「平凡な人生」とよく言う。人の一生は山あり谷ありである。他者から見れば、波乱万丈と映る。実は『平凡』と『波乱万丈』は捕らえ方の違いでしかないと思う。辛いこと悲しい事があった。でも、それを乗り越えられたのは、家族や周囲の人々に支えられていたからだ。その人の生き様は、家族でも知らないことがある。そのことは、後に明らかになる。だから、余計に心に響くのである。
「中学生日記」という番組がある。NHK名古屋放送局からの発信だ。昔よく見ていた記憶があるが、今も続いている。いわゆる「思春期」を扱ったドラマだ。今日、その振返りの放映があった。中でも気になったのは、中学生の自分に、45歳の私が手紙を書くシーンだった。これって、結構すごい試みだと感心した。本人は自分の人生を当然のように受け入れている。でもね、普通の人はそうではなく、過去の自分を忘れたいと願っているのかもしれない。そんな時、15歳の自分に「君(15歳の自分)への手紙」を書くという場面が放映された。現場では向き合うと言うことを大切にしようとしている。それはとても大切なことだ。でもね、最初に向き合うのは自分自身でしかないと思う。自分に向き合えないで、どうして、部下(メンバー)と向きあえるのか。どこまでで行っても、本質は自分でしかないと認識がないとだめだと感じた瞬間だった。15歳の自分への手紙を、向き合おうとしているメンバーに自分は伝えることができますか?が問われている。
話は変わるが、皆さんは「エビちゃん」を知っていますか?私はぜんぜん知らなかった。どうして??って?
話は変わるが、皆さんは「エビちゃん」を知っていますか?私はぜんぜん知らなかった。どうして??って?
めいとも読むが、今回は「いのち」と読むことにしよう。昔話だが、中学の頃の話だ。歴史の授業で、何とかの命を受けと言う記述があった。私は、命を「いのち」と読んだ。自分でも違和感があった。教師は「それは命(めい)ですよ」と言った。そうだ。命令の命なのだと気づいた。中学生の時、こんなことがあった。社会の授業だった。誰か、先生をやってみないかと問われた。結局、私が授業をすることになった。準備はできていた。その授業をやる前に、先生に突然のアポが入った。予定はずっと先だったが、突然「今日は急用が入ったので、授業は三宅君がやってくれますか」と言い、先生は教室から去った。「エー、うそ」と言う感じだった。なんとか45分の授業をやった記憶がある。人に教えることは、好きではなかった。そこから今の感情が生まれたわけではないが、「教師にはなりたくない」と漠然と思うようになった。自分が核心をつかないで、人に「教える」ことはできない。そんな気持ちだった。行為としての教師はできても、それは人と人のつながりの関係性の中でしか成立しない。きわめて、微妙な関係だ。
話がそれて申し訳ない。命と書いた理由は別にあるのです。でもね、そのことをここで書くのは、気分がそうさせない。今日は皆さんへの裏切りになるけど、勘弁して下さい。結構へんこんでいます。
話がそれて申し訳ない。命と書いた理由は別にあるのです。でもね、そのことをここで書くのは、気分がそうさせない。今日は皆さんへの裏切りになるけど、勘弁して下さい。結構へんこんでいます。