千曲川の流れのように

年金生活者の徒然

ホスピタリティ原論

2006-11-23 | Weblog
 今日の夕方、手元に「ホスピタリティ原論」山本哲士-文化科学高等学院出版局(発売元:新曜社)@5000円-が届いた。今日はさわりの60ページほどを読んだ。先日、山本氏と松本で飲んだ時のことが思い起こされる部分がいくつかあった。著者は不思議な人なので、一言では言えないが、人と人との関係を深く考える学者だ。感想を書くのはまだ早いが、以前の著書にない(平易な)語り口で、事例を大切にしている。この辺りは、ビジネス書として、意識してるのかもしれない。サービスとホスピタリティを考える上で「うん。うん」と頷いてしまう。彼の術中にはまっているのも知れない。八重洲ブックセンターでは、見当たらないかもしれない。今月中には読破して、また、その感想(書評と言うのはおこがましいので)をこのブログで紹介したい。 
 さて、昨日の食の話だが、問いかけとしては結構いい線をいっていると自分では思ってい方が、反響がない?
 今日、飯田地方のスパーで売っている「スズキヤ(遠山)のジンギスカン」を手に入れた。友人に頼んで、飯田の生協「錦町店」で購入してきてもらった。これが抜群に旨い。一度食べたらやみ付きになる。少々値段は張るが、味付けが良い。ちなみに、肉はオーストラリア産だ。家に帰ってみたら、今晩のおかずはジンギスカンだった。これって偶然?

 高校生のころ、遠山の友達がいて、彼の実家で食べたジンギスカンは旨かった。下級生には星野屋(熊や鹿の肉を販売する日本でただ一つの肉屋さん)の息子がいた。
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朝食の風景

2006-11-22 | Weblog
 朝食はいつも忙しい.食べるのもそうだが、作る人も忙しい.勢い簡単メニューとなる.ここが朝食のポイントだ.もうひとつはご飯にあうのかという、日本人の舌への挑戦でもある.拙者の故郷では、「しょい味噌」が定番だった.材料は、米:こうじ/麦こうじ/大豆:たまり・なす・大麦・裸麦で作る.一般的には金山寺味噌に近いと思う.秋になると、飯田まで出かけて、こうじを買ってくる.母が一生懸命作っていた.父はこれが大好物だった.それなりに塩分もあり、健康食とはいえない面はあるが、これが実に旨い.ナスは食べると漬物状態だ.忙しい朝食の風景だ.たまごご飯は、当たり前だが、バターをご飯に混ぜ、醤油をたらして食べるのも、父の好物だった.実家を離れてから、懐かしく思いつつ、いつかはこの「バーター醤油かけご飯」に挑戦しようと思っているが、なかなか実現しない.勿論、拙者も子どものころ食べていたが、いざやるとなると、何故か覚悟がいる.ご飯にあう惣菜は何か?多くのコメントが集まればうれしい.ブログの下のコメント(0)をクリックするとあなたのコメントを記入できる.ぜひ、多くの声を交流したい.
 拙者は、スパーで手に入る「小野万塩辛一本造り」が気に入っている.家族は、誰も食べないので、自ら調達している.我が家では「大根おろし」が定番で、食卓にのぼる.でもね、お酢を加えているのは気に入らない.大根おろしにじゃこをのせ、お醤油でさっぱりと食するのが、拙者の流儀だが、出されたものに、注文をつけるほど傲慢になっていけないと戒めている.生協の魚は朝の食卓には抜群だ.さば、干物などは思わず「生協?」と聞いてしまう.辛子明太子も絶品だ.
 最近、お目にかからないもので、記憶に鮮明なのは、「白菜の浅漬け」だ.これも何杯でもいける.おばあちゃんは、味噌汁に、色々な野菜を盛りだくさんに入れる.栄養的にはベストだが、拙者は、具を沢山いれずに、ねぎと油揚げなど、シンプルなものが好きだ.食の話は尽きない.育った家庭の味は、生涯付きまとうのだ.
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決断

2006-11-18 | Weblog
 決断を迫られることがある.それを実現するための障害は何か.期限はいつなのか.その時、論理的に考えてはいけない.考えれば考えるほど迷路に迷い込む.大切なのは直感だ.将棋でも、秒読みに入ったとき、棋士の頭をよぎった最初に思い浮かんだ一手がほぼ正解であると言われている.単に思い付きを推奨しているのではない.その一手は、長い間の経験や練習という裏づけがあって成立しうる.静かに深く、直感の浮かぶ一瞬を待つのだ.解決策を考える時は、四六時中そのことを考え続ける.歩きながら、寝ながら、すると、思いがけない場所で突然の閃きがある.その時は少し興奮気味だ.それは、解決策としてはほぼ正解だ.でもね、正解かどうかはやってみないと分からない.
通常の議論は、色々な弊害を次々にあげて、この場合はどうするの?じゃ、このケースはどうなの?と深みにはまっていく.リスクは当然予想しないといけないが、いま何かを成す時は、そのことを行なう理由(目的)がある.そこから離れはいけない.行為は働きかける側と働きかけられる側の2つの側面を持っている.働きかけられる側から、組み立てるのも解決に結びつくひとつの方法だ.どんな場合も、事実をどれだけ直視できるのかにかっかている.
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新聞

2006-11-16 | Weblog
 箪笥を整理していたら、昭和30年の新聞を母が見つけた。信濃毎日新聞の夕刊だった。4ページの構成だ。映画の広告が大きなスペースをとっている。当時は上山田温泉にも映画館があった。驚くのは、入場料だ。大人50円、子供30円とある。現在の36分の1、つまり現在の給与が36万円とすると、昭和30年では1万円と言うことになる。もっとも、給与で比較すると、もっと低い気がする。テレビ欄はなく、ラジオ欄が小さく掲載されている。昔こんなことを聞いたが、実行できなかった。それは、子供が生まれた時の新聞を保管しておき、旅立つ時にプレゼントすると言う話だった。今からでも遅くない。子どもの記念日(入学・卒業など)の新聞を保管しておくのは如何か。
 かつては、小さな村にも映画館があった。私の故郷にもあり、何度か観にいった。記憶の残っているのは、ザ・ピーナッツが出ていたモスラだった。
 ところで、「長澤まさみ」って知っていますか。拙者は今日始めてその名前を聞いたのだが…皆さんは如何ですか。その回答で、その人の年代が分かってしまうそうだ。
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現場

2006-11-16 | Weblog
 久しぶりで現場(上田)に出かけた。やっぱり、現場はいい。新鮮だ。自分たちで仕事の組み立てを創りあげている。メンバーも元気だ。稼ぎの源泉は現場にしかない。でもその事が薄れていく自分に『渇』。
 朝、車のフロントの霜取りの季節になった。出勤途中に垣間見える、白馬連山はもう真っ白だ。
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自転車泥棒

2006-11-12 | Weblog
 お兄ちゃんから電話があった.どうも自転車を盗まれてしまったようだ.いつもの様に自転車を駅の駐輪場に置いたのだが、うっかり、鍵をかけ忘れてしまった.そんな時に限って盗難にあってしまった.実は、以前にも一度盗難にあった.その後、その盗まれた自転車が見つかり、家に保管していた.その自転車を車に積んで駅まで運んだ.結局、午後はそれで終わってしまった.きっと、盗まれた自転車もどこかで見つかると思う.それにしても、自転車泥棒は余り犯罪と言う意識より、いたずらの感が強い.でもね、盗まれた人はたいそう困ってしまう.拙者も以前、目の前で自転車を盗まれたことがある.しかも、その日に購入したばかりの自転車だった.
 自転車は環境にもやさしい乗り物だが、安全が確保されていない.自転車が安全に走れる自転車道の整備を進めて欲しい.ヨーロッパ、たぶんドイツではかなり整備されていると聴いたことがある.
 構想だが、駅や公共施設などに自転車をプールして、誰でも乗れるようにしたらどうか.目的に近いプールに借りた自転車を戻すと言う作戦だ.信頼を基にした組み立てなので、反論も多いと思う(タクシーの運転手さんは困ってしまう)が、少し工夫をすればよい.それは、その自転車がみんなで使う自転車だと誰もが認識できるようにすれば如何か.その中で、ますます、信頼の輪が広がると勝手に考えている.
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 八百歳

2006-11-11 | Weblog
 人はいつまで生き続けられるのだろうか。800歳まで生きた「八百比丘尼」(はっぴゃくびくに・やおびくに)の話がある。
 若狭の漁村に暮らす平凡な少女は、何事もなければ漁師と結婚し、母親となって、若狭の穏やかで恵み豊かな海に漁師として我が子を送り出し、年老い、穏やかにどこにでもあるあたりまえの生涯を終えるはずだった。
 だが、少女は、漁師である父親が獲った人魚の肉をそれと知らずに食べてしまったことで、「不死」という逃れられない運命に囚われることになる。長い年を経ても老いず、いつまでも若狭の海のような美しさと輝きを保ったまま、少女は、死にゆき、朽ち果ててゆく、人とものの定めを哀しく見送り続けた。一人、時の流れから置き去りにされた少女の心だけが、疲れ果て、枯れていった。
 自ら求めても得られない「死」、それを恐れ、逃れようとする人々は、不思議な比丘尼の言葉の響きの中に、永遠の生の哀しさを感じ取り、安らかに死出の旅へと向かう決心をつける。そして、比丘尼に感謝し、無数の死を看取った比丘尼に抱かれて旅立っていく。
 比丘尼となった少女は、八百年の後、めぐり巡って、生まれ故郷の若狭に辿り着く。そして、八百年前と変わらぬ自らの故郷の景色に、涙を流す。自分はこの景色の一部となろう....そう決心した比丘尼は、死を求めることを止め、心落ち着けて、懐かしき若狭の大地に身を横たえる。気がつけば、八百年を経た少女の体は風に飛ぶ砂と化し、澄み渡った魂が、愛する若狭の土地に同化し、あまねく広がっていった。
 私たちはいつまでも長生きをしたいと願う。でもね。それが実現した時、本当に幸せなのだろうか。今の生き様が自分でしかないのだと思う。空
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段取り

2006-11-10 | Weblog
仕事には段取りがある.ルーチンのワークは、とっとと済ませる.集中力の勝負だ.ここで躓くとうまくない.議事録などは、記憶が鮮明なうちに、やってしまうのだ.先延ばしするほど、仕上げるのに時間がかかる.時間をどれだけかけないかを考える.コンピューターがこれだけ普及してくると、キーボードに向かって仕事をしている姿を見ると、なんとなく「仕事をしているなー」と感じてしまう.実は何をどうしたいのかが問題なのに、キーボードに向かっていると言う行為が仕事として映ってしまう.勿論、ワードやエクセルの基礎的なスキルがないと時間ばかりかかってしまう.スキルは習得するものだから、自ら学ぶしかない.
新しい提案を起案する時は時間がかかる.一人で考えていても限りがある.提案内容に関する資料を集める.文献と言うほどではないが、関係しそうな過去の文章に目を通す.拙者が大切にしているのは、関係しそうな人たちとおしゃべりをすることだ.何気なく、しかも意思を持って、相手に投げかける.予想もしなかった発想が聞こえてくる.これが手がかりになる.こうした準備ができれば、結構早く仕上がるし、自分勝手な提案はならない.いつも上手く行くわけではないが、誰と話をすればよいのかを、自分の中でこれはあの人だな、と思い浮かべばしめたものだ.よく質問する人は伸びる.
もう一つ実践しているのは、仕事に取り掛かる前に今日の仕事の順番を書き出してみる.金曜日の夕方、翌週、翌々週のスケジュール(会議など)を書き出し、それに向けた準備をどの段階で行なうかを簡単に記入しておく.簡単な準備で、仕事のはかどり方はぜんぜん違うと感じている.半年くらい先の仕事がある.そんな時は忘れないように、手帳に締め切りの数週間前に記入する.先のことは結構忘れてしまう.これは役に立つ.
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戸倉上山田温泉共同浴場

2006-11-08 | Weblog
 以前温泉のことに触れたが、その続編.上山田には、鶴の湯という浴場がある.入院していた病院から良く見えた.ただ営業時間が10時からなので、まだ一度も入浴したことがない.最近流行の日帰り温泉だ.休憩所などもあるのだろう.面白いのは千曲市内の利用者は入浴料金が200円、市外の利用者は500円となっている.
 私は、戸倉の観世温泉がお気に入りだ.前回紹介した回数券はここのものだ.毎朝同じ時間に行くと、お馴染みの人たちに会う.毎日会っていた人が、ある日から会わなくなる.多くは高齢者のため、どうしたのか心配になる.
さて、さっぱりして着替えた後、牛乳を飲むが温泉の風景だ.入院前は、随分長い間、牛乳は飲めなかった.どうもお腹がうまくないのだ.日本人の何割かは、そうした体質であると聞いていた.私もそうなのかと思い込んでいた.よく考えてみれば、前日、お酒を飲み、朝冷たい牛乳を一気に飲めば、結果は、自ずとそうなる.入院中、朝食には牛乳が定番だった.せっかくだからと思い、毎日牛乳を頂いた.でも、お腹に異変はなかった.そうなのだ.いけるじゃん.思い込みが間違っていたことが分かった.今年の春先から、入浴後はなつかしいビン牛乳を飲むようになった.
温泉地には、当然、その筋の人が生活?している.余り見かけなくなったが、鯉の滝登りや様々な模様の人々に会う.最初は、へぇ~という感じだったが、最近は、慣れっこだ.周りの人も特に注視しているわけではなく、淡々としている.観世温泉は、勿論かけ流し.浴槽は檜風呂と大浴場がある.檜風呂は多少ぬるめ、大浴場は結構な広さで気持ちが良い.月2回の定休日がある.第1と第3の月曜日だ.ただし、8時までは営業している.たまにゆっくりしたい時は、万葉超音波温泉に行く.こちらのほうが、回数券はずっとお得だ.よく覚えていないが、20枚綴りで、5400円+1回分となる.つまり、1回あたり257円になる.万葉温泉は、観世温泉に比べ、かなり高温だ.3つの浴槽に分かれているが、最初は47度もある.私は一度も浸かった事がない.超音波の2つ目は42度だ.これでもかなり熱い.加えて、この温泉にはサウナがある.温泉の熱を利用したものなので、かなり湿度が高い.ここも余り利用しないが、常連客は良く利用している.勿論こちらにもビン牛乳はある.どちらでも「八ヶ岳牛乳」を飲む.温泉が定番になると、家での内風呂は、夏場のシャワーくらいしか使わない.
 温泉場はどこでもそうだと思うが、地域の生活の中に根付いている.観光のための温泉と言う意味も勿論あるが、そこに住む人たちにとって、ありがたい贈り物なのだと思う.
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家業

2006-11-07 | Weblog
 以前紹介した『戦争という仕事』の中で家業についての記述がある。いわゆる勤め人(サラリーマン)は最近の出来事だ。それ以前は、一人ひとりが家業を持ち、その技を継承することで生きてきた。わが町の『刀鍛冶』名工宮入家はその典型だ。家業が継続するのは、信用の有無だ。信用が何代も続くので、家業として成り立つのである。家業で一番多かったのは農業ではなかったと思う。現在、農業は家業ではなくなりつつある。農業だけで暮らしが成り立つ収入が得られないからだ。
 家業がなくなり、勤め人の世界になった時、技の伝承は途絶える。人の生き方も大きく変わる。、家業としての仕事が他者から認知され、受け入れられてる事は、家業が技と信用の上に成り立っているからだ。その意味では、勤め人(企業)の世界でも同じ筈だと思う。それが、そうではなく、仕事だからといって、単に与えられた指示をこなすようになっていく。それは、その仕事の意味(企業としての理念と他者からの、「あってよかった」と言う認知)を感じられないということを指す。ここに労働の疎外が生まれるのではないか。他方、そうではない世界があるように思う。「同じ筈」とした場合、何が欠けているのが、足りないのか。その芽は何なのかを探し続けなければとも思う。
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