みなさんは、ピアノなりバイオリンなりを弾くとき、頭の中でどう歌っていますか??
つまり、いわゆる「バッハのメヌエット」(実際はバッハじゃないらしいが)を弾くときに
「レーソラシドレーソッソ」←固定ド
と歌うのか
「ソードレミファソードッド」←移動ド
と歌うのかって話ですけど。要するに前者は、ドレミファソを「音名」として使っていて、後者は「階名」として使っているわけですね。
私もそうなんですが、大半の方は固定ドのほうじゃないかと思います。「桐朋子供のための音楽教室」系であれ、「ヤマハ音楽教室」系であれ、日本のメジャーどころはあらかた「固定ド」を徹底して教えていますし、個人の先生についていたとしても、その先生が「固定ド」で育った場合は当然そのように教えますから。
「固定ド」のメリットは、なんといっても、口で言っているとおりに鍵盤を押さえれば(あるいはバイオリンであれば左手で弦を押さえれば)音程を作れるということです。便利です。転調が頻繁な場合にも混乱することがありません。
一方、デメリットとしては、調についての意識が薄くなりやすいということがあります。ぶっちゃけ、どこが主音なのか意識しなくても、今どこにシャープ(またはフラット)が付くのかさえ覚えていれば弾けてしまいますからね。
私は、年末年始にバッハを弾いていたので、バッハつながりで「やわらかなバッハ」(橋本絹代、春秋社)を読んでいました。すると、この著者は、「固定ド」教育がだいっ嫌いなんですね。
まず、もともと「ドレミ」という呼び方は階名だったのに、それを音名に使っていること自体が間違いで、混乱を呼ぶといいます。しかし実際のところ、「固定ド」どっぷりの人は、固定ドで歌っているときそれを階名と混乱することもなく、むしろドレミが階名だったことを忘れて使ってますから、元の流用が間違っていたとしても別に混乱を招いているわけじゃないと思いますが。
この著者がいうには、絶対音感の持ち主じゃない人が固定ド教育を受けてしまうと、鳴っている音が何の音か認識できないので、暗譜も飛びやすいし音楽として理解できない。そして、ノーミスで「弾ける」のに、今練習中の同じ曲を先生が弾いていたら何の曲かわからなかったという少女の例を挙げます(しかも他の本からの孫引き)。
全体にこの著者は、論理的に話を運ぶことをしないですべて自分の好みにしたがって結論へ引っ張っていくので、読んでいると頭がウニになります。百歩譲ってそういう少女が実在したとしても、「固定ド」だと音が聞けなくて「移動ド」なら聞けるという根拠になってませんね…説明するまでもないことですが。
私の先生は、バリバリの「固定ド」の人で、しかも調性マニアです。ショパンの装飾音まで(^^;; ありえない早口で「固定ド」で歌いながら弾くことができます。暗譜が飛ぶこともなく、聞いた音をすべて認識できますし、和音の機能まで修論で取り上げるほどばっちりです。
だから、「固定ド」なら聴音もできない、自分の声で歌も歌えない、調性感覚も身につかないとかそういうことではまったくなく、むしろ例えば「桐朋子供のための音楽教室」で育った人なら、聴音もソルフェージュも音楽理論もばっちり勉強して身につけていることでしょう。
しかし、私の場合のような、「固定ド」でピアノを弾くだけで、ほかの勉強をしていない人はどうでしょうか。
件の少女のような例は稀で、相対音感しか持っていない人(私を含む)でも、頭の中に鳴っている、またはその場で演奏されている音を聞き取ることは十分にできると思います。リファレンスの音が最初にあれば、絶対音感を持っている人と同じことですし、仮にリファレンスがなくて、スタートの音が違っていても、そこから相対的につじつまが合うように聞き取ることはできます。
調性感覚のほうはどうでしょうか…私ほどぼんやりした人は少ないかもしれませんが、私の場合はそういえば主音を意識しないで弾いていることがほとんどでしたし、どの和音が「トニック」なのかということも意識していませんでした。
移動ドの人が、鍵盤を弾くためには変換が必要なのと裏表の関係にあることとして、固定ドの人は、階名(音の機能)を意識するためには変換が必要になります。そして、固定ドの人は、その変換をしていなかったとしても、とりあえず曲を弾くことはできてしまうわけです。
この先に進むかどうかは、本人に任されているといえます。
つまり、いわゆる「バッハのメヌエット」(実際はバッハじゃないらしいが)を弾くときに
「レーソラシドレーソッソ」←固定ド
と歌うのか
「ソードレミファソードッド」←移動ド
と歌うのかって話ですけど。要するに前者は、ドレミファソを「音名」として使っていて、後者は「階名」として使っているわけですね。
私もそうなんですが、大半の方は固定ドのほうじゃないかと思います。「桐朋子供のための音楽教室」系であれ、「ヤマハ音楽教室」系であれ、日本のメジャーどころはあらかた「固定ド」を徹底して教えていますし、個人の先生についていたとしても、その先生が「固定ド」で育った場合は当然そのように教えますから。
「固定ド」のメリットは、なんといっても、口で言っているとおりに鍵盤を押さえれば(あるいはバイオリンであれば左手で弦を押さえれば)音程を作れるということです。便利です。転調が頻繁な場合にも混乱することがありません。
一方、デメリットとしては、調についての意識が薄くなりやすいということがあります。ぶっちゃけ、どこが主音なのか意識しなくても、今どこにシャープ(またはフラット)が付くのかさえ覚えていれば弾けてしまいますからね。
私は、年末年始にバッハを弾いていたので、バッハつながりで「やわらかなバッハ」(橋本絹代、春秋社)を読んでいました。すると、この著者は、「固定ド」教育がだいっ嫌いなんですね。
まず、もともと「ドレミ」という呼び方は階名だったのに、それを音名に使っていること自体が間違いで、混乱を呼ぶといいます。しかし実際のところ、「固定ド」どっぷりの人は、固定ドで歌っているときそれを階名と混乱することもなく、むしろドレミが階名だったことを忘れて使ってますから、元の流用が間違っていたとしても別に混乱を招いているわけじゃないと思いますが。
この著者がいうには、絶対音感の持ち主じゃない人が固定ド教育を受けてしまうと、鳴っている音が何の音か認識できないので、暗譜も飛びやすいし音楽として理解できない。そして、ノーミスで「弾ける」のに、今練習中の同じ曲を先生が弾いていたら何の曲かわからなかったという少女の例を挙げます(しかも他の本からの孫引き)。
全体にこの著者は、論理的に話を運ぶことをしないですべて自分の好みにしたがって結論へ引っ張っていくので、読んでいると頭がウニになります。百歩譲ってそういう少女が実在したとしても、「固定ド」だと音が聞けなくて「移動ド」なら聞けるという根拠になってませんね…説明するまでもないことですが。
私の先生は、バリバリの「固定ド」の人で、しかも調性マニアです。ショパンの装飾音まで(^^;; ありえない早口で「固定ド」で歌いながら弾くことができます。暗譜が飛ぶこともなく、聞いた音をすべて認識できますし、和音の機能まで修論で取り上げるほどばっちりです。
だから、「固定ド」なら聴音もできない、自分の声で歌も歌えない、調性感覚も身につかないとかそういうことではまったくなく、むしろ例えば「桐朋子供のための音楽教室」で育った人なら、聴音もソルフェージュも音楽理論もばっちり勉強して身につけていることでしょう。
しかし、私の場合のような、「固定ド」でピアノを弾くだけで、ほかの勉強をしていない人はどうでしょうか。
件の少女のような例は稀で、相対音感しか持っていない人(私を含む)でも、頭の中に鳴っている、またはその場で演奏されている音を聞き取ることは十分にできると思います。リファレンスの音が最初にあれば、絶対音感を持っている人と同じことですし、仮にリファレンスがなくて、スタートの音が違っていても、そこから相対的につじつまが合うように聞き取ることはできます。
調性感覚のほうはどうでしょうか…私ほどぼんやりした人は少ないかもしれませんが、私の場合はそういえば主音を意識しないで弾いていることがほとんどでしたし、どの和音が「トニック」なのかということも意識していませんでした。
移動ドの人が、鍵盤を弾くためには変換が必要なのと裏表の関係にあることとして、固定ドの人は、階名(音の機能)を意識するためには変換が必要になります。そして、固定ドの人は、その変換をしていなかったとしても、とりあえず曲を弾くことはできてしまうわけです。
この先に進むかどうかは、本人に任されているといえます。