大浮世絵展で歌麿の発色のいい作品を30点以上も鑑賞した。
婦人相学十躰シリーズ、
町娘(高島おひさなど)のシリーズ、
歌撰恋之部シリーズ、
青楼十二時シリーズ、
北国五色墨シリーズ
などの1793-95年が画家としてのピークで、その後の作品となると、働く女性を描いたり、親子を描いたりしているが、魅力にちょっとかける。
どうして歌麿のピークは1793-95年(寛政5-7年)なのだろうと、気になりはじめた。
たまたま、手元にあった「歌麿 抵抗の美人画 (朝日新書)」を読み返してみた。(著者近藤史人氏は、NHKのディレクターでボストン美術館のスポルディング・コレクションの歌麿作品400点を取材した番組、栃木で発見された歌麿の作品に関する番組などを担当した。当時両番組とも視聴した記憶がある。)
歌麿と寛政の改革の関係が詳細に書かれていて、なるほどなと得心した次第。著者が学芸員ではないので幕府の動向も詳しい。まとまめると、
天明元年(1781)蔦屋重三郎の黄表紙制作に参加、の挿絵をはじめて描き、天明3年(1783)ごろから狂歌サロンに参加。狂歌絵本の画師に
⇒天明7年(1787)松平定信が老中首座につくと、翌年には軽少納言こと土山孝之が死罪に、大田南畝も狂歌仲間から交際を断つなど、狂歌サロンは終焉、寛政2年(1790)に幕府禁令(同時代事件の絵本の禁止、花美潤色を加えた本の禁止、相互検閲極印)が、さらに寛政3年(1791)には、蔦屋が山東京伝の洒落本について咎められ、身上半減の処分を受ける。
⇒寛政3年は、歌麿は栃木で行き、肉筆画を描いていた。蔦屋と寛政4年(1792)年に、画期的な構図の美人大首絵「婦人相学十体」を発表。翌年寛政5年(1793)には難波屋おきた、高島おひらを描いた「当時三美人」が大ヒット。代表作の「歌撰戀之部」も。
⇒
寛政5年(1793)に、定信が老中を退くが、登用した老中から若年寄は留任。寛政の改革は引き継がれ、形式だけ墨守される。寛政6年(1794)に美人画に名前をいれることが禁止に
⇒
寛政6年(1794)、判じ絵を考案、禁制に対抗。
⇒
寛政6年(1794)蔦屋が写楽を発掘。
寛政6-7年(1794-5)蔦屋以外(伊勢孫)から北国五色墨 を発表
⇒
寛政8年(1796)判じ絵が禁止に。
寛政9年(1797)このころから働く女のシリーズを発表
⇒
寛政9年(1797)蔦屋重三郎 没
寛政12年(1800)美人大首絵の禁止
寛政12年(1800)このころから山姥と金太郎シリーズ
⇒
文化1年(1804)太閤記ブームで秀吉の名をかいた作で入牢
文化1年(1804)各種版元から依頼あり
文化3年(1806)没
歌麿が画中に書いた自画自賛ぶりの文言、狂歌絵本の内容も、そうだったのかと得心。
一方、歌麿の周辺の話も楽しめた。例えば、清長が浮世絵から引退したのは歌麿に負けたから。とか、蔦屋重三郎のプロデュースぶりや大田南畝が仕官したことなど。
寛政の改革の禁制も具体的で面白い。「寛政の遺老」により以後25年にわたって寛政の改革は引き継がれた。本書でこのことは初めて知った。徳川幕府崩壊の一端は家斉の子どもが多く経済的負担が多かったともどこかで聞いた覚えがある。下に倹約、上は浪費ではね。などとも考えた。
婦人相学十躰シリーズ、
町娘(高島おひさなど)のシリーズ、
歌撰恋之部シリーズ、
青楼十二時シリーズ、
北国五色墨シリーズ
などの1793-95年が画家としてのピークで、その後の作品となると、働く女性を描いたり、親子を描いたりしているが、魅力にちょっとかける。
どうして歌麿のピークは1793-95年(寛政5-7年)なのだろうと、気になりはじめた。
たまたま、手元にあった「歌麿 抵抗の美人画 (朝日新書)」を読み返してみた。(著者近藤史人氏は、NHKのディレクターでボストン美術館のスポルディング・コレクションの歌麿作品400点を取材した番組、栃木で発見された歌麿の作品に関する番組などを担当した。当時両番組とも視聴した記憶がある。)
歌麿と寛政の改革の関係が詳細に書かれていて、なるほどなと得心した次第。著者が学芸員ではないので幕府の動向も詳しい。まとまめると、
天明元年(1781)蔦屋重三郎の黄表紙制作に参加、の挿絵をはじめて描き、天明3年(1783)ごろから狂歌サロンに参加。狂歌絵本の画師に
⇒天明7年(1787)松平定信が老中首座につくと、翌年には軽少納言こと土山孝之が死罪に、大田南畝も狂歌仲間から交際を断つなど、狂歌サロンは終焉、寛政2年(1790)に幕府禁令(同時代事件の絵本の禁止、花美潤色を加えた本の禁止、相互検閲極印)が、さらに寛政3年(1791)には、蔦屋が山東京伝の洒落本について咎められ、身上半減の処分を受ける。
⇒寛政3年は、歌麿は栃木で行き、肉筆画を描いていた。蔦屋と寛政4年(1792)年に、画期的な構図の美人大首絵「婦人相学十体」を発表。翌年寛政5年(1793)には難波屋おきた、高島おひらを描いた「当時三美人」が大ヒット。代表作の「歌撰戀之部」も。
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寛政5年(1793)に、定信が老中を退くが、登用した老中から若年寄は留任。寛政の改革は引き継がれ、形式だけ墨守される。寛政6年(1794)に美人画に名前をいれることが禁止に
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寛政6年(1794)、判じ絵を考案、禁制に対抗。
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寛政6年(1794)蔦屋が写楽を発掘。
寛政6-7年(1794-5)蔦屋以外(伊勢孫)から北国五色墨 を発表
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寛政8年(1796)判じ絵が禁止に。
寛政9年(1797)このころから働く女のシリーズを発表
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寛政9年(1797)蔦屋重三郎 没
寛政12年(1800)美人大首絵の禁止
寛政12年(1800)このころから山姥と金太郎シリーズ
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文化1年(1804)太閤記ブームで秀吉の名をかいた作で入牢
文化1年(1804)各種版元から依頼あり
文化3年(1806)没
歌麿が画中に書いた自画自賛ぶりの文言、狂歌絵本の内容も、そうだったのかと得心。
一方、歌麿の周辺の話も楽しめた。例えば、清長が浮世絵から引退したのは歌麿に負けたから。とか、蔦屋重三郎のプロデュースぶりや大田南畝が仕官したことなど。
寛政の改革の禁制も具体的で面白い。「寛政の遺老」により以後25年にわたって寛政の改革は引き継がれた。本書でこのことは初めて知った。徳川幕府崩壊の一端は家斉の子どもが多く経済的負担が多かったともどこかで聞いた覚えがある。下に倹約、上は浪費ではね。などとも考えた。