Facebookなどのソーシャル・ディアには、’いいね’とか、’拍手’とか、緩い関係づくりの仕掛けがある。
アクセス数至上のランキングよりは、理解と好意の表明になるようだ。
しかし、好意と同意は同じでないので、なかなか押しづらい。
またトモダチという表現も、友達とは違う。’ともだち’とも、違うのが日本語の多重言語性。
このビミョーさが、好きなのだが、いつのまにか友達がトモダチになってしまっている気もする。
息子から教わった好きなことば、 「そーなんだ」
これは、「そーなんだ!」とも、「そーなんだ・・・・」とも、とれるけど、まだどちらでもない。
相手のことをしっかり受け止めたという表明まで。
認めるというには、おこがましいではないか。
’トモダチ’は、スモールワールド理論からの人をツナグ手がかり。
’ツナグ’のが、’繋ぐ’でないのは、お互いを束縛しない緩さだから。
束縛しない故に、相手の反応を必ず期待するものではない。
期待しあい、義務化されていた村社会から都会へでたときの自由は、
より少ない人との持続する束縛から逃れた故。
今、ツナグのも、ツナガレルのも緩い関係を是とすれば、
絆は、キズナ。
都合のいいときには寄付金やボランティアができるけど、
身を捨てて、自分の立場を別にして、対応するのは無理。
そんな振る舞いの人が集まるための政治は、当然保身と・利権誘導。
そんな政治には、’そーなんだ’と、態度保留で望むしかない。
政治で世を動かすのは心許ない。
自然と人との意識を総合したセンサーとコミュニケーションのデータに頼りたいのだ。
トモダチも友達も、その応答回数・応答の直近さ・応答時間の違い。
これは、Recency-Frequency-Amount の、マーケッティング指標なのだ。
つねに、変化の途中であり、うたかたの あはれさ・あっぱれさ・・・
’契る’というコトバは難しい。’チギル’、’ちぎる’・・・・
契約というコトバとは別世界。ことほど左様に、文化は身体。
センサーとコミュニケーションのデータといえば、クラウド化で話題になるビッグデータ。
人が恣意的に表現できることと表現できないこと、センサーの設定で検知できることと出来ないこと、その複雑系を越えるのは、自己生成を続けるコミュニケーションと未来のその場・その時を想定する決断。
決断とは、多くのこと断ち切り、あきらめることでもある。いいとこ取りのWin×Winも、なにが良いのか割り切りる、切り捨てがあってこそ成り立つ。