。
子どものためではなく、
子どもの周りの大人や支援者にとって都合の良い環境調整ということだったのではないかなぁ、と。
そして、この支援や療育で用いられる環境調整ということは、
実は支援や療育を必要とする子どもなり、成人を最小限の労力で管理するか、ということのために
作られた言葉で、決して、支援や療育が必要な子どもや成人の方々が
より生きやすく、より自分らしく生きるためのアイテムではない、と気がつきました。
そこからは、一見、関係なさそうな子どもがする動きや話の中に
子どもの発達の息吹が感じられないかなぁ、と思いながら、
子どもの話を聞くようにしました。
また、子どもの言動もおかしいところは「おかしいよ」と言い、
子どものストレスがチャラになるように身体を動かすということを、
でき得る限りするようにしました。
そんな人だったら当たり前の日常が、
「環境調整」という言葉でぶっ飛んでしまうおかしさに、
支援する人はもちろんですが、親御さんにも気がついて欲しいな、と思うことです。