次は、こうした安倍政権のネライに対してマスコミはどのように受け止めているでしょうか?以下述べてみます。
2.ところが、安倍政権もマスコミも当事者たちの「教育力」「自治力」にいっさい触れていません。これこそが、憲法の改悪への地ならし、形骸化推進と言えます。同時にその悪政に加担するものと言わなければなりません。
「学校がいじめの兆候をキャッチしながら適切な指導をせず、教育委員会による自殺の原因調査もなおざりだった。学校や教委が機能しないケースが多いことを考えれば、自治体単位で弁護士や臨床心理士らで構成する第三者組織を設け、子供や保護者から相談を受け付けるのは有効だろう」(読売)というように現場が至らないから「第三者組織」に委ねるという発想に、責任の転嫁思想があります。
その思想の奥底には、学校の「教育力」、すなわち教師個人と集団の、そうして子どもと子ども集団の「教育力」を育むという思想は微塵もありません。そういう意味では「自治の否定」思想です。憲法を改悪しようとする安倍首相の思想が端的に見えてきます。こうした認識に立てば「教育委員会制度改革の論議に入った。これは「自治」という戦後学校教育制度の基本理念ともかかわってくるテーマでもある。熟議を望みたい」(毎日)というようなレベルの話でなく、戦後学校教育制度の徹底化こそ求めなければなりません。何故ならば、マスコミを含めて「憲法を暮らしに活かす」という日本社会のあり方の弱さが見えてくるからです。
3.もう一つは、いじめ問題の解決を遠ざけるバッシングを行い、教育現場を追い込んできたマスコミの無反省ぶりです。このことは子どもと教師の状況をみると免罪できるものではありません。
「国がするべきことは、遠回りに見えても、教師の力を養い、その力を発揮できる条件を整備すること、そして教師の無用な負担を軽減することだ。実態を見極めるなら、提言はその点をこそ強調し、具体策を示すべきだった」(岐阜・山陰中央)、「政府は、新年度から小中学生向け道徳教材「心のノート」の配布を復活させる一方で、少人数学級の拡充は見送った。多忙な教育現場を支える具体策を二の次にし、制度や仕組みをいくら変えても問題の本質を解決することは難しい…」(徳島)という指摘は、至極当然・妥当ですが、このことはマスコミにも言えることです。
例えば、高校の授業料無償化について、日本が後進国であったことの政治の責任をどのように追及してきたか、そのことを指摘しておかなければなりません。
repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1051/1/r-ky_032…
http://www.asahi.com/politics/update/0317/TKY201203170184.html
http://agui-t.at.webry.info/200906/article_8.html
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2009/20090311_gakuhi_teian.html
「校内での仕事に優先順位をつけて「選択と集中」で仕分けすること」「行事の精選を挙げ、教育委員会には学校現場への依頼文書や事項の整理を行うよう求め」なければならない「教員の多忙」の原因こそ、いじめを防ぐこと我できない原因の一つがあります。しかし、「書類づくりに追われ子供とじっくり向き合う時間がとれない」「『忙しすぎる先生』の問題は以前から指摘されてきた」、「これまでも可能だった」「加害生徒の出席停止や必要に応じての警察との連携」が「必ずしも行われてこなかったのは、消極性や怠慢ゆえというだけでなく、その難しさや、ちゅうちょもある現場の苦悩にも目を向けるべきだろう」(毎日)」というのであれば、何故、ここにメスをいれる政策を求めなかったか。ここに子どもや教師の応援団にならなければならないマスコミの問題が見えてきます。
「大切なのは、子どもたちの置かれている現状を直視する」のであれば、当然「今の学校や教委に何が欠けているのか、具体的に検証する必要がある」などという指摘にはならないはずです。「子どもたちの置かれている現状」は教室だけの問題ではないからです。マスコミの振りまく情報によって醸成されてきた「学校や教育委員会の問題解決能力に対する不信」を口実に「国が理念に基づき直接いじめを解決するというトップダウンの発想」(南日本)が大手を振っていること、この「トップダウン」を許しておきながら、「むしろ国の関与が足かせになる場合もあろう」(南日本)などというような指摘こそが、いじめの解決を遅らせてきたことを検証すべきです。