『経済学の犯罪ー希少性の経済から過剰性の経済へ』佐伯啓思著 講談社現代新書 読後のひとりごと
家庭・地域からネット・ゲームまで市場経済化しているというが、実は経済といっても、生活経済・市場経済・金融経済の三層がある。
個人化・移住化が、家庭・地域での相互経済を解体している。家族・地域生活は解体して、サービス化された、つまり内容と経緯や対価、税とサービス料の市場経済化が進んでいる。
労働と生産物の交換の場としての市場経済は、一方で生活を吸収し、他方で金融市場へと流出している。
市場経済は、生産力の余剰と消費力の限界で、余剰資金が投資に廻らず、貯蓄から金融市場へと流出する。
金融市場は数値自体の差異を拡大再生産して膨張と破裂を繰り返し、母体である市場経済の破壊へと逆流する。
市場経済の現在は、欧米・日本の限界をアジア・南米へと舞台を拡げて延命し、アフリカまでの伸びしろがある。
しかし、中東が生活経済と市場経済の移行が難しければ、つまり、生活信条と経済発展が、生活格差を拡げれば、共存しにくくなる。まして、石油資源をオイルダラーへ、市場経済と金融経済を連動した産油国の繁栄の狭間に、エジプトは居る。エジプトは、排他的な信仰で生活経済に偏って、市場経済から離れだしたところの軋轢。イスラエルとパレスチナとの対立は、信仰と国土の対立、つまり、生活経済の対立。そして、産油国は、オイルダラーに依存する市場経済から金融経済に移行してきた国が次の産業に投資をしつづけている。 たとえば、エミレーツ航空、カタール航空などは、中東のハブ空港整備と連動して、ヨーロッパ・アフリカ・アジアをつなぐ基幹キャリアの観がある。
アラブの春は、それぞれの国勢により、基層が異なる。エジプトは、産油国ではない。生活・市場・金融を同じ自由市場で流動化し、生活圏・市場圏・金融圏が相互に陥入し合って、軋轢を解きほぐす言葉がかみ合わない。
著者は、自由市場主義の自己矛盾、希少性が過剰性を生む元凶と述べる。いま、その過剰性を高めているのは、資本だけではない。
メディアの過剰、つまり、言葉という背景をもってこそリアリティをもてる言葉、音という流動しやすい刺激、理解する生活基盤を共有しない映像が、溢れだしている状態なのだ。
そこで、「平和」とか「戦争はいやだ」とか、「自由」だとかを、日本語、それも、明治以来の言葉、いや、戦後民主主義教育で、まる飲みした言葉で、語りきろう、主張しきろうとすることが、無理だ。「アラブの春」とは、誰にとっての春なのか?自由経済市場にとっての春?金融市場にとっての春?利子を認めないイスラムで、西欧の春という言葉では表現できないのでは。
毎年苦い思いをするのが、「終戦」ということばなのだが。
戦争を政治の延長と観るのか、戦争を生存権の拡張とみるのか、他の手段を持たない者の選択。自由市場に乗りきれる者は、平和を訴えつづけていられる。今は、経済市場も金融市場も情報戦争の時代なのだから。
国の命運も、為替・金融相場次第なのだから。