愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

国体護持のためには男も女もなかった!弾圧のキーワードは「公益のため」!これは戦前前後一貫している!

2013-10-28 | 天皇制

いよいよ、以下の資料の最後の部分です。これは、大日本帝国憲法体制=国体護持の侵略戦争遂行のためには、男を弾圧するだけではなく、女も弾圧の対象とされていた事実について明らかにすることです。このような事実を暴くことは、躊躇いもありますが、すでに文書にされていることです。ネットの中に、こうした事実を掲載しておくことは、それなりに意味のあることでもあります。 

しかし、それにしても、わずか、80年も前の日本では、このような人間として恥ずべきことが、「天皇のため」という思想と論理のために、正当化されていたのです。この根源にあるのが大日本帝国憲法とそのための諸装置(上部構造)にあることは明瞭です。しかし、このことをどれだけ国民的知見として、現代日本は共有しているでしょうか。

日本における人権と民主主義、平和主義を実現するための血みどろのたたかい、憲法第97条の「過去幾多の試練」の文字通りの実態が、ここにあります。このことを国民的財産とするために、本来は政府(国家)とマスコミは尽力すべきです。当事者である共産党も、ネット社会にあって、この事実を国民に投げかけるべきです。そのことが、日本の民主的発展に貢献できることは明らかです。

しかも、このような日本における人権・民主主義問題について、きちんと総括もしないくせに、中国や北朝鮮の人権問題を垂れ流すことで、中国と北朝鮮の「脅威」と「人権侵害国」として国民の目を向けさせているのです。これは権力者の常套手段です。しかも、日本とアメリカの安全保障政策と結びつけることで、憲法改悪の土壌づくりをしているのです。更に言えば、このような「手口」に協力加担しているメディアがつくる日本の「風潮」に、渇を入れること、それが、今、かなりの度合いで大事ではないかということです。

そこで、以下の書物と合わせて、参考にしていただきたいものとして、女性の活動と、その弾圧について書かれたものとして、広井暢子『時代を生きた革命家たち』(新日本出版社98年6月刊)を紹介しておきます。第一部は小林多喜二について、第二部に登場するのは無名の女性。その名前は、伊藤千代子土屋文明の教え子)、高島満兎、田口ツギ、田中サガヨ、飯島喜美、平林せん、安賀君子、赤塚正子です。この記録の大きな意味は、無名の女性に光を当てたことにあると思います。以下ご覧ください。

反戦平和の信念を貫いた共産党員、高島満兎とは?  2005年8月20日

コンパクトに「闘争·死」と刻み 獄死した飯島喜美とは?  2005年8月18日

それでは、森村誠一・下里正樹・宮原一雄『日本の暗黒 実録特別高等警察3』(新日本出版91年1月刊)をご覧ください。

18歳の女性に、国家が何をしたか、ご覧ください。その国家の言い分、理由、口実は、繰り返しますが、天皇のため、国体護持のため、戦争遂行のため、でした。今風に言えば、「公益のため」、でした。このフレーズさえあれば、何でもアリでした。国家が、臣民としての人間をどのように考えているか、明瞭でした。

実は、この「公益」論については、次の記事とします。それでは、前回のつづきです。 

大検挙

 東京市電気局の自動車(バス)車掌をしていた浅沼(瀬野)雪香は、四月十六日午前九時に新宿・角筈のアパートを出た。浅沼の当日の勤務は午後一時半からの遅番であったが、三・一五で検挙投獄された自動車運転手滝嘉蔵の妻しず子を激励しようと思った彼女は、早めにアパートを出た。一家の働き手を獄中に奪われて、一歳の乳飲み子をかかえた滝しず子は生活苦にあえいでいた。浅沼雪香は、職場などで集めた救援カンパを、一刻もはやくしず子に渡したかった。彼女がしず子の家に入ろうとした時、後方から尾行してきた三人の特高警察官がおどりかかった。そのまま検挙された浅沼雪香は、淀橋署からすぐ本富土署に身柄を移された。警視庁の中川成夫、須田勇両警部、木内検事の三人が彼女と対面した。 

 「お前はいつ入党したか」「お前のバックはだれだ。連絡線をいえ」

 彼女が黙っていると、「そうか、名無しか、からだにいわせてやろうか」。中川成夫がすご味のある笑顔になった。往復ビンタの雨あられである。つづいて取調室の床に何回も腰車で投げ飛ばした。彼女はけんめいに耐えた。

 浅沼雪香は市電自治会婦人部の中心活動家の一人であった。一九一一年三月東京・八丈島に生まれ、一九六〇年十月十二日、日比谷公会堂で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺された浅沼稲次郎社会党委員長とは、いとこ関係にあたる。彼女は幼少から従兄の影響を強く受けた。一九二二年東京の西村高等女学校に入学するが、若い先生をいじめる校長に抗議して中途退学。弱い者の味方になる弁護士になろうと勉強するが断念し、一九二七(昭和二)年四月、東京市電気局バス車掌に就職、警視庁近くの桜田門支所に配属された。正義感に富んだ雪香は、市電自治会に加盟し組合運動に参加した。

 職場には女性百三十人、男性百二十人の労働者がいた。彼女は「生理休暇二日よこせ」「オーバー、下着を支給せよ」など、職場要求実現の先頭に立っていた。集会での演説。労働歌の指導。ビラの配布。彼女は「労働運動の花形―浅沼女史」と「読売」など各紙に報道され、特高警察官の憎しみの的となっていた。                

  三山今や紅葉して 利根の流れの清き秋

  未来を告ぐる青年の 胸の血潮の赤色旗

  上毛の地にひるがえす 同志囚る十四人

注:「群馬共産党の歌」の作詞者は一九二三年の第一次群馬共産党事件の指導者の一人、高津渡。かれは一九〇〇年政友会代議士高津仲次郎の息子として生まれ、一高から東京帝大に進み、革新の運動に参加。一九二三年九月、関東大震災時に巣鴨刑務所に投獄され、獄中でこの歌を作詞した。一九二六年二月九日結核で死去。二十六歳

 一九二九年の春、浅沼雪香が職場の仲間とともに歌った「群馬共産党の歌」である。

 「メロディーは一高寮歌と同じでした。職場が警視庁のすぐ近くなので、私たちが歌うと、聞こえるのですね。『聞け万国の労働者』……の歌を歌っている時は特高は黙っていたけれど、『ああ革命は近づけり……』と革命歌を歌うと、ばらばらと踏み込んで来て検束していくのです。ところが革命歌は歌っていると気分がいいから、労働者がみんないっせいに歌うんです。皇居を見ながらお堀端で歌ったこともありましたわ」

 浅沼雪香(80)の回想である。

 「制服改善や生理休暇をかちとり、賃金は下げさせなかった。月四十二~四十三円の収入でした。特高は『そんなに高くて、またストやるのか』という。連中は私たちのところから押収したマルクス主義の本などをみんな読んでいるのです。職場に出入りしていた特高警察官の一人は、ついに私たちの主張に共鳴し、警察官のなかに仲間のグループを作ったのです。上部に分かり、かれは首になり、夕張の炭坑に行ってしまう……そんなこともありましたよ」

 浅沼が党と接触したのは一九二八(昭和三)年七月初めのことであった。当時新大久保にあった浅沼のアパートに新宿車庫車掌の佐々木極がやってきた。

 「あら、私たちの組合を指導なさっている佐々木さんじゃないの。今日はまたかしこまってなんですの」「浅沼さん、これを読んでみないか」

 佐々木は懐から八つ折りにした「赤旗」十六号を差し出した。

 「あら!これが持ってるだけで治安維持法違反になる『赤旗』なの。組合員のみんなからいい指導すると評判の佐々木さんは党員でしたの!そんな佐々木さんが勧める新聞ですもの、購読しますわ」

 浅沼は二つ返事でOKを出した。佐々木が帰ったあと、彼女は「赤旗」十六号をむさぼり読んだ。

 「日本共産党が私を迎えにきたんだ……と思いました。読み終えた時、からだ中に新しい血がめぐり、わきだしたようで、全身がシーンと震えてくるのです。当時、田中義一内閣は中国大陸へ侵略戦争を拡大し、農村は疲弊、娘の身売りが目立ち、労働者は仕事がなく、あっても低賃金と長時間労働、そのうえ無権利で奴隷的な状態におかれていました。こうした現実を打開できるのは日本共産党しかないと……私はいつしかそう考えるようになったの。そんな私を党の責任者だった佐々木さんはじっと見ていたのね」「何回かの来訪のあと、佐々木さんは『もっと勉強したいなら日本共産党に入ることだ』といわれ、私は昭和三年七月十五日党創立六周年日に党費二円を納めて入党しました」

 こうして浅沼雪香と「赤旗」の“共同生活”が始まった。-

 浅沼は心覚えに書いた手記をもとに語る。

 「三・一五から四ヵ月のちに私は入党しました。『赤旗』が配達されるのをいまか、いまかと待ち、届くと何回も読み返して暗記してしまった。『赤旗』を読み終えたら、かんで飲み込んでしまえと佐々木さんに言われていたので、その通りにしました。焼くと火鉢のなかに証拠が残るからです」「『赤旗』が定期に配達されるようになり、内容を暗記するまでの間の隠し場所にはずいぶん苦労しました。ボロの中にしまいこんだりして……特高がちょいちょいとアパートをのぞきにきたが、発見されませんでした。『浅沼、要領がいいな、またどっかに隠したな』と、特高は捨てゼリフを吐いて出て行きました。アパートが危険と思えるときはデパートの便所の中で『赤旗』を読みました。トイレで繰り返し読み、暗記し、終わると順にかんで飲み込んでしまった。昔の紙は糊がついているので飲み込むのが大変でした。なかなかのどを通らない。苦労しました。時間がかかるので、ドアの外から『いつまで入っているのよ』『早く出てよ』とドアをたたかれるありさまでした。『赤旗』のほか党文書はこのように全部暗記し処分しました。オルグたちに『何か書いてあるか』と聞かれたとき、スラスラと内容を話したのでびっくりしていました」

 当時十八歳の日本共産党員浅沼雪香に、中川成夫らの特高警察官が襲いかかった。

 浅沼雪香の「手記」からの引用―

 「忘れもしないよ四月十六日。中川警部、須田警部、木内検事は拷問係にメチャメチヤに殴る、

 蹴るをさせたあと、木内検事は涙を流して、泣き落とし戦術だ。『ぼくもあんたと同じような年ごろの娘をもっているけれど、こんなにやられたら見るに忍びない。あんまり強情だとたたく方も疲れるから、早くこの書類にハンコを押してよ』とポロポロとっくり涙を流して私を説得しようとする。私か『いや』と答え沈黙していると、中川、須田警部は『叩け』『ロープで絞めろ』『向こうずねを蹴飛ばせ』と拷問係に指示する。拷問のなかで一番我慢できるのは『百叩き』です。 竹刀でビシッビシッとたたく。平均して背中をたたく。最初は痛い、三十回ぐらいまではビリビリと痛い。しかし、それ以後になるとからだが暖かくなって、眠くなる。すると特高は水を頭からぶっかけるのです。また『百叩き』を繰り返す。別の日には椅子に座らせ、ロープでぐるぐると巻いて締め上げる拷問だ。これは唇が紫色になって、ついには息ができなくなる。すると少しゆるめる、唇の色が回復するのを待ってまた締めつける。最後は気絶してしまう。痛かったのは手の指の間に二本の大きな万年筆を入れて締め上げる拷問です。これはとても痛い。中川、須田警部らが代わるがわるに、『あなたが、かの有名な浅沼女史ですか、お近付きの印に握手しましょう』といい、両手で私の五本の指を握り締める。骨が砕けたような感じで、激痛のため十日間ぐらい箸が持てない。こんな拷問が朝九時ごろから四時ごろまでやられた。はじめは拷問をやられると、『痛い』と大声で叫ぶ。それが路上の通行人に聞こえる。それが困るので、屋上か地下室に連れていって拷問する。ある日、ついに私は真っ裸にされた。私の裸身を四~五人の特高警察官と検事がしげしげとながめたあと、『浅沼女史、なかなかきれいな餅肌じゃないか。おっぱいもふっくらとして、美味しそうじゃないか』『こんなきれいなとこ、たたくともったいないなあ、傷になったらお嫁にいけなくなるぞ』とかいって私のからだ中を触りはじめた。私は「人間の仮面をかぶった獣!」と大声で叫び、唾をひっかけたり、特高の手や腕にかみついて抵抗した。すると、私を素っ裸のまま椅子にぐるぐると縛りつけ、ますます陰湿になってくる。やわらかい肌を触ってはつねる、なでながら『ああ、いい肌だねえ。このおっぱいも吸ってみようか』……と。その合間に中川警部が、『もうここらで、話したらどうや、着物も着せてやるから、どうだ』という。横合いから木内検事が、また涙を流しながら、『浅沼女史がかわいそうだ。早く解放してあげたい。この書面にハンコついてくれ』と泣き落としでかかってきました」

 しかし、浅沼雪香は供述に応じなかった。特高警察官は、彼女が女性であるがゆえの拷問をさらにエスカレートさせた。      

 浅沼雪香の手記は続く―。                  

 「私のからだは椅子にしっかりと結びつけられている。身動き一つできない。特高は、こんどは股の奥の方に手を入れる。それを楽しむようにくり返す。特高たちは口ぐちに、『もっとお近づきになろうよ、浅沼女史』『やわらかい肌だな、どうだ……感じるか』といい、はずかしめの拷問に出た。私はすかさず、『けだもの、やめろ!』と大声で叫んで、中川、須田警部や木内検事に唾をひっかけて抗議した。すると特高どもは面白半分に性器に指を入れ、恥毛を引っ張ろうとする、煙草の火を押しつけようとする……全身ありったけの力を出し、声を張り上げて抵抗するが、恐怖と怒りのために私ののどはしだいにからからに渇き、もう唾も出ない、言葉も出ない。私は特高警察官の一人に軽蔑をこめて言ってやった。『あなたさまは、奥様にも、娘さまにもこういう仕打ちをなさるのですか!』 瞬間、その特高警官は真っ青になった。いらいその特高は私のからだに触らなくなった」

浅沼は四・一六検挙後二十九日間で本富士署を釈放となる。手記は続く―

 「外交官やっていたおじさん、姉ら三人が本富士署に迎えにきた。おじさんがお土産を特高に渡すと、急にえびす顔になり、『あのう、いいとこの娘さんとも知らずに、ちょっときつく取り調べた。お宅の娘さんはいい人だ。あとについている大学生たちが悪い、二度といっしょにならないようにいってくれ』とまったくのウソを平気でいう。私は出る条件として、“拷問はなかった”という趣旨のウソの誓約書を書かされていた。言葉で抗議はできない。そのウソつき特高をにらみつけてやった。治安維持法と特高制度はひどいものだと思う。ひどく殴られたため、私の左の耳は今でも聞こえない。一番うれしかったことは親が私の共産党貝としての活動を、『あの娘のやっていることはまちがっていない』といって支持してくれたことだ」

 浅沼は本富士署を出ると、ただちに活動を再開した。

 一九二九年六月二十五日、現実同盟と市電自治会が合同し、「東京交通労働組合」が結成(一万三千人)された。浅沼雪香は初代婦人部長に推挙された。東京・芝、協調会館での出来事である。火のような熱いものが彼女の胸底にたぎっていた―。

 密室で凄惨なエロテロと対決した浅沼雪香。彼女のたたかいぶりは、のちに警視庁纐纈弥三元特高課長に「女性思想犯にはほとほとまいった」と回想させるほどのがんばりであった。

 以後、敗戦までの十六年間に、浅沼は十八回検挙され獄中生活の連続であった。戦後も北海道・浜頓別で反戦平和の活動を続け、党勢拡大の先頭にたち、今日にいたっている-。

注:エロテロとは「エロによるテロル」の意。戦前、婦人活動家のあいだに使われた表現である。引用ここまで


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5 コメント

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いやはや懐かしい! (夢想正宗)
2013-10-28 19:33:35
いやはや懐かしい!
今BS11で「青空に飛び出そう」を放送している 内容は ピンキーとキラーズが出ている
途中に 今日は はしだのりひことシューベルツが 「さすらい人の子守唄」を挿入している
好きな歌だった 実にシンプルな時代 人間に癖がない ストレートな時代 みんな戦後を実感して謳歌していたのかな
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青年よ 大志を抱け! (夢想正宗)
2013-10-29 00:38:10
青年よ 大志を抱け!
これからの時代を築くのは君達だ 何故醒めた顔をしておる フォークソングを踊ったり キャンプをしたり キャンプファイヤーをやったり 飯盒炊さんをしたり しないのか
世情を作り出すのも やっぱり若者だ 青年組織の衰退 本当に これで良いのか
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高度経済成長の時代に戻れ! (夢想正宗)
2013-10-29 00:42:19
高度経済成長の時代に戻れ 昭和40年から46年迄の時代に遡れ 今はヒッピーもカニ族もいない 何故 出来んのか?
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今は無い! (夢想正宗)
2013-10-29 00:47:19
今は無い!
街角の劇場ではアングラ劇をやっていた 寺山修司の 情念の世界
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Unknown (Unknown)
2018-03-16 16:06:21
これは、あの悪名高い治安維持法が治安維持に役立っていたと言う記事じゃないの。
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