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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

YOUは何しにコルカタへ?

2024年06月08日 | 日記
YOUは何しにコルカタへ?

 私のお気に入りのブログ「うちこのヨガ日記」のうちこさんが先月のゴールデンウイークにインドのコルカタ(カルカッタ)へいらしたそうです。私がコルカタ(カルカッタ)へ行った34才と40才の頃(だいたい40年前)は成田からバンコック経由のカルカッタへの直行便が有りましたが今は無くなっています。そうしますと成田からニューデリーへ飛びそこで国内線に乗り換えてコルカタへ行くルートになるのですがニューデリーとコルカタはインド亜大陸の西と東、かなり面倒ですしコルカタには有名な観光地も有りませんから旅行社のパッケージツアーを見てもコルカタ観光のツアーは見当たりません。ところが今年から成田からバングラデシュのダッカへ飛びそこで乗り継いでコルカタへ行くルートが出来たそうで、それだと速いし少しは安そうで、うちこさんはこのルートでコルカタに入りました。

 うちこさんはIT企業に勤めるヨガ講師なのでITに強く、スマホのアプリを使って安いホテルを取ったりタクシーを呼んだりします。ところが予約しておいた安宿がキャンセルになっていたりアプリでバイクタクシーを呼んだら5台程のバイクが集まって来てどのバイクがアプリで呼んだバイクなのか分からず混乱してしまうなどの珍道中です。

 私の時はイギリススタイルのヒンドスタンホテルに宿泊し現地ガイドを雇って観光しましたがうちこさんは安宿に泊まり現地のお友達に案内して貰いますのでいきおい行動範囲も狭くなるようです。

 ブログを読んでいますとうちこさんの現地での訪問先が次々と紹介されます。コルカタ大学とアシュトシュ・ミュージアム→ハウラー橋とハウラー駅→ネルー子供博物館とインド博物館→美術アカデミーとフイルムセンター→ヴィクトリアメモリアル。

 ハウラー橋。ほぼ40年前は軍事機密の問題でハウラー橋の写真撮影は禁止されていましたが今はOKのようです。ハウラー駅。駅の構内で売り物の野菜がぶちまけられている様子の写真が有りますが、私の時は駅の構内でインド人の家族達がコンロを囲んでチャパティーを焼いていて、駅の構内で火を使っても良いのかと驚いたものです。インド博物館。日本ゴーシュ・ヨガ道場のカルカッタ本部道場のスタッフが案内してくれまして、数体のナタラージャ(踊るシヴァ神)のブロンズ像が並んで居たのを思い出します。ここでうちこさんはあまり感動しなかったようです。ヴィクトリアメモリアル。私の時は観光の途中で現地ガイドと一緒にここの広大な庭の芝生の上で休憩しまして、インドのカラスが日本のカラスよりずっと小さいのに感動したものです。うちこさんによれば最近では夜間のプロジェクションマッピングのショウが有るそうです。

 ネルー子供博物館と美術アカデミー、そしてフイルムセンターは行った事が有りませんが、ネルー子供博物館でうちこさんはガネーシャの展示を紹介していて面白いと思いました。そこには①ガネーシャの目が小さいのは集中力の象徴②耳が大きいのは良く聞く事の象徴③口が小さいのは寡黙の象徴④お腹が大きいのは良い事も悪い事も全て消化してしまう事の象徴、と説明してあるそうです。うまい事を言うなあ、なるほどと思いましたが、まてよ。

 ガネーシャはシヴァ神の息子で象の頭。シヴァ神が息子に怒ってその首をはね落としそれを知ったシヴァ神の妃のパールヴァティーが激怒、慌てたシヴァ神が近くに居た象の首を取って息子の首に据えたと言う神話が有りますね。

 シヴァ神もカーリー女神(パールヴァティー)もガネーシャも、南へ押しやったドラヴィダ人の土俗信仰をアーリア人が上手に取り込んでヒンドゥー化したものでしょう。これはドラヴィダ人の土俗的な象(パワー)信仰を格上げしてアーリア人が説明を加えたあと付けなんでしょうね。

 しかし、もったいない、せっかくコルカタへ行ったのに。

 うちこさんはヨガ講師ですからラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダを知らない筈が有りません。どうしてコルカタ近郊のドッキンネッショル寺院やラーマクリシュナミッションへ行かなかったのでしょうか。ラーマクリシュナが人生の大半を過ごしたドッキンネッショル寺院。巨大なカーリー神殿とシヴァ神を祀る12個の祠とその向こうのフーグリー川。そして何よりもラーマクリシュナの寝室に吹く微風。更にはラーマクリシュナがいつも瞑想していたと言う5つの木の場所(パンチャムンディ)。ドッキンネッショル寺院の門前でむしろの上に並べて売っていた陶製のシヴァ神の置物は今も我が家の祭壇に置いて毎朝ご挨拶しています。

 カーリー寺院。暑熱の石畳と原色の花々と打ち水とヤギの首打ち台。コルカタと言えばカーリー女神やドゥルガー女神でしょう。

 カーリー寺院の近くのマザーテレサの家。私が日本から持参したお菓子を「少しで申し訳ありませんが」と差し出したら「沢山の人達がくれますから大丈夫ですよ」と答えてくれた謙遜の通じない現場。

 旅行費用がウクライナと円安とでコロナ前の2倍近くに跳ね上がっている中、今では行く事の難しいコルカタ(カルカッタ)へ行ったのですからドッキンネッショル寺院とカーリー寺院とマザーテレサの家には行って欲しかったですね。ああもったいない。

 最後にうちこさんからのアドバイス

 男性でも日傘を持って行くべし。
 酷暑のコルカタではスマホの電池の減りが速いのでデジカメも持って行くのが良い。
 コルカタの暑さでのど飴は溶けるのでラムネかトローチの粉系が良い。

 追記

 その後のブログの記事でうちこさんはマザーテレサの家の近くの宿に宿泊しましたがマザーテレサの家には行かなかったようです。また、ラーマクリシュナ・マット(僧院)と言う所にも行きましたが、これはコルカタ(カルカッタ)の街中の小さな僧院(ラーマクリシュナよりもヴィヴェーカーナンダ寄り)でドッキンネッショル寺院では有りませんでした。もったいない。

 ところが

 直近の記事でうちこさんはドッキンネッショル寺院へ行っていました(こういうのは早く言ってよ)。うちこさんは(40年前には無かった)地下鉄のドッキンネッショル駅を降りて(40年前には無かった)長い歩道橋を歩いてお寺へ行きます。今ではお寺の中は写真撮影禁止だそうで、あの立派なカーリー神殿もラーマクリシュナの寝室もラーマクリシュナが瞑想していた5本の木の場所(パンチャムンディ)も写真は無し。しかしお寺が面したフーグリー川(ガンジス川)沿いの歩道から撮ったシヴァ神を祀った12個の祠の写真は有りました。私の時には8ミリカメラでフーグリー川を撮っていたら近くの老人が「それはムービーか?」と聞くので私は「そうです」と答えたものです。

 結局、流石はうちこさんの旅、の巻でした。




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夢見の効用

2024年05月25日 | 日記
夢見の効用

 私より15才年上の大先輩がFacebook に投稿しました。「夢は不思議ですね、(とっくに)亡くなっている妻と夢の中では普通に暮らしています」。これに私は次のようにコメントしました、「夢は面白いですね、認識の対象が無いのに認識の表象が有ります」。

 最近ネットサーフィンしていましたら恐山のお寺の住職をしていると言う人のコメントに目が止まりました。夢を見ている間はそれは現実だが夢から覚めるとその現実は崩壊してしまう、同じように起きてから寝るまでの日常で見ている現実も(自分で作っている現実だから)それは「本当の現実」では無い。そして夢は1人で見る現実だからすぐに崩壊するけれども日常に数人で見ている現実はしばらくは現実として残る。しかしその現実もしばらくすると崩壊してしまう。面白いですね。

 この「自分で作っている現実」と「本当の現実」と言う2つの言葉、認識の構造として見ますと、認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますので「自分で作っている現実」は認識の表象、そして「本当の現実」は認識の対象と置き換えても良いですね。更に「数人で見ている現実」は共同幻想と言う言葉に置き換えましょうか。

 仏教の瑜伽行派の唯識説では認識の主観も対象も実在せず認識の表象のみが実在し、そして認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環が世界の実在であるとします(サーンキヤ哲学はこれには反対ですが)。

 私達は見たいようにものを見ますから認識の対象と認識の表象は別物。ですから私達が見ている現実は認識の表象に過ぎず本当の現実が何なのかは分かりません。見ているのは幻想です、夢です、妄想です。地球上の人口が80億人とするならば80億の認識の表象が有る事になります。しかし。

 認識の主観と対象が無ければ認識の表象も現れませんよね。ですから私は瑜伽行派の唯識説には反対です(私はサーンキヤ学徒ですので)。では認識の対象が無いのに認識の表象が現れる夢の仕組みとはどんなものでしょうか。

 サムスカーラ(経験した事の記憶が潜在意識化したもの)が認識の対象となり、更にアハンカーラ(自我意識)に紐づけて夢は現れますね。ここで経験した事の無いシチュエーションはそんなには夢には現れませんでしょう。

 私達は認識の対象の無い認識の表象である夢を見る事で日常生活での認識への確信(本物の現実?)に揺らぎを覚える事になり、そうしますと夢を見る事には認識作用を疑ってみると言う効用が有りますね。

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若い才能

2024年05月11日 | 日記
若い才能

 私は寝る前にYouTube で好きな曲を聴くのが習慣になっていまして60’代や70’代の曲も懐かしくてよく聴きますが、直近の曲で良いものを探すのも楽しみです。そして最近ハマっているのがアリィ・ヴェナブル(Ally Venable )。インターネットで調べてみますとアリィは1999年4月の生まれとありますので先月25才になったばかりのアメリカはテキサス出身の白人女性。ブルース・ロック・ギタリストのシンガー・ソングライターで12才の時からステージに立ち、自らのバンドを率いて活躍中の今が旬のミュージシャンで、若いのにキャリアは充分なようです。

 私がYouTube で初めてアリィ・ヴェナブルを知ったのは「Texas Louisiana」でした。年が70程も離れたブルースの大御所バディ・ガイ(Buddy Guy)との掛け合いが楽しい曲で、曲はブルース様式なので歌は主旋律を繰り返すだけでサビに展開しませんがギターの演奏がそれを補って余りある軽快な曲です。「私は農家の娘、僕は貧乏人の息子」との掛け合いがチープで楽しく、後にこれの歌詞付きバージョンも見つけました。

 そしてアリィの曲はもっと無いかと探していたら、有りました。「The House Is Rockin' 」、これはロックンロールの曲で、黒人男性のギターと白人女性のキーボード、そしてアリィが同じメロディーを替わりばんこに歌っては演奏します。アリィはライブ演奏の際によく着るキラキラ光るタイトな黒のミニスカと長袖の上下、そして黒のニーハイブーツで決めています。ブルースも良いですがロックンロールも軽快でなかなか良いです。そして次は「One Sided Misunderstanding」。最初は気付かなかったのですがここでは3本のギターを多重録音、曲と映像がぴったりと進むので多重録音に気付くのが難しく、最近の映像技術は良く出来ていますね。

 次に見つけたのは「Real Gone」でした。黒いラテックスのパンツにピンクのショートブーツがカッコいい嘆きの歌です。間奏ではブーツでペダルを踏みますとギターの音がワォワォワォと響き、デスパレート(絶望的)なサウンドに本人もうっとり入魂の様子。

 「Devil's Son 」はブルース感あふれるスライドギターのイントロが私を引き込みます。ゆっくりとしたイントロから突然テンポの良い歌に。歌は単純な主旋律のくり返しですがスライドギターがカッコよく、特に最後はギターをぱっと止めてドラムに移行、ぱっと止めてドラムに移行、ぱっと止めてドラムに移行を繰り返してのエンディング、泣かせます。恨みの歌でしょうか。

 最後に「Sleepig Through the Storm 」。「Devil's Son」と同じような展開の曲ですが途中でのベースギターとリードギターのユニゾン(同時に同じメロディーを弾く)が堪りません。おっしゃれー!

 最近はYouTube では古い曲だけで無く最新の曲も登場し、ローリングストーンズの最新アルバムの曲やテイラー・スウィフトの曲も聞けまして時代も随分変わりましたね。YouTube で自分に合った新しい曲を探すのは楽しいもので、アリィ・ヴェナブルの次にまたお気に入りのミュージシャンは現れますでしょうか。

 ところで最近、和田秀樹と言う人が脳の老化を防ぐには前頭葉を刺激するのが良いとして、その為に必要なのは新しいものへの意欲と感情だと言っていますが、YouTube でこういった若い才能を探すのも前頭葉刺激に効果が有りそうですね。

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八重山4島巡り4日間

2024年04月27日 | 日記
八重山4島巡り4日間

 大学時代からの親友KMの夫婦から一緒に旅行をしようよと言われ、パッケージツアーを探して「八重山4島巡り4日間」に参加して来ました。夫婦だけでの旅行も良いですが、女同士は夫の悪口をつらつら、男同士は馬鹿を言いながら笑いっぱなしの旅行も良いものです。

 1日目

 時間に余裕の午後出発で羽田から石垣島へボーイング737で3時間掛かりました。羽田から熊本へは1時間30分ですので丁度その2倍ですね。ホテルには19時にチェックイン、それから街中の居酒屋で明日からの観光に向けての前祝いにオリオンの生ビールで乾杯しました。

 2日目

 この日は4島巡り。石垣島→竹富島(星の砂)→(高速船で)西表島→(水牛車で)由布島→西表島(マングローブクルーズ)→石垣島と、目まぐるしい1日。朝からの雨と風の中、石垣島から竹富島へは高速船で10分あまり、島に着くと雨は止んでいました。バスでカイジ浜(星砂の浜)へ行きますと雨雲の為か竹富島の海は灰色。ビーチは一面に広がる黒い岩(珊瑚?)の上に砂が堆積したような形になっています。現地ガイドのおじさんが星砂の有りそうな所を示して手で砂をすくい上げ、それをひとつまみスマホの黒画面に乗せて広げて見せますと2個ばかり星の砂が有りました。

 星砂は砂では無く生物なのだそうです。50年くらい前には竹富島の星の砂は全国的に有名で、あの頃は星の砂を小瓶に入れて売っていたように思いますが、今ではそんなお店は有りませんでした。星の砂が取られ過ぎて海の中でのその成長が追い付かないのでしょうか。ここでは観光開発と自然保護と言う相容れないテーマの落としどころの難しさを感じました。

 竹富島から西表島へは高速船で40分ばかり掛かりました。着きますとすぐにバスで由布島に面した浜へ行き、西表島から由布島へは水牛車で渡ります。水牛車には10人ばかりが乗りますので引っ張る水牛も大変、一仕事をした水牛は水に浸かってクールダウンするのだと聞きました。植物園を見てランチのあと再び水牛車で西表島に戻ります。そして次は仲間川のマングローブクルーズでしたが、これを私はなめていました。どうせ小さな川をちょろっと観光するのだろうと思っていたら大間違い。仲間川の川幅は大変広く、ガンジス川を思い出すような雄大さ。そして両岸に延々と続くマングローブの密林、どこかで見たようなと思ったらボルネオ島のジャングルクルーズでした。あの時は船がマングローブに引っかかって動けなくなり、どうなるかと思っていたら他の船が来て引きはがしてくれたものです。仲間川はボルネオのような激しいスコールも無く、深い緑の密林と深い緑の仲間川には清潔さすら感じました。この広い西表島で観光が仲間川のマングローブクルーズだけとはもったいないとも思いましたが、観光開発と自然保護について西表島では自然保護の考えの方が強いのでしょうね。港でクルーズ船から高速船に乗り換えて石垣島へ戻り、この日の観光は終わりました。

 3日目

 この日は石垣島の観光、石垣島と言えば川平湾です。

 先の妻との新婚旅行は沖縄本島と石垣島でした。あれは沖縄返還の翌年でしたので車はまだ左ハンドルの右走り、レンタカーで石垣空港から川平湾のホテルまで運転するのに大変怖い思いをしたものです。石垣島は51年ぶりになりますが川平湾に面したあの小さなホテルはまだ有るのだろうか。

 川平湾の景色は素晴らしいものでした。エメラルドグリーンの海と深い緑の木々と白い砂、そして更には青い空。川平湾の景観だけで充分なのですが、ここにはグラスボート観光が有りました。10人ばかりが船に乗りますと船底にはガラス張りのスペースが有って海底をのぞき見出来ます。船長はサンゴのポイントへ行って各種のサンゴを見せたあと、次にはウミガメの居そうなポイントへ向かいます。そして、居ました。カメは1日中泳いでいる訳では無く、海底の好きな場所にじっとしているのだそうです。

 そして川平湾に面したあの小さなホテルはもう有りませんでした。当たり前ですかね。

 川平湾観光のあとは石垣焼窯元とやいま村を観光、広いやいま村では結構歩き、古民家やカンムリワシやリスザルを見ました。

 4日目

 ツアー最後の日は早朝から玉取崎展望台を観光、深い緑の山々と風に大きく揺れる木々と淡いブルーの海。そして名残は尽きませんがそのまま空港へ行き、私達のボーイング767は追い風に乗って2時間30分で羽田に到着。そして振り返ってみますと、思っていたよりもずっと素晴らしい旅行でした。

 ところで石垣島のホテルの売店の女性は外国人だよねと親友KMは言います。私は違和感は感じませんでしたがアジア系の外国人でしょうか。このツアーの最後に添乗員のおばさんが「外国人は大きな船でやって来ます。今回は船が着岸しなかったので良かったです」と言いました。私は少し引っかかりを感じたのですが、大勢の外国人が上陸すると観光地が混みあう、今回は混みあわなくて良かったと言う意味だったのでしょう。そうしますとこのホテルの売店の客も通常は外国人が多く、売店の女性も多少日本語が下手でも中国語や英語を話せる方が営業としてはスムーズで、現地で人手が足りないのでは無く外国語を話せるスタッフが欲しかったんでしょうね。日本人は外国人に買い負けているようです。





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映画「永遠のヨギー」のDVD

2024年04月13日 | 日記
映画「永遠のヨギー」のDVD

 2016年に渋谷の映画館で観た「永遠のヨギー」のDVDが有るのを知り、アマゾンで買いました。アメリカにインドヨガを広めたパラマハンサ・ヨガナンダの生涯を描いた映画です。ヨガナンダはグル(先生)スリ・ユクテスワルジの指示でアメリカへ渡り、第2次世界大戦の終戦直後までアメリカに滞在してヨガの思想を教え広め、そしてアメリカで死去します。映画はパラマハンサ・ヨガナンダ著の「ヨガ行者の一生(あるヨギの自叙伝)」のお話をなぞるようになっていて本の方がエピソードも沢山で圧倒的に面白いのですが、映画にはヴィジュアルと言う側面が有りますのでそこはまた面白く観られます。そして今回、ヨガナンダの思想はサーンキヤ哲学では無くヴェーダーンタ思想なのだとはっきり分かりました。

 日本では江戸時代の末期から明治時代の初期の頃になりますが、ラヒリ・マハサヤはヒマラヤの山中でババジに出会い、ババジからクリヤ・ヨガの技法を伝授されます。ラヒリ・マハサヤは弟子のスリ・ユクテスワルジにこれを伝授し、ユクテスワルジはその弟子のパラマハンサ・ヨガナンダ(ムクンダ・ラル・ゴーシュ)に伝授、そしてヨガナンダにアメリカへ渡ってアメリカにヨガの技術と思想を広めるよう指示しました。ヨガナンダは苦難の末に成功し、アメリカにSRF(セルフ・リアライゼーション・フェローシップ)を設立し、現在に至っています。

 ここでクリヤ・ヨガの技法はババジ→ラヒリ・マハサヤ(シャーマ・チャラン・ラヒリ)→スリ・ユクテスワルジ→パラマハンサ・ヨガナンダ(ムクンダ・ラル・ゴーシュ)へと伝授された事を押さえておきましょう。この人達の顔はビートルズのLPレコード「サージャントペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」のアルバムに見る事が出来ます。

 パラマハンサ・ヨガナンダと私

 パラマハンサ・ヨガナンダ(ムクンダ・ラル・ゴーシュ)には弟が有り、名前をヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュと言い「ヨガ行者の一生(あるヨギの自叙伝)」にも登場します。カルカッタにヨガ道場を開いたヴィシュヌの娘はコルナ・ゴーシュ、私のグル(先生)ジバナンダ・ゴーシュ先生の奥様です。このような次第ですので、私はパラマハンサ・ヨガナンダには間接的ながら非常に親しみを覚えています。

 ラヒリ・マハサヤと私

 1981年、34才の時に私は初めてインドへ行きましたが、ヴァラナシ(ベナレス)で私は奇跡的な偶然でラヒリ・マハサヤのお寺を訪問し、そこでラヒリ・マハサヤの孫のサットヤ・チャラン・ラヒリさんに会いました。サットヤさんは今日はシヴァ神の祭りの日だと言ったうえで、ここに来た外国人はドイツ人、アメリカ人に続いて3人目、日本人としてはあなたが初めてだと言いました。私は日本でヨガの練習をしており、パラマハンサ・ヨガナンダの「ヨガ行者の一生(あるヨギの自叙伝)」に登場するラヒリ・マハサヤの人生に感銘を受けていますとお話ししました。サットヤさんは私にここで黙想してみなさいと言い、私はパドマ・アーサナ(結跏趺坐)でしばらく黙想しました。

 サットヤさんは私の手帳にサインをしてくれ、そこにはサットヤ・チャラン・ラヒリの父はティン・カリ・ラヒリ、祖父はシャーマ・チャラン・ラヒリと書いてありました。シャーマ・チャラン・ラヒリとはラヒリ・マハサヤの事です。

 それから6年後の1987年、40才の時に私は2度目のインド訪問をしましたが、6年前にはラヒリ・マハサヤを知らなかった現地ガイドのK・K・シンさんはこの6年の間にラヒリ・マハサヤの事を勉強していて、「ラヒリ・マハサヤのお寺も大事ですがお家も大事です」と言って私をラヒリ・マハサヤのお家へ連れて行ってくれ、そこにはB・ラヒリと言う人が住んでいました。お家にはダチョウの卵のような形をしたラヒリ・マハサヤの奥様の遺灰とティン・カリ・ラヒリの遺灰が安置してありました。ティン・カリ・ラヒリはこの年の1月に亡くなっていたサットヤ・チャラン・ラヒリさんの父上ですからB・ラヒリさんはサットヤさんの甥ということになります。B・ラヒリさんは日本人としては初めて貴方はここへ来たのだと言い、本を書くのかと聞きますので私はいいえとお返事しました。

 ラヒリ・マハサヤと姿が良く似たB・ラヒリさんと私は現地ガイドのK・K・シンさんの通訳でインドの宗教哲学について話し合いましたが、話の途中でシンさんは「もう通訳が出来ません」と言ってギブアップしてしまいました。しばらくの黙想のあとに私と当時小学6年生だった息子がB・ラヒリさんのお家を去る時にB・ラヒリさんは嬉しそうに私の息子の頭を撫でてくれました。

 映画「永遠のヨギー」の始めの方に1カットだけB・ラヒリさんのお家の表札が映ります。ああ、懐かしいなあ。

 ところでこの映画では南インドの聖者ラマナ・マハリシの姿も1カットだけ出て来ますよ。


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