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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

太陽と私

2025年03月15日 | 日記
太陽と私

 朝、玄関先へ出て太陽の光を額(ひたい)に浴びながら煙草を吸っていますと、太陽と私とが夫々別個のものでは無い事が分かります。この、太陽と私に共通するものをインドの人達はブラフマン(梵)と呼ぶのでしょうね。これは正法眼蔵の「山動く」や「梅花」に通底します。

 大海原の向こうに沈む太陽を眺め続ける事をスーリヤ・ディヤーン(太陽の瞑想)、また満月の夜空を見上げ続ける事をチャンドラ・ディヤーン(月の瞑想)と言います。

 日本でも神様を感じる事は出来ますが、インドでは神様を朝日や夕日のように大きく身近に感じますのに、日本では神様を真昼の太陽のように小さく遠くに感じますね。
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記憶はジュークボックス?

2025年03月01日 | 日記
記憶はジュークボックス?

 私が小学生の頃、熊本には進駐軍の米軍キャンプが有りました。私の両親はキャンプの中の人に用事が有って私を連れてキャンプへ行きましたが、用事が終わって日が暮れますとキャンプ内のレストランで夕食を取る事にしました。私達がレストランのカウンターに座っていますと若い兵士が入って来まして、扉の横のジュークボックスにコインを入れて好きな曲を聞き始めます。ここで私はアメリカ人は凄いなあ、音楽を聴くのにお金を払うなんてどんなお金持ちなんだろうと思いました。当時の私達の暮らしでは流行りの音楽はラジオで(無料で)聞くだけのものでした。

 今ではジュークボックスを知らない方もおられるでしょう。ジュークボックスは会社のコピー機くらいの大きさと重量感の有る機械でして、中に数10枚のEPレコードを仕込んで有ります。お客がコインを投入し聴きたいレコードのボタンを押しますと機械がレコード盤をピックアップして中央の回転盤へ運びそこに針が落ちて曲が流れる仕組みでしたね。ジュークボックスは私が入社した頃のスキー場にもまだ有りまして、そこでサンタナの「ブラック マジック ウーマン」を聞いた記憶が有ります。

 さて、リタイア生活で毎日を穏やかに暮らしていますと、突然昔の日常の何でもない出来事の記憶がありありと蘇って来ては消えて行く事が有ります。何でこんな些細なさもない出来事が蘇って来るのだろう、またこの思い出は今の私にとってどんな意味が有るのだろうかと思いを巡らせますが、全く何の意味も有りません。これはどうした事でしょうか。

 ヨガでは経験した事の記憶が潜在意識化したものの事をサムスカーラと言います。そしてヨーガ・スートラには瞑想の際に最も消滅させるのが難しいのがこのサムスカーラだと書いて有ります。サムスカーラ(経験した事の記憶が潜在意識化したもの)は記憶の倉庫(仏教では阿頼耶識と呼びます)にどんどん蓄積されて行きます。そしてそれがランダムに無秩序に顕在意識に戻って来るようです。これがリタイア生活の年代になりますとこのサムスカーラの量も相当ボリューミーになっているようです。

 例えて見ますと、経験した事の記憶はクリアファイルのようなものに保管されてひとつのフォルダーになり、そしてこの無数のフォルダーの束が扇風機の羽のように脳内で回転していて、それらの中のひとつがそれこそランダムに無秩序に顕在意識化しているようです。

 あれ、これってジュークボックスみたいなもの?いやいやどうも違うようです。ジュークボックスでは聞きたいレコードを選び、それを引っ張り出して聴きますが、サムスカーラの顕在化は取り出したいと思って取り出せるものでは無く、それこそランダムに(無意志に)顕在化するようです。

 昔の楽しかった出来事や嬉しかった出来事をありありと思い出そうとしても駄目ですね、言葉では蘇りますがヴィジュアルには蘇って来ませんでしょう。一方Facebook に写真を投稿しますとそれが自分の時系列のアルバムになりますので、その時の写真を見ますとその前後の光景はありありと浮かんで来ますね。

 潜在意識はジュークボックスのレコードのようには取り出せませんが、Facebook の写真アルバムは無意識の顕在化に有効なようです。

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壺中に天あり

2025年02月15日 | 日記
壺中に天あり

 六 中 観
忙中有閑  忙中閑あり
苦中有楽  苦中に楽あり
死中有活  死中に活あり
壺中有天  壺(こ)中に天あり
意中有人  意中に人あり
腹中有書  腹中書あり

 これは安岡正篤の本に有った言葉ですが、安岡正篤はヨガの人では無く漢籍に詳しい人です。ですが、この「壺(こ)中に天あり」は良いですね。狭くて暗い壺の中に居ても上を見上げれば天が有る。

 ラマナ・マハリシは南インドのお寺の中の狭くて暗い洞窟のような所で瞑想を続け、シヴァ神の山アルナチャラを観想していました。

 またムハンマドはかなり年上の婦人に仕事で拾って貰い、更に結婚して貰い、そして好きなだけ瞑想をさせて貰いました。ムハンマドは暗い洞窟の中で瞑想を続け、遂には神の啓示を受けて神の言葉を記(しる)す事になります(本人がそう言っています)。

 さて私はリタイア生活も長くなり、その間に親しい飲み友達が2人、3人と亡くなりましてだんだんと寂しくなって来ています。そうしますと生活の範囲もだんだん狭くなって来まして、何だかそろそろ壺の中に入りそうな気もします。そしてそんな時には安岡正篤の「壺(こ)中に天あり」に効き目が有りそうです。この突き抜ける感じが良いですね。ついでですが壺の事をインドではクンブ、またはクンバと言います。ガンジス川とジャムナ川が合流するアラハバード(現在ではプラヤグと言います)で6年に1度開催されるお祭りのクンバメラは有名ですね。

 ここで「壺(こ)中に天あり」の「壺」を「孤」に置き換えても良いようです。

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カーナビ異変

2025年02月01日 | 日記
カーナビ異変

 うちの車は買ってからこの3月で丁度10年になりますが、買った時にはびっくりしましたね。夕刻に暗くなると勝手にヘッドライトが点きますし、雨が降り出せば勝手にワイパーが動き出す。そしてこれまで使った事の無いカーナビも凄く便利。この車にはいろいろな能力が有るのですが、この10年間使っていなかった能力も有ります。リアウインドウのワイパーはほとんど使っていませんし、リアウインドウの熱線は1度も。ブルートゥー
スはそもそも使いませんし、更にウインドウウォッシャーのウォッシャー液を継ぎ足した事も有りません。ウォッシャー液は車検の度に入れてくれていたんでしょうかね。まあ、こんな風にだらしなく車を使っていました。

 さて、妻がうちからはかなり遠いショッピングセンターを見てみたいと言いますので妻の運転、私は助手席でカーナビの確認をしようと車に乗り込みますとカーナビのタッチパネルが誤作動をします。行先を打ち込めないので妻のスマホをカーナビにして行きましたがスマホのカーナビは性能は良いのですが、細くて変な道ばかりを案内してくれます。やっとの思いでショッピングセンターには着きましたが帰りはどうしたものか。不思議な事にタッチパネルは「自宅」には反応してくれ、無事に帰宅は出来ました。

 これはまずいよとディーラーに電話をして見て貰う事にしました。ディーラーには最近では2度カーナビを使って行きましたので道順は分かると妻は言います。昨年の10月に車の後部座席の左側のシートベルトが伸びっぱなしになったのでディーラーへ行き、ディーラーでは無償で修理してくれました。そしてその時にカーナビのパネルの表面の角が剥離しているのを見つけ、1週間後にこれも無償で交換してくれたのです。

 妻の助手席ナビ、私の運転でディーラーに着きますと私達を屋内のテーブルで待たせ、担当の男性がタッチパネルの作動を確認しますと言って出て行きました。担当が戻りますと説明してくれます。タッチパネルの左上の一部が反応していない、そしてタッチパネルを交換すると9万円くらい掛かるし、SDカードを交換すると更に2万円掛かるのだと言います。カーナビのメーカーに問い合わせてその結果を数日後にお知らせしますと言うのですが、この車にあと何年乗るか分からないし、ここで9万円は痛いなあと愕然としました。

 担当の男性は私達を見送りに車までついて来てくれましたが、そこで意外な事を言います。「私は後ろに乗りますので運転席に座って下さい」。私が運転席に座りますと担当の男性は私のサイドブレーキの横に有る、ラジオなどを操作する手元のスイッチ類のNAVIボタンを押して下さいと言います。ボタンを押しますとカーナビの画面が現れまして、NAVIボタンの近くのダイヤルの真ん中を押しますと決定、次の画面が出ます。そこでダイヤルを回して「五十音検索」「住所検索」「目的地履歴」「電話番号検索」「自宅」のうち好きな所にカーソルを動かしてダイヤルの真ん中を押して決定しますと次の画面が出ました。なんだ、操作出来るじゃないか。

 妻が「タッチパネルは動かなくてもカーナビは操作出来るんですね」と言いますと担当の男性は「そうです、今ではタッチパネルでの操作より手元のダイヤルでの操作の方が主力になっていまして、パネルをタッチしないカーナビも出ています」と言います。

 ええ~ッ知らなかった!10年も乗っていたのに知らなかった!担当の男性の表情には出ませんでしたが、10年も乗っていて知らなかったの?と思っている筈ですね。ああ、赤っ恥!

 ダイヤル操作のカーナビで「自宅」を選択し、9万円を払わなくて済んだという喜びと10年間もダイヤル操作を知らなかった恥ずかしさで大笑いしながら私達夫婦は帰宅したのでありました。さて、数日後にはどんな電話が来るのかな?


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新しい思想との遭遇

2025年01月11日 | 日記
新しい思想との遭遇

 私は長い間古典を読んで来ましたが、その時には古典を読んでいるという認識でした。しかし最近、古典を初めて読む時にはそれが私には新しい思想との遭遇だったのだと改めて気づきました。新しい思想と遭遇しますとその著者と自分が対峙し、それに批判を加えてみたりなるほどと納得したりで決してそっくりそのまま受け入れた訳では有りませんでした。そして批判は批判として、受け入れたものは蓄積しますのでそれが今の私を形作っているようにも思います。

 新約聖書の中でイエスキリストの行いや言葉を記した「福音書」は何度も読み返しました。そしてそれをヨガの目で見ますとイエスキリストは卓越したヨギ(ヨガ行者)だったのだと思います(神の子かどうかは別にして)。

 「コーラン」も読みましたがこれはなかなか理解出来ない。理解するのが難しい為に何々師という人達がコーランの解釈をしながら次から次に新しい戒律を積み重ねてきて今に至ったのだろうと思います。コーランを読んでみますとムハンマドはそれほど戒律にうるさくは言っていませんね。死者が蘇って神の審判を受け、天国に行きますと美女のお酌で決して悪酔いしないお酒を飲めるとのほっこりする表現も有りましたよ。ムハンマドは決して女性蔑視では有りませんし孤児には優しくしなさいと言っていますし、あの時代に社会主義的な思想を主張しています。それを思えばアフガニスタンのタリバンはイスラムでは有りませんね。

 「ヨーガ・スートラ」や「サーンキヤ・カーリカー」、そして「バガヴァッド・ギーター」は初めて読んだ時には私に激しいパンチを加えてくれました。戦後のアメリカ風の教育を受けた私は俄(にわ)かにはインド思想を理解出来ませんでした。プルシャ?プラクリティ?またアートマンやブラフマンに相当する英語も見当たりませんね。プラクリティを英語ではネイチャーと翻訳するようですがちょっと違いますね。これは現象世界と翻訳するのが良いようです。読んだ本にはプルシャを精神原理、またプラクリティを物質原理と説明して有りましたが、私達は精神と言えば想念の事だと思いますよね。サーンキヤ哲学では想念、つまり心は体や環境世界とひとくくりでプラクリティの範疇に入りますので、プルシャは霊性、そしてプラクリティは現象世界と表現するのが良いようです。

 また「バガヴァッド・ギーター」は一般的にはカルマ・ヨガやバクティ・ヨガ、そしてジュニャーナ・ヨガの思想だとされているようですが、私はこれをサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想の統合と理解しました。

 「般若心経」は若い頃からさっぱり分からない経典でしたが、佐保田鶴治さんの解説で本当に良く分かりました。空の思想を説く経典では有りますが、最後のマントラが大事なんですね。般若心経が密教(タントラ)の経典なのが良く分かります。「理趣経」も読みました。男女の交合が菩薩の位だと言う理趣経、空海が大切にする理趣経はまるまる密教(タントラ)の経典で有り、仏教がヒンドゥーイズムに統合される様は一読の価値ありです。

 「臨済録」や「碧巌録」、そして「無門関」も読みましたが、インド人が静かに解脱体験の構造を追及しますのに中国人はおしゃべりや詩的表現が好きなのでこれを理解するのは難しい、仏教は中国風では理解するのが難しく、むしろヨガから入るのが分かり易いようです。

 道元の「正法蔵眼」はヨガの目で見ますととても分かり易い内容でした。道元の時間論、空間論、そして生死論は見事です。時間と私達との間に隙間は無いとの表現、「山動く」では主観と対象の間に隙間は無いとの表現、そして「生も一時の位なり、死も一時の位なり」、見事です。しかし、永遠の魂などが有ると言うのは外道の了見であるとの指摘には驚きました。今にして思えば、まさに仏教の思想を表しています。

 親鸞について書かれた「歎異抄」は親鸞の人となりを良く表現していました。親鸞の話の内容は解脱体験をした人の表現であり、ヨガをやった経歴の見えない親鸞はどこでどうして解脱体験をしたのでしょうか。また、歎異抄を読みますと宗教と信仰の違いについて考えさせられます。私の理解では宗教とは自己の探求なのですが、すると信仰とは?信仰とは自己の探求を神様にお預けする事なんでしょうね。

 ここまで色々と古典について感想を述べて来ましたが、古典と対峙します時に、この人達は皆、私にとって大切なヨガ・フレンドなのだと思いますし、また夫々が新しい思想との遭遇で有ったと感慨もひとしおです。

 ついでに

 「法華経」は剥いても剥いても種が出て来ない玉ねぎのような経典でしたし、フロイトの精神分析は取るに足りない思想でした。また空海の「般若心経秘鍵」は仏教を単なる教養と見なす時の天皇や貴族に向けた解説書で、遠回しに遠回しに説明する空海の苦労が滲み出る内容でした。


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