愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

日本では、1300年位前に、共産主義は試してみて上手く行かない事が確認されて今に至るって?

2015-12-13 | 高校生でも判る日本型共産主義

社会の変革・進歩は不断の努力があってこそ!

 動物の進化だって簡単ではないのと同じだ!

日本国第97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、

人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、

これらの権利は、

過去幾多の試錬に堪へ、

現在及び将来の国民に対し、

侵すことのできない永久の権利として

信託されたものである。

以下の記事に対して、下記の貴重なコメントがよせられました。そこで、検証してみることにしました。

 ほとんどの国民は共産党は暴力革命政党だとマジで思っているがそれって安倍自由民主党では?   2015-12-10 08:00:26 | 共産党

Unknown (Unknown)2015-12-10 17:01:43

ソ連の共産主義は25年くらい前に失敗が確認され、中国共産党も国会統制資本主義を取り入れることになった。資本主義は、自然と共産主義に移行するものだと言うのが、マルクスの言う知性だったが、間違いだった。日本では、1300年位前に、試してみて上手く行かない事が確認されて今に至る。だから、生粋の日本人にとって、共産主義には、元々アレルギーがある。(引用ここまで

1.「ソ連の共産主義は25年くらい前に失敗が確認され」た論

「ソ連の共産主義」が「失敗」したというのは、全くその通りです。

2.「中国共産党も国会統制資本主義を取り入れることになった」論

これは日本においても、同様です。現代の資本主義世界は「新自由主義」という名の「国家統制資本主義を取り入れ」ているのではないでしょうか。「自死者」がどれだけいるか。介護難民はどうか。ワーキングプアはどうか。など、国家の、というか、自公政権の無能無策無責任政治のウラで、大儲けしている多国籍企業と一握りの富裕層は、資本主義の「自由と民主主義」とは相いれないのではないでしょか。

「自由と民主主義」を標榜している「自由と民主」党と、「公明正大」を標榜している「公明」党は、その看板に偽りアリ!と言えます。これは表面的には「自由と民主主義」を掲げていますが、表面的には「共産主義。共産党を標榜している中国共産党政権と、中国の言葉を使えば「五十歩百歩」と言えます。

3.「資本主義は、自然と共産主義に移行するものだと言うのが、マルクスの言う知性だったが、間違いだった」論

マルクスは、資本主義は、「自然と」共産主義に「移行するものだと」言ったのでしょうか。そんな「知性」は聴いたことがありません。そういう意味では「間違い」です。

そこで、このようなマルクスの「知性」の「風評」はどのような文章から発生・派生しているのか、恐らく、以下のマルクスの指摘が「風評」となって拡散し沈殿しているのではないか、と考え、検証してみることにしました。ご覧ください。

まず最初に、「風評」となっている部分です。

マルクスは、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会的構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる」と『経済学批判』(1859年)の「序言」の中で述べています。

このような「歴史観」が「資本主義は、自然と共産主義に移行するものだ」という「風評」になって拡散・沈殿しているのではないでしょうか。

そこで、マルクスが何を言っているのか、その前後の部分をあげておきます。ご覧ください。

この「序言」で述べていることは、私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。

すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般携形態からも理解できるおおではなく、むしろ物質的な諸生活関係にねざしているものであって、これらの諸生活関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちにもとめられなければならない、ということであった。

…私の研究にとって導きの意図として役だった一般的結論は、簡単にいえば、次のように定式化することができる。

人間は、彼らの生活の物質的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。

これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。

物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で連動してきた既存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、清算諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのとき社会変革の時期が始まる。

経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは、急激に変革される。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それをたたかいぬく場面である法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。

ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。

一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物資的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。

それだから、人間はつねに、自分が解決できる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれる津ある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。

大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会的構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる

ブルジョア的生産諸形態は、社会的生産過程の最後の敵対形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。

しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をつくりだす。したがってこの社会的構成体でもって人間社会の前史は終わる。(引用ここまで

4.「日本では、1300年位前に、試してみて上手く行かない事が確認されて今に至る。だから、生粋の日本人にとって、共産主義には、元々アレルギーがある」論

「1300年くらい前」というと、515年となります。いわゆる「ヤマト朝廷」の「氏と姓」制度が始まる時代で、本来は「大王」と言われていた時代でもあるわけですが、いわゆる「継体天皇」の時代と言われて皇位継承が定まらない時代です。この頃に「共産主義」を「試してみて上手く行かない事」があったというのは初耳です。

この「ヤマト朝廷時代」に「共産主義」思想と運動があったということですが、これだけでは、全く判りません。

しかも「生粋の日本人」にとって、「共産主義」は「アレルギーがある」というのです。

そもそも「生粋の日本人」とは、どういう「日本人」でしょうか?「日本人」という意識そのものも問題です。

中国政権が名付けた「倭」に対抗して「日本」をつくったことは、702年の遣唐使によって国号「日本」が中国の「唐」に対して発せられたこと、更に言えば720年「日本書紀」がつくられたことを視れば明らかです。しかし、それにしても「奈良時代」に「共産主義」を「日本人」が試したと言うのは、如何なものでしょうか。

しかし、「共産主義」の源流が、実は、この「日本列島」においても、脈々と流れているのも、また事実です。これについては、別稿で記事にします。ご覧ください。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-06-24 18:48:34
五斗米道ですね。
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