徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

新羅明神について

2009-03-03 | 美術
 国宝三井寺展で秘仏新羅明神が開扉されている。

 三井寺のHPによれば、新羅明神は三井寺の守護神として祀られている。「園城寺龍華会縁起」によると、円珍が唐からの帰途、老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、教法加護を約したといわれている、とのこと。

 図録中の新羅明神の説明の一つには「円珍が入唐求法の際、(張保皐が開山の)赤山法華院にて新羅人が祀っていた神を伴い帰ったのが新羅明神で、帰国の際に円珍の前に現われて仏法守護を誓った伝える。」とある。

 円珍の入唐は、853年に博多を大唐商人 王超・李延孝らの商船に乗り込み、858年に李延孝らの商船により帰国。大唐商人を信用して唐へ渡ったようだ。少し前の、慈覚大師円仁の求法の旅(838-847)で、円仁を清海鎮大使張保皐(-841?)を支援した話はWIKIPEDIAにもあるし、有名な話のようだ。京都の赤山大明神は円仁の弟子が円仁の志を継いで新羅人の神を祭るために888年(仁和4年)に建てたものであるとのこと。

 田中史生「越境の古代史」によれば、仏教の受容は新羅経由だったという。この関係は白村江の戦い以降も続いていただろうという。そして、831年から842年は、勢力を伸ばした張保皐が清海鎮大使に任ぜられ、唐と新羅と日本の間の貿易は、新羅商人よる管理貿易の時代。この時代に円仁は新羅経由で入唐している。しかし張保皐が暗殺された841年以降この関係は混乱。847年に、博多と江南の航路を用いた大唐商人による管理貿易の時代に移る。円珍はこの時代に入唐している。すると、円仁が張保皐を顕彰するのはよくわかるのだが、なぜ、円珍もというのは腑に落ちない所。やはり新羅人のネットワークで仏教を学んだのだろうか?

 松岡正剛氏の千夜千冊に1087夜に『異神』山本ひろ子著が紹介されている。「いろいろの符牒と暗号が解読されていく。たとえば、円仁の流れの強化に赤山明神が、円珍の流れの強化に新羅明神がそれぞれ呼び出されていたことの理由である。それは疫病の蔓延などの社会状況のなか、山門と寺門のどちらの派の宗教勢力が解決能力をもっているかを問われていた」ということである。

 中央日報によれば、日本では智証大師円珍と張保皐のこのような縁から、当時造られた新羅神坐像が張保皐の生前の姿を再現したものと考えられている。 というが、赤山明神が張保皐というならばわかりますが、新羅神坐像が張保皐という、この中央日報の説はちょっと怪しいですね。

 これ以上理解するには、『異神』を読むということか。ちくま学芸文庫で上下巻2800円なり。

越境の古代史―倭と日本をめぐるアジアンネットワーク (ちくま新書)
田中 史生
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異神〈上〉中世日本の秘教的世界 (ちくま学芸文庫)
山本 ひろ子
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異神〈下〉中世日本の秘教的世界 (ちくま学芸文庫)
山本 ひろ子
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コメント (1)
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