「気合いとアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」という、空疎に前向きな感性を、「ヤンキー社会」と名付けたのは、精神科医の斎藤環氏(朝日新聞12月27日朝刊より)。非行や暴力とは関係ないが、「経済やふるさとを取り戻す!」「気合いが足りないから生活保護を受けるようになるんだ!」と根拠を述べず気合いがあればと言う風。いや、その気合いもヤンキーにあこがれる程度で、病気辞任快復後、反民主の風を国の借金で調子づけようという阿部首相は、「いまここ」を生きるヤンキー気分に乗っかっているだけでは?と。
調子良さそうな人を配置つける人事で政治が終わるわけではない。政治は主義や人格ではなく、手法・経過管理・結果反映・改善実行の社会システムの時代だ。市場経済システム化だけに傾いた前・前政権にたいして、民主党は新たな手法を確立できなかった。しかし、旧利害関係を票の基礎に、国税と将来の借金である国債で、気合いでデフレに立ち向かうのは、やっぱり戦艦大和の沖縄航路なのだ。
「いまここ」のヤンキー気分は、ネット社会でもソーシャルメディアにのって、身の回りの人やコトに専念する時間を増やす。血縁・地縁・社縁という持続的な縁がバラバラになって流動化した消費市場は、マス+ソーシャルメディアによるグローバル市場。金融資本の自己運動に国境はない。人が予測できない・対処できない不安は更に増大する。デフレ社会とは、この不安社会なのだ。その流動性のなかで大局の情報を動かしてゆく組織が、勝ち残ってゆくのだ。為替とGDPなどの市場指標しか描けなければ、デフレの根本の不安の解消には至らない。
不安は、個別の関係とは関わりのない、数量化による市場交換が、あらゆる生活に関わってきてしまった結果なのだ。世界の非市場社会を市場化して、差異を増やし続ける拡大再生産は、今、アジアから中南米・アフリカへと広がりつつある。商品は量を増し、差異をしかけることで膨張してゆく。そして、交換可能性である通貨自体が欲望と不安がふくらませる金融資本市場には、物理空間の限度はない。数量は常に相対的で限りがない、収奪を繰り返すところに安寧はない。
不安解消は、数量化による交換市場とは別の場に求めるしかない。期待にそって対応してもらう確率が高い関係を、信頼関係という。成長も老化も天変地異も、互いの期待に応え会う関係で、対処してゆける。かっては、血縁・地縁が信頼関係の枠だった。会社や国が家族として見なされて来たこともある。しかし、この流動社会では、働き・生きながら保てる持続的な関係を、血縁も地域も企業も持ち続けられない。制度や文化を支える国も、社会システムが進めば、もっと地域化してゆくだろう。
その傾向のなかで、予測できないことに対処し合い、信頼関係を維持してゆくのは、非市場な近縁社会での相互関係の中なのだ。市場社会は、明文化した契約とそれを守る物理力・軍備で維持されている。国際間の法をまもるのが軍備、国内の治安と連続して市場は守られている。しかし、人の関係を築き守るのは、軍備ではなく相互行為なのだ。相互行為は、目的の有無にかかわらず関わり合える近縁関係で起き続ける。近縁は、隣接でも組織・年代の近さでもない。気が通い合うコミュニケーションが持続でき、頻度の高い接触が可能な時空距離内だ。
近縁社会を非市場的につくる国内・地域での仕組みが、近縁の個性を高め、国際市場でエネルギー・資源を輸入しつづけても国際価値生産性を高められる。
差異を求めつづける人の本性を認め、地域の互いの関わりを、権利と義務に二極化しないで、多様な人と生きる楽しみにして、近縁の個性を確立すること。
いや、これも族の一種、ヤンキーの生まれ変わりか?複雑系の世界の中での五里霧中は、ヤンキーでしかないのか?程度問題だということは、PDCAが廻って、さらなる刺激を楽しめてるかの自己判断だということか?いや、どこかに変化を映す鏡を置いておくかどうかが、近代を越えたのかどうかの目安なのだ。