モノと心の独り言

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入試ネット投稿と、リビアなどの独裁抗戦

2011-03-03 05:18:06 | 暮らし・街・環境
 どこでも・だれでも・いつでも使えるケータイが、ことば・写真・映像で、感じ・記録し・伝え合うことが、技術・機器の普及・ネットワークの広がりによって、世界を変えてゆく。しかし、変え方は、状況の課題と方向づけにより、地域ごとでことなる。

 地中海沿岸のアフリカでは、独裁政権に対する個人の拒絶を集団行動に移した。個人のテロが地域の行動へ、そして独裁国家体制と向い合う集団になった。その展開は、対立の消滅が次の勢力分布へと発展するために混乱が続くのか、既存の対抗勢力が主流になるのか、それは地域の状況にそって進むしかない。しかし、キリスト教がかって世界を改宗させようとして、多くの文化を破壊したように、不寛容な宗教世界に回帰しようとすれば、さらなる破壊がつづくことになる。欧州の中世は長かったし、新教への分離が資本主義を進めたという説もある。来世を信じる宗教は、現世の他人の犠牲を正当化しがちだ。

 衣食住の物理的な条件を自己改革しつづけたのは、西欧だった。アフリカも中近東もアジアも、その過程で停滞したいた。明王朝は、アフリカまで大船団を送っていたし、清王朝の18世紀までは、世界最大のGDPを維持していた。陸の王国がローマからウィーン、パリ、モスクワと広がり、海洋王国がスペイン・ポルトガルからオランダ、そして英国へとひろがった時でさえ、欧州列強は、中南米の銀で、清と交易した。その銀が不足して武力でアヘンでの交易を強要したのがアヘン戦争であり、その後の二度の世界大戦をへて米国が先進国に入り、東西先進国は核で対立し、世界の通信・交通・交易の秩序を作った。論を急ぎ、言い方を変えれば、個人が自身と周囲の資源を最大限に発揮し、衣食住遊を実現できるシステムが、自由交易と民主主義だったということだ。

 そして、核という国家間のバランスを維持し、モノと金の自由交易が保証し、資本の自立的な増加を目指す仕組みを、通信・情報・交通ネットワークで、維持すれば、金融資本市場社会は、地球の人口と資源の限界を超えて発展する、というモデルが共有されている時代だ。
今、国は、風土と人と歴史の経済文化をまとめる制度として、攻守ともに必要な境界をもつ。その国の政治体制は、明文化された法と明文化されていない社会習慣、そして地勢と土木・建築物による空間と、社会的な象徴となる生活・文化などが、相互に支えている。そこに、命と衣食住の危機がせまれば、個人はそれを伝え対処しようとする。
 ケータイは、その国・地域の人が直面する課題を共有し、連携してゆくために使えるコミュニケーションの道具である。読み・書き・そろばんを前提としない、見て・写し・話・聴き・最小限の意志確認のことばで、使える道具である。

 アフリカ・中近東では、ケータイにより一瞬で、独裁政治家と対峙する集団行動に発展した。
日本では、「知識試験」へと向かった。幼少から、大学入試、そして就職まで、この「知識試験」能力を基準として、終身雇用体制が続いてきた。この「知識試験」能力がそのまま、社会力でもなく、仕事力でもないことは、だれでもが分かっている。
 明治に身分制度を止めた、学歴社会へと進んで130年余である。しかし、その知識を伝え・記録する仕組みはこの40年で大きく拡がった。パーソナル・コンピューターからケータイまで、スタンド・アローンからサーバ・クライアント、LAN、WAN、スマート・グリッドまで。

 「知識試験」人間偏重が、新卒者の就職後の入社訓練を必要としているのではないか?
ロボット化・OA化・グリッド化で、人の仕事量はへり、少子高齢化で日本市場が縮小しているときに、まだ国内でしか通用しない「知識試験」能力だけで選別しようとするのか?
資格の時代といいつつも、所詮「知識資格」ではないか?
どうやって、ユビキタスにアジアで役に立つ人が育つのか?
知識だけなら、科挙試験の歴史のある中国・韓国に対抗できないだろう。
日本人の特性、世界に通用する特性は、何なのか?

ガラパゴスに普及したケータイを、「知識試験」のカンニングにつかったということを、どう考えるか?
既存の資格者・利権者からみれば、既存のルール・法律を破った犯罪者。
同じ受験者からみれば、卑怯な競合者。
しかし、塾や家庭教師、教材や集中する環境は、だれもが同じでない。
良い環境に産まれたのは、卑怯ではないのか?
何故「ドコモのケータイから」とマスコミは騒ぐのか? なぜケータイからと言わないのか?
そして、「まさか山形県からとは!」と、驚く教育関係者って何なのか?

わっかんな~い、ことばかり言っているけれど。
日本の試験制度が、日本の競争力を弱め、日本の地域社会での人間関係力を奪い、人々の不安を高めていることは、考えないのだろうか?
そんな間接的で、抽象的で、大きな問題には、対処できない?
だから、目先のマニフェストで行き詰まるのだ!

 (いやいや、ボスになるための足の引っ張り合いを、タテマエでしゃべっているだけなんだから)、
 (分かっている、分かっているけど、それなら、国政とめるなよ!談合したって、八百長やったって、なんとかしてよ)、
 (談合と八百長の違いは?)、
 (組織か、個人かの違い!)
 (ほら、落としどころが無いとか、航海図が無いとか、堂々といっているでしょう。)、
 (純粋な討論とか、正論とかないの?)、
 (だって、論自体が、何らかの価値観、軽重を反映した検討のルールだから、論に入れば、どの価値観に基づくか決めなければいけない)、
 (もっと科学的に統計や市場調査をすれば?)、
 (その統計・調査項目選び自体が、特定の価値観に基づいているんだから)、
 (じゃ、価値観ってなによ?)、(一緒に持つ希望のようなもの、つまりビジョンかな~~~)、
 (だれと一緒にもつの?)、
 (地域でもあり、親族でもあり、好みが同じな仲間でもあり・・・、それが重なって、重なって、時を重ねてくれば、国にもなるかもね~)

 (ビジョンを共有しないで、なにが国政だ! )
 (こんな国際社会時代、日本をどう想うか考えないで、なにが国際人だ!) 
 (えっ!)

(また、やっちゃった・・・)

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1 コメント

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「超思考」からか? (バカボンの叔父)
2011-03-04 03:16:09
最近の記事の多さは、どうも、タケシの「超思考」を読んでしまってからか? 
http://blog.goo.ne.jp/alfclub/e/42724c92e413a7c7bd0841d2ceb6b8bf
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