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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

言語化

2025年05月31日 | 日記
言語化

 床屋さんへ行きますと何でも無い会話をします。「新しく出来たあそこの歯医者さん」「齊藤さんですね、お母さんと息子さんでやっている」「そうそう、でもお母さんは今は古い患者さんだけ診ているのよ」「そんな感じですね」「お母さんはね、近所の陽だまりカフェでお手伝いしてるのよ。お店の前のテーブルに子供達が集まって来てハンコを。ハンコを集めるとコーヒーが1杯無料に。あれ、なんて言ったっけ・・・」「スタンプラリーですかね」「そうそう」。   

 こんな会話を続けるのですが、床屋のおばさんはなかなか言葉が出て来ません。リタイアしている私と違って散髪しながらお客さんと私よりずっとおしゃべりしている筈なのに、またおばさんは私と同い歳なのにどうした事でしょうか。

 確かに年を取りますと言葉が出にくくはなりますね。私など言葉が出るのに1秒くらい掛かります。しかしおばさんは言葉が出て来ないのです。ちょっと怖いですね。

 Facebook を見ていますと、お友達の投稿だけだとすぐに終わってしまうからでしょうか、Facebook は色々な写真や絵を次々と出してくれて私を飽きさせません。色々な国内外の観光地の写真は興味をそそりますね。

 Facebook はクイズも出してくれます。左と右に同じような絵が有って、左と右で3つの間違いを探せと言うものですが、これがなかなか難しい。私は3つのうち2つ分かれば自分にOKを出すのですが、たまには3つ共分かりまして、この時には達成感が有りますね。

 私がこのクイズをやっていますと妻がPC画面を覗き込みます。「分かる?」と聞きますと妻はしばらく画面を見て「あ、これ」そして「それとここ」。2人で同じ画面を見ていますから「これ」や「ここ」でも分かるのですが、私は出来るだけそれを言葉にするようにしています。例えば男の子と女の子がお絵かきをしている画面では、「右上の猫のしっぽ、左は上を向いているけど右は下を向いている」「画面左下のブルーのクレヨンが右は短い」と、こんな具合です。言語化の訓練ですかね。また名前がはっきりと分からない時にはBing やGoogle に聞いてみます。「茶道でお茶を混ぜる道具を何と言う?」「茶筅」、「茶道でお茶をすくうスプーンを何と言う?「茶匙」と、こんな具合で忘れていた語彙を戻します。

 自分が書いた文を自分が読んだ時に気持ちよく意味が分かるか?これにいつも気を付けていますが、目で見たものを言語化する、言語化には日頃の訓練が必要ですね。

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はじめての長崎

2025年05月24日 | 日記
はじめての長崎

 私は熊本の出身なのにまだ長崎へは行った事が有りません。そこで「はじめての長崎3日間」と言うパッケージツアーを見つけ、大学時代からの親友の夫婦を誘いうちの夫婦との4人で長崎へ行って来ました。

 1日目

 お昼過ぎに羽田を出発の飛行機なので長崎に着きますとすぐにホテルへ向かってチェックイン、夕食はバイキングなのでつまりませんでしたがホテルの部屋からの眺めは素晴らしく長崎の海が一望出来ました。

 2日目

 この日は平戸大橋→平戸の田平天主堂→佐世保の展海峰からの九十九島(くじゅうくしま)の展望→長崎の平和公園の観光でした。昨年に山口県の日本海側の角島大橋の(これが日本の景色なのかと思わせるような)絶景を見たばかりでしたので平戸大橋の景色はいまいちでしたね。次には平戸の田平天主堂へ行きましたが、ここは私に強い印象を与えてくれました。観光客も少ない小さな赤レンガ作りのカトリック教会でしたが、教会から一段下の芝生の庭の側面には岩窟が作って有り、岩窟には聖母マリアの像が有ります。これをルルドと言うそうですが、フランスのルルドの奇跡を表現したものだそうです。

 次にバスは佐世保の展海峰と言う小高い丘に向かい、そこからは九十九島の(昔のシネラマを思わせるような)広大な景色を展望しました。そして昼食を挟んで長崎の平和公園へ。

 平和公園にはテレビでよく見る巨大な平和祈念像が有ります。その近くには黒い塔が有り、原爆の爆心地を示す標識だそうです。黒い塔の近くには茶色の塔が有り、これは浦上天主堂の焼け焦げた壁を移設したものでした。そして近くには長崎の鐘が移設してあります。サトウ・ハチローの作詞で藤山一郎が歌った「長崎の鐘」、42才の時に39才の先の妻を亡くした私はこの「長崎の鐘」の2番「召されて妻は天国へ」のところで涙が出そうになります。

 この日の観光を終えてバスは細くて急で曲がりくねった山道を登ってホテルに着きました。夕食は美味しいしっぽく料理を堪能、そしてホテルの窓からは長崎の夜景(これは絶景)を見降ろします。パンフレットには世界三大夜景と書いてありますがこれは日本三大夜景の間違いでしょうね。三大夜景とは長崎?神戸?熱海?と私達は語り合いましたが、熱海では無く函館だったようです。

 3日目

 夜中は大変な雨風の嵐でした。早朝にホテルの庭に出ますと一面の霧、軍艦島の観光は出来るのでしょうか。そして案の定、バスに乗り込みますと添乗員の女性は言います、「時化(しけ)の為、今日の軍艦島観光は中止です」。

 軍艦島上陸クルーズが中止になりましたのでこの日の観光は時間が大余り。先ずはグラバー園、グラバー亭は小高い丘の上に有りますので長いエスカレーターを何本も乗り継いで丘のてっぺんへ向かいました。グラバー亭の中をぐるりと回り、庭からは多くの船が浮かぶ長崎の港が一望出来ます。しかし、そもそもグラバーとは何者か。アメリカで南北戦争が終わり多くの武器が余りますと武器商人がこれを日本に持ち込み薩摩や長州に高く売りつけたようです。グラバーはその武器商人、死の商人だった訳ですね。庭園は綺麗でしたがその仕事は汚いものでした。
グラバー園の近くには大浦天主堂が有ります。そして教会の入り口には聖母マリアの像が有りました。私の親友夫婦は教会の中で録音された説明を聞くふりをしながら、グラバー園で歩き疲れた脚を休めていました。

 ここで私は考えます。昨日の田平天主堂と言いこの大浦天主堂と言い、聖母マリアを大切にするのは何故だろうか?佐保田鶴治さんが何かの本に書いていましたが、「男の神様も偉いけれど男の神様は何もしてくれない」。紛争時には神様は正義を振りかざしてくれますが、平時に人々が求めるのは愛でしょう。愛と言えば聖母マリアですね。ところで宗教とは何か?信仰とは何か?私が思いますに宗教とは「自己の探求」、そして信仰とはその「自己の探求を神様にお預けする事」でしょう。すると日本にはキリスト教と同じく「信仰」を教える浄土真宗が有りますよね。どうして長崎の人達は浄土真宗では無くキリスト教を選んだのだろうか?そう、浄土真宗には女性の神様がおられません。私はこれで納得しました。

 入場料が1800円もする軍艦島デジタルミュージアムを見て長崎新地中華街で昼食のあと、私達は眼鏡橋と出島の観光をしました。眼鏡橋のあたりを歩いていますと、眼鏡橋が掛かる川は熊本の熊本城の下を流れる坪井川のようだと感じました。同じ九州の匂い。

 私達の長崎観光はこれで終わり、私達は何故か佐賀空港から羽田へ戻りました。今回軍艦島観光は出来ませんでしたが気心の知れた親友夫婦との旅行は終始笑いが絶えず、楽しい思い出となりました。



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自分がストレス

2025年05月10日 | 日記
自分がストレス

 調子が悪くて医者へ行きますと、若い頃は「ストレス」そして年を取ると「老化」で片づけられます。しょうがないですね。

 私はこれまで若い頃にはストレスフルな環境や条件の中で生きていたのだと思っていましたが、最近それは事態の半面しか見ていなかったのだと気づきました。ストレスフルな環境や条件の中に有って、実は私自身がストレスだった、私の心や体自体がストレスだったのだ。私の若い頃、心や体はいつもざわざわしていました。そしてそのざわざわに従って仕事で忙しい中に有っても恋をし、結婚をし、子供達に恵まれて来ました。実は私の本能自体がストレスだったのです。(得意先や職場の環境等の)周りもざわざわ、そして私の中身もざわざわしていましたね。本能恐るべし。

 最近NHKの連続テレビ小説「あんぱん」を観ていますと河合優実の演技が素晴らしい。感情の動きをセリフでは無く目や体の動きで表現していますね。そして河合優実の演技を見ていますと「官能的」と言う言葉が頭に浮かびます。私など官能的とは誰がその言葉を作ったのだろうかと感心してしまいます。官能の官とは体の事、そして能とは働きの事ですから、官能的とは体の働きの表現、つまり本能の働きの表現と言う事になりますね。まさに自分の中身のざわざわを河合優実は見事に表現しています。人間の賛歌。

 そしてこの「ざわざわ」とはインドのサーンキヤ哲学のプラクリティ(現象世界)の事。ヴェーダーンタ思想や仏教はこのプラクリティ(現象世界)をマーヤー(幻)で有るとして否定しますがサーンキヤ哲学は堂々と肯定します。これが後(のち)にタントラのシャクティになるのですから堪りませんね。「官能的」、良いですねえ。
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息を2度吐く

2025年04月26日 | 日記
息を2度吐く

 私は毎朝うちの祭壇にお花とお線香をあげてお参りをしています。大きく息を吐き、そして息を吸う時にお腹→胸→鎖骨→肩→首→眉間→頭のてっぺんへと意識を移しながら尊敬する人達や神様の名前を心で呼び、息を吸い終わると今度はゆっくりと大きく息を吐きながらジバナンダ・ゴーシュ先生から戴いたマントラを唱える、これを2度やります。お参りの前には写真(画)のシヴァ神、ババジ、ラヒリ・マハサヤ、ババ・タラクナス、タラケッシャルの石の神様にご挨拶し、またお参りの後には画のシヴァ神、パールヴァティー、ガネーシャ、ラーマとシーター、ヴィシュヌ神とラクシュミーそしてドゥルガー女神にご挨拶をします。これは神様を近くに感じられて気持ちの良いものです。

 私はこの時にペール・ウインターさん(プレム・ヨギ)の教えに従って大きく息を吸い上げる事に集中していたのですが、最近、息の吐き方に変化が出て来ました。息を吐く時に大きく息を吐き終わりますと更にお臍(へそ)の下でもう1度息を吐き切るようになったのです。大きくゆっくりと息を吐き、更にお臍(へそ)の下で息を吐き切りますと、お臍(へそ)の下にかなりの空気が残っていたのが分かります。

 このように息を2度吐いてお臍(へそ)の下で息を吐き切りますと、今度は息を吸い上げる時に随分と余裕が出て来まして、尊敬する人達や神様の名前を(心の中で)呼びます時にゆっくりと楽に出来るようになります。

 この、息を2度吐いて更に息を吐き切る事の効果ですが、なんだか余裕の心が得られるようです。

 私が初めてインドへ行きました時に、ヴァラナシ(ベナレス)のガイドのK.K.シンさんが「神様はひとつ、その役割によって名前が変わるだけ」と言いましたが、本当にそうだと思います。朝の礼拝の時に私は数々の神様にご挨拶しますが、そもそも神様はひとつ。

 そして私が神様を想定しますのは、やはりこの世に1番上の存在が有るとなんだか納まりが良く、安心して落ち着けるからでしょう。余裕の心ですかね。

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不安の増幅を止める

2025年04月12日 | 日記
不安の増幅を止める

 明け方近くに目が覚めますと少し尿意を覚えます。そこでこのあとも熟睡出来るようにトイレへ行っておこうと布団を出て2階の寝室から1階のトイレヘ降りて用を足し、階段を上って寝室へ、もとの布団に戻りますと色々な想念が次々と起こっては消えます。そこでひとつの想念に引っ張られますと想念は奥へ奥へ、それに伴って不安の感情もみるみると増大して行きます。こんな時に楽しい想念等は浮かんで来ませんね。

 体は本能的に死を恐れますから、死なないように死なないようにとこれから起こるだろう嫌な事を次から次へと想像を膨らませて予想し、そうすると再びの熟睡どころでは有りません。想念の増幅、不安の増幅は防げないものでしょうか。私はこの不安の増幅を止める方法をひとつ見つけました。

 体の声を聴く、これです。

 布団の中でじっと体を伸ばしていますと、階段を降りて登って来たばかりですので太腿(ふともも)の筋肉がピクピクしているのが分かります。このピクピクを観察していますとあら不思議、意識はピクピクに向かい、そして一方の想念は消えてしまい、気が付きますと深い眠りに入っていて、いつもの起床時間には楽しい夢から覚めて、新しい朝が来た~♬と起床します。体の声を聴く、これは効き目が有りました。

 皆さんも布団の中で不安な想念が起こったら、この体の声を聴く、を試してみては如何でしょうか?抑えるでは無く、逸(そ)らすですかね。
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