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前原外相辞任、減点国家に嫌気。 これでは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」?

2011-03-07 07:26:36 | 暮らし・街・環境
20万円の献金で、国の外務大臣が辞任する。
外務とは、国際政治の担当者、外交というせめぎ合いを、放棄させることは、国を無防備にさらすことだ。貿易条件(課税だけなく、貿易手続き)、出入国条件(ビザだけでなく、検疫、持ち物検査・・)、為替管理条件(通貨交換・送金・・・)など、現代の国防とは、武器ではなく、制度であり、仕組みであり、その多方面の条件交渉役が外務大臣なのだ。
尖閣諸島も千島列島も、この無防備な隙間を突かれている。(四島だけではなく、樺太まで本来は、せめぎ合いの交渉対象だったはずなのだ)。

国境は不要で、世界の最適地で生産し、最適地で消費すればいいというは、「市場」を利用する側からの論理。その市場で、資源量や消費量で力を発揮できなくなった国、モノづくりの工夫も、事業戦略化・ICT徹底ができる国によって、即、吸収されてしまう国。そんな国は、人の信頼関係に基づいた生活や仕事ができる国で在り続けることを活かした、文化経済力に頼らざるをえない。

それが、それが、
この数十年の減点試験制度によって、破壊された。人を信頼し、任せてみることよりも、言葉の端をあげつらい、規則を優先する原理の文化へ偏向してしまった。
言の端の断片を揚げ足とり、制度違反をテコに引きずり下ろす。完全な人・完全な言動・完全な政治家を求めるほどに、政治家はいなくなり、そして、政治も又、タレントと同じように、人気商売になり、賞味期限が短くなり、目の届かないところで、政治屋が税を無題食いし、予算を既得権者に配ってきた。その権益を引きはがし、世界経済の中で、位置取りをすることが、内政・外交の国政なのではなかったか?
国際という際は、この交通・運輸・通信の普及した地域では、制度・法律の仮想のものでしかない。世界経済・世界生活は、いろいろな現場に分散して、国内経済・国内経済と絡み合っている。そこで、目をつぶり・耳をふさぎ・自閉して、外との関わりを放棄しているのが、この減点国家なのだ。行動して減点されるよりも、一緒に沈もうという国だ。

なるほど、武力放棄だけでなく、外交も放棄して、鎖国にもどるのか?
いや、米国の庇護に引きこもって数十年、パラサイト・引きこもりに慣れってしまっているのだ。朝貢政治の時代では、沖縄は清にも薩摩にも貢いでいた。地勢からいえば、日本を離れて中国になる方向もある。台湾にならないためには、尖閣列島は中国領にという布石なのか?相手の隙を狙う100年単位の外交は、資源獲得と消費力の闘い、現代の国家間の戦争なのだ。

米国は、減点主義ではなく、市場主義、つまり差異に生きる国だ。金融差異と天然資源と農林業による世界市場を「米語」と「民主主義」と「ICT」と武力で生き延びようとしている。市場の大きな中国との関係を有利に導くために、環太平洋経済という舞台を設定しようとしている。その太平洋の縁の日本は、米国50番目の州でもなく、戦争だけでなく、政治も外交も放棄しようとしている。 

米国が沖縄で中国内の利権をもらうほうが経済的なメリットは大きいのでは?
日本が米国に守られるのを嫌がるときが、いいタイミングではないか?
北方4島も、人口減の日本ではなく、気候がサハリン・樺太よりは温暖な地を求めるロシアに任せるほうが、日本の予算を使わなくていいのでは?その代わり、シベリアの資源と交換するほうがいいのでは? 国境が恒久的に既存国家にあたえられた既得権なのか、生存力のバランスによる勢力圏という暫定的なものなのか?
太平洋戦争という口当たりのいい言葉をつかっているが、大東亜戦争という武力勢力圏戦争をまけたあと、経済力により、世界市場でGDP2位を確立した経緯、当たり前だったのか?いろいろと、妄想を膨らませてみると、今、いかに刹那に生き、昨日と明日を失っているかに気付く。

少子高齢社会になるのだから、減点社会が減人社会となるのは当然だろうか?ホームレスも非正規社員も、その減人の結果なのだろうか。そうだ、総理大臣もどんどん辞めて、総理にならないで生き残っている人も、検察にしがみつかれ、政権党を引きずりおろそうとしているのか?
廻りの状況を見ず、自分だけのために、他人の足を引っ張り合っているのは、
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだ。

廻りが見えない、観ようとしない、自分の都合だけで、蜘蛛の糸の先の出口をみようとするのは、まさに亡者の世界、つまり、現世が地獄のようなのだ。
そこに光をあてるためには、政治の見える化、政策の見える化、経済のみえる化、地域の見える化など、共通の認識基盤をつくることが必要だ。ご都合主義の統計調査や指標、人気調査は、一度仕分け直しで、あらたなる指標が必要だ。環境指標のようなモノの指標ばかりではなく、人のサービス・関係力に対する指標が必要なのでは。
それが、文化経済の差異化に直結し、資源も設備も消費地も僅かだが、日本語による共通認識力が高い島国の地勢と人を活かす手がかりではないか?
見えてしまえば、放っておけない。手がかりをつかみ、共に努力し、’お疲れさん’と、言い合えば、気持ちが通じる不思議な国ではなかったか? 
そして、言葉や図表・写真・映像などを動員しても、それでも表現しきれないこと、人と人と、人と自然との関わりの中でしか、感じ得ないことのを、感じ得た日本という、辺境で貧しいが、南北に長く・変化に富む地域に共に棲む有り難さが、堪らないのだ。





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