「情熱としての愛―親密さのコード化 」二クラス・ルーマン著
人間がなぜ、生きつづけてゆこうとするのか、
「社会システム論」の二クラス・ルーマンが愛ー親密さのコード化により語っている。
近代に入って、社会と個人が分かれた。
それまで、神の世界としての社会の一部であった人が、
社会と個人―パーソナルな関係とインパーソナルな関係に分かれた。
その結果、パーソナルな人同士の体験と行為が、
地域や家族での体験と行為から分離しはじめた。
その個人同士の間での愛をシンボルにして、
近世、近代、そして現代へと引き継いできた。
そのコミュニケートされたシンボルは、
活版印刷術による近代文学の中で展開し、
相互浸透の愛として、電子メディアの現代に繋がる。
階層社会のゼマンティックから、機能社会のゼマンティックへ、
近世貴族社会の情熱、理想、ギャラントリー、友愛などから
近代市民社会の愛と理性、愛と結婚と再生産のイデオロギーへ
そして、現代個人社会の相互浸透のシステムとしての愛 が展開する。
機能社会化により、真理、所有/貨幣、芸術、権力/法などの
社会システムが分出してきている。
上図のように自我・多我、行為・体験で分類すると
真理 :他我の体験→自我の体験
所有/貨幣:他我の行為→自我の体験
芸術 :他我の行為→自我の体験
権力/法 :他我の行為→自我の行為
これらは、インパーソナルな関係である。
愛は、他我の体験→自己の行為
で応答し続ける、パーソナルな関係として、
そのインパーソナルな関係に分散する個人を繋ぎ留める。
個人は、インパーソナルな関係において、
自我と他我、行為と体験として、
指し示し、指し示されることによって
分散してゆこうとする。
その分散に対抗するのが、パーソナルな愛なのである。
機能社会に分散しがちな個人と個人との持続的な関わりは、
互いのゼマンティクの差異と、互いの環境との差異との
二重の差異を、埋めあおうとする終わりのない過程
(オートポイエーシス)である。
これが、事象的に、社会的に、時間的に重ねられる
愛の行為であり、体験である。
個人というシステムが環境との差異に孤立して対峙する持続性と、
個人が特定の個人と対峙し合い、互いの差異に直面しながら、
親しみの領域を確保しつつ、
環境との差異に立ち向かい続ける持続性とが、
相互に補完しあっている。
真理、所有/貨幣、権力/法のゼマンティクスは、
細分化、多数化、拡大化が求められる。
芸術のゼマンティクスは、分野を超えた
差異の更新の現出だ。
愛のゼマンティクスは、
最小限の他者との、無限の差異の埋めあいであり、
労わりでもある。
社会システム論でのプレイヤーとして、
族・家族から個人が分出し、
宗教・政治・法・所有から個人が分出した。
意識化された個別の行為・体験ごとに観察されるマルチチュードと、
個人同士の体験と行為により、差異を埋めあう愛がある。
図象的メタファーをかりて
歴史的にゼマンティススを表現してみれば、、
近世までは、環境の一部、神・自然システムに組み込まれている人
近代は、環境への理性的・理想的個人の拡大
そして現代は、
拡散と凝縮を繰り返す個体、
拡散の手がかりは、マルチチュード
凝縮の足がかりは、愛
現代は、神・自然に身を任した人の体験と行為に対する信頼も休息もなく、
拡大を続けるしかない真理、所有/貨幣、権力/法と
差異を拡大しつつ環境をシステムに取り込もうとする芸術と
不安と癒し、安らぎを求め合い続ける愛の時代だ。
どの社会システムに重心を置くかは、個人しだいだが、
この意味で、生は無限に動機づけられている。
関連
「社会システム理論でのマルチチュード」
参考
『社会の芸術』二クラス・ルーマン
『社会システム理論 上』ニコラス・ルーマン
『社会システム理論 下』ニコラス・ルーマン
人間がなぜ、生きつづけてゆこうとするのか、
「社会システム論」の二クラス・ルーマンが愛ー親密さのコード化により語っている。
近代に入って、社会と個人が分かれた。
それまで、神の世界としての社会の一部であった人が、
社会と個人―パーソナルな関係とインパーソナルな関係に分かれた。
その結果、パーソナルな人同士の体験と行為が、
地域や家族での体験と行為から分離しはじめた。
その個人同士の間での愛をシンボルにして、
近世、近代、そして現代へと引き継いできた。
そのコミュニケートされたシンボルは、
活版印刷術による近代文学の中で展開し、
相互浸透の愛として、電子メディアの現代に繋がる。
階層社会のゼマンティックから、機能社会のゼマンティックへ、
近世貴族社会の情熱、理想、ギャラントリー、友愛などから
近代市民社会の愛と理性、愛と結婚と再生産のイデオロギーへ
そして、現代個人社会の相互浸透のシステムとしての愛 が展開する。
機能社会化により、真理、所有/貨幣、芸術、権力/法などの
社会システムが分出してきている。
上図のように自我・多我、行為・体験で分類すると
真理 :他我の体験→自我の体験
所有/貨幣:他我の行為→自我の体験
芸術 :他我の行為→自我の体験
権力/法 :他我の行為→自我の行為
これらは、インパーソナルな関係である。
愛は、他我の体験→自己の行為
で応答し続ける、パーソナルな関係として、
そのインパーソナルな関係に分散する個人を繋ぎ留める。
個人は、インパーソナルな関係において、
自我と他我、行為と体験として、
指し示し、指し示されることによって
分散してゆこうとする。
その分散に対抗するのが、パーソナルな愛なのである。
機能社会に分散しがちな個人と個人との持続的な関わりは、
互いのゼマンティクの差異と、互いの環境との差異との
二重の差異を、埋めあおうとする終わりのない過程
(オートポイエーシス)である。
これが、事象的に、社会的に、時間的に重ねられる
愛の行為であり、体験である。
個人というシステムが環境との差異に孤立して対峙する持続性と、
個人が特定の個人と対峙し合い、互いの差異に直面しながら、
親しみの領域を確保しつつ、
環境との差異に立ち向かい続ける持続性とが、
相互に補完しあっている。
真理、所有/貨幣、権力/法のゼマンティクスは、
細分化、多数化、拡大化が求められる。
芸術のゼマンティクスは、分野を超えた
差異の更新の現出だ。
愛のゼマンティクスは、
最小限の他者との、無限の差異の埋めあいであり、
労わりでもある。
社会システム論でのプレイヤーとして、
族・家族から個人が分出し、
宗教・政治・法・所有から個人が分出した。
意識化された個別の行為・体験ごとに観察されるマルチチュードと、
個人同士の体験と行為により、差異を埋めあう愛がある。
図象的メタファーをかりて
歴史的にゼマンティススを表現してみれば、、
近世までは、環境の一部、神・自然システムに組み込まれている人
近代は、環境への理性的・理想的個人の拡大
そして現代は、
拡散と凝縮を繰り返す個体、
拡散の手がかりは、マルチチュード
凝縮の足がかりは、愛
現代は、神・自然に身を任した人の体験と行為に対する信頼も休息もなく、
拡大を続けるしかない真理、所有/貨幣、権力/法と
差異を拡大しつつ環境をシステムに取り込もうとする芸術と
不安と癒し、安らぎを求め合い続ける愛の時代だ。
どの社会システムに重心を置くかは、個人しだいだが、
この意味で、生は無限に動機づけられている。
関連
「社会システム理論でのマルチチュード」
参考
『社会の芸術』二クラス・ルーマン
『社会システム理論 上』ニコラス・ルーマン
『社会システム理論 下』ニコラス・ルーマン
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