自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/賃金と物価/1963~1974/生活の一断面

2020-10-30 | 狭山事件

狭山事件があった1963年はどんな時代だったか、振り返ってみたい。
お金のエピソードである。脅迫文にある要求額は20万円である。石川さんの自白を維持する意図で関巡査部長が拘置所、刑務所に収容されていた石川さんに差し入れたお金は1回500円、1000円である。それが当時の生活水準上どれほどの価値があったかを考える。ちょっと回り道しながら・・・。
朝鮮戦争の特需で、日本はもはや戦後でない、と語られるほどに経済復活した。翌年の東京オリンピックを控えて日本列島の主要部分とくに東京と新幹線・高速道のインフラ建設がすさまじかった。狭山市もベッドタウン化し始めていてホンダ等の進出もあり人口急増間近だった。まだ工業団地、公団住宅の建設は企画中だったが堀兼の有力者は農業委員会、農協、市議会選挙等で農地法にもとづく農地の転用、売買に関して熱い議論を戦わせていた。狭山事件怨恨説では身内不和説が有力であるが、地区にも古いものと新しいものの対立が潜んでいたというムラ内不和説も有りだと思う。
当時わたしは大学4年生だった。いろんなアルバイトをしたが今でも日当をはっきり憶えているのは太秦撮影所での「新選組始末記」のエキストラである。待機時間は長かったが撮影されたのはほんの一コマ、池田屋から志士の死体を大八車で運び出すシーンだった。拘束時間に関係なく日当は500円だった。
池田内閣の所得倍増計画の最中だったが苦学生も多く、学資をアルバイトと奨学金に頼る学生がたくさんいた。また、農村の裕福な家庭も古い勤勉倹約観念を引きずっている場合も珍しくなかった。しまり屋のわが両親がTV(カラー時代が始まっていた)を買ったのはその頃である。
百万様の評判があった中田家でも昼間の高校に通ったのは善枝さんからである。それも川越高の分校定時制である。その善枝さんの悩みはお小遣いであった。4月29日次兄(同夜間部)に1000円借りている。きっと自分の誕生日か5月3~4日の連休に使う目的があったにちがいない。
ちなみに奥富玄二さんの新婚生活向け新居は260万円という話もあれば100万という話もある。玄二さん自身、卒業と同時に14歳から外で労働している。次三男は家を出るという農村の古い習慣を引きずっていたのである。最初は古い雇用形態=作男として、数年経って運輸会社の運転手として働いた。その月給は31歳で17000円、1963年のことである。この年大学進学率は15%, 教師の初任給は14000円強だった。

大阪万博の前年1969年教師の初任給は27000円だった。この頃から賃金が急カーブで上昇した。公設市場を駆逐しつつスーパーができた。物価はまだ安く松茸、牛肉が都市サラリーマン家庭の食卓をにぎわすことがあった。私は私塾で稼いだカネで、近江牛の草鞋大のステーキ肉、牛タン丸々1本を買ったりして新妻を驚かせた思い出がある。
1973年中東戦争によるオイルショックでトイレットペーパー騒動が起きた。貨幣価値が下がり食材は高騰し、高級と普通とB級に分別されるようになった。高級食材がスーパーから消えた。世の中が「マッコト」(土佐弁で御免なさい)ブルジョア化したのである。


 
N
Z小学校運動会における我クラブ所属選手たち

1969年塾生でサッカークラブを創った。野球少年団すらない状況だったので空いているときは校庭を自由に使うことができた。試合相手が無いことが不満だった。
急激なベッドタウン化で人口が増加すると共に学校が新設され若い教師が急増した。伴侶の世代がそれである。男性教師たちが水曜日午後の研修会でつながって市内で教員チームを創って市社会人サッカー協会に登録してリーグ戦に参加しだした。
私の塾の圏内にあるSB小学校で放課後熱心な先生が上級生とボールを蹴り始めた。圏外でもAB、NK、SM小学校で同様のことが起こった。1970年SB小から来ていた3人がチームを抜けた。そのうちに学校チームが増えてサッカーは学校でできるから、とチームに入らない子が出だして、サッカーを義務付けた塾の規則が破綻してしまった。
学習塾はまだ競争相手がなく順調だったが、高槻フットボールクラブは部員不足で苦労することになった。子供にしてみれば学校でクラスメイトとサッカーができるのに学校が違う者が集うクラブの募集に応じる意味を見出せなかったのだ。
体育研修部会の熱心な先生たちが校長会を動かして公認の校長会杯サッカー大会を夏と冬に開催するようになった。わがクラブは参加資格がなかった。わがクラブは常設チームのない学校から来た選手でかろうじて1チーム分の選手を揃えるのがやっとだった。
試合相手には困らなくなった。府内はもちろん神戸、京都にサッカースクールができた。市内のSB、ABクラブはよく胸を貸してくれた。相手にならないのでDクラスとやらしてもらったことがある。Dクラスとやっても強くならないよ、とそこの先生に言われたが、Bクラスにはぜんぜん歯が立たないのだから仕方ない。
異端者ではあるが熱心さを買われてやがて校長杯に特別に参加させてもらえた。スポーツ少年団を育てたい教委・社会教育課の働きかけが利いたと思う。
こういう事情だからクラブは、ユニフォーム代、交通費は各自持ちだったが、強豪になるまで運営費をとれなかった。わがクラブが会費制を導入したのは、1980年全国大会にはじめて出場して、会費のない学校クラブにないプラス・アルファを獲得したあとのことである。大阪人は、私営プールを使うスイミングスクールは会費が要るが、公共の会場を使うサッカースクールはタダという金銭感覚に永いこと捉われていた。



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