愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

一銭五厘と国家総動員法・徴用令で有無を言わせず戦場に送り込んだのに遺骨も所持品も故郷に戻していない!

2016-08-16 | 戦後70年

未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨

誰が何のために送り込んだのか!

遺骨の主人の選択肢はどうだったか!

遺骨だけではなく遺骨となった方々の財産はどうなったか!

国家が臣民に課した命令の責任は果たしたか!

大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語を土台にした

侵略戦争の装置は臣民に何をもたらしたか!

大日本帝国は

臣民に義務は課したが、臣民に責任はとったか!

臣民の権利は保障したか!

デタラメ・ゴマカシ・スリカエ・大ウソのトリックを

徹底して暴き、責任を果たさせ、

二度と同じ過ちをしない、させない誓いをすべき!

侵略戦争の反省の上に制定された日本国の最高法規である

日本国憲法を活かす決意を宣誓すべき!

全国戦没者追悼式における安倍晋三首相挨拶より

未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも脳裏から離れることはありません。お一人でも多くの方々が故郷に戻っていただけるよう、全力を尽くします

 戦没者慰霊事業の実施

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/

これまでに約34万柱の御遺骨を収容し、陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、海外戦没者約240万人のうちの約半数(約127万柱)の御遺骨を収容しています。(引用ここまで

遺骨収集事業 - Wikipedia

厚生労働省によれば、2009年(平成21年)3月現在、第2次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、日本に送還された遺体は約半数の約125万柱となっている。残りの約115万柱については、海没したとされる約30万柱を含め、現在もなお海外に残されたままである。(引用ここまで

遺骨を放置してきた国家責任はどうするのか!

謝罪・補償・同じ過ちを繰り返さない宣誓・教育は?

故郷への帰還を待ち続ける日本兵の遺骨を、

私たちはどうすべきか

いまも野ざらし雨ざらし

大塚智彦賢者の知恵  2016年08月15日(月)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49444

それはまさに息をのむ光景だった。2014年3月、インドネシアの東の果て、ニューギニア島の西半分を占めるパプア州。その北に浮かぶビアク島からさらに小舟でたどり着いた無人島での出来事だった。

穏やかで温いさざ波が寄せる波打ち際から約10メートル、草もまばらな湿った砂地にそれこそ「散乱」していたのは人骨。眼窩の空洞が長年待ち続けた来訪者である筆者を射すくめるように見据えていた。頭蓋骨だけでも約30、大腿骨、肋骨などが波に洗われたように点在していた。

ビアク島の中心部から車で4時間、陸地でつながった西隣のスピオリ島の町コリドへ。コリドから小舟で2時間、約100世帯が暮らすインスバビ島。この地の果ての島を拠点に地元住民の情報を頼りに日本兵の遺骨を探した。

周囲約200メートルの無人島ムサキ島に「多くの骨が残されている」との情報を聞き込み、上陸した浜から島を半周した場所で見たのが冒頭の「光景」だった。

死んでも帰れぬニューギニア

今日、日本は終戦の日を迎える。終戦の日前後にはマスコミがこぞって戦争に関連した企画や特集を伝えるため、多くの日本人が71年前に思いを馳せることになる。

太平洋戦争の激戦地の一つとして知られるビアク島。1944年4月28日、島を死守するべく待ち構える日本軍1万2400人の前に、約3万人の米軍兵が艦砲射撃や空爆の援護を受けながら上陸を開始した。

食糧・飲料水、医薬品が絶対的に不足し、マラリアや風土病、負傷、そして圧倒的な弾薬不足、貧弱な装備という劣勢の中での戦闘は敗走につぐ敗走、戦死、病死、自決とまさにジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた評判そのものだった。

終戦時捕虜となった日本兵は434人、このほかに生存していたのはわずか86人で、戦後収集された遺骨は約4500柱。いまだに約6000人の日本兵の遺骨が島のジャングルの中、身を潜めた洞窟の中、あるいはサンゴ礁の海中で「水漬く屍、草生す屍」と化して故郷への帰還をひたすら待ち続けている。

インスバビ島の長老によると、遺骨が散乱していたムサキ島では戦争中に戦闘はなく、日本兵も駐留していなかったという。こうした証言などから周囲の島やスピオリ島で戦死、病死した日本兵の遺体を集団埋葬したか集積した場所(言葉は悪いが遺体置き場)である可能性が高いとみられている。

ムサキ島内の別の場所でも複数の人骨が発見され、日本海軍の食器のようなものも発見されている。ムサキ島に近いアブラボンディ島では、住民が案内してくれた民家わきの土砂に埋まった井戸から人骨が露出していた。

住民代表によれば島内で見つけた骨を集めて埋めたというが、日本兵であるとの確証があるわけではない。

周辺の島ではこうした人骨がよく見つかる。敗走につぐ敗走でビアク島からスピオリ島そしてさらに沖合の小島に逃れてきて死亡した日本兵の可能性も捨てきれないだけに今後の調査と鑑定が待たれている。

「遺骨は文化財」の壁

日本兵の可能性が極めて高い遺骨だが、発見すればすぐに「帰国」できるというわけではない。特にインドネシアでは国内法で「地中に50年以上あるものは文化財」という概念があり、無断で遺骨を持ち出せば「文化財の不法持ち出し」という法律違反に問われかねない現実がある。

これまで厚生労働省による遺骨送還事業で日本兵とみられる遺骨がインドネシアから帰国を果たしているが、これは収集、鑑定、焼骨というプロセスと、インドネシア政府教育文化省との粘り強い交渉、現地地方自治体や遺骨発見場所の土地所有者、地元実力者などの協力を得て、最終的に実現しているのだ。

インドネシアでの遺骨収集事業には実は盲点がある。

それは、日本軍と共に戦場に送られた多くのインドネシア人も戦死しており、遺骨を焼骨する前に実施される鑑定では、モンゴロイド(日本兵やインドネシア人)とコーカソイド(米兵)の区別はできても、日本兵とインドネシア人の鑑別はできない。というより、鑑別を実施していないのだ。

つまり、どういうことかと言えば、日本兵である可能性の高い遺骨として日本軍と行動を共にしていたインドネシア人の遺骨も混在する中で、「米兵ではない」との鑑定結果により荼毘に付されて日本へ送還、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納骨されているインドネシア人が多数いる、ということである。

霊魂の存在を信じるとすれば、千鳥ヶ淵に納骨されたインドネシア人の霊魂は「母国に帰してくれ」と切望していることになるだろう。

現在は人骨の鑑定技術が格段に向上し、歯があればそのDNA鑑定などでその人が育った地域が限定できる可能性があり、少なくともインドネシア人を千鳥ヶ淵に納骨するという間違いは回避できるというが、厚労省はそこまで積極的ではない。

現地での日本兵の可能性のある遺骨に関する情報収集は、戦争当時を知る現地住民の高齢化、さらに日本軍部隊の生存者の高齢化や死亡などにより、近年は困難な状況に陥っている。

厚労省は現地事情に詳しく、遺骨収集の実績があるとされる民間団体に遺骨収集事業を一般入札で委託しているが、委託された団体が「実績」を残すために問題を起こしたケースも過去にはある。

遺骨収集事業の問題点

約50万人の日本兵、日本人が死亡し、未だに約37万人の遺骨が未収集のフィリピンでは現地の住民に遺骨収集の見返りとして報酬を払っていた疑惑が浮上した。

報酬目当てに墓地を暴いてフィリピン人の遺骨を持ち出したり、日本人の骨と称して動物の骨を持ち込むケースまでもが頻発、現地で強い反発を招いた結果、現在フィリピンでの遺骨収集事業は実質上ストップしている。

また西部ニューギニア、インドネシアのパプア州での遺骨収集事業でも、現地協力者に謝礼を支払って遺骨の発見、収集、保管を依頼しているため、「詳細な遺骨発見の場所、周辺での遺品(認識票、飯盒、印鑑など)を手掛かりとする身元特定や部隊特定につながる情報」が軽視されるという問題点が指摘されている。

このため民間団体の日本人が現地に赴いた時には、施錠された小屋や雨水を溜める容器などに無造作に遺骨が入れられているだけ、よくても袋詰めの遺骨に発見された村や地域の地名が書かれているだけ、という状況がある。

前述のように現在の科学では「歯」が身元特定の有力な手掛かりとなる可能性があるのだが、こうした方式では歯があっても周辺に何があり、正確にどこにあったかの記録がきちんと整理されていない場合は、所属部隊や身元の特定が困難を極める。

こうした情報収集では「日本兵と思われる遺骨」の数だけを実績として日本に送還させるという「質より数」の遺骨収集事業になる傾向があり、特定の団体による厚労省との「癒着構造」という問題点を指摘する声は大きいが「典型的なお役所仕事」に徹する厚労省は聞く耳を持たない状態が続いていた。

こうしたなか安倍首相や自民党などの肝いりで、2015年、超党派の議員立法により「戦没者遺骨収集推進法案」が提案され、紆余曲折を経て今年3月24日に成立した。これにより、今後2024年まで集中して遺骨収集を実施することになった。

しかしその事業を実施する新たな組織にはこれまで諸々の問題を起こしたり、遺骨収集と無縁な民間団体、NPOなどが「長年の実績と情報の蓄積」や「遺骨収集に伴う手榴弾や実弾などの危険性排除」などを理由に参加しようとしており、新組織が立ち上がってもこれまでの遺骨収集と変わらない「数の実績」「身元特定無視」「日本人以外の人々への配慮なし」といった事態に陥る可能性は拭い去れない。

現地の人々への思い 

大半の日本兵が本人の意思に反して南方の激戦地に送られ、無責任と無策の戦争指導の惨禍に巻き込まれ、その多くが戦死より餓死や病死で帰らぬ人となった事実。そしてその骸が雨ざらし、野ざらしになっているという事実に戦後71年となるこの国の人々はどう向き合おうとしているのか。政府は何をするべきなのか。年に一度8月15日だけでもいいので考えてみてはどうだろうか。

そして忘れてはならないのは、フィリピンやインドネシア、ミャンマーなど戦場となった東南アジアの国々の人々の思いである。

筆者はこれまで2回、厚労省による遺骨収集事業に参加してパプア州のビアク島、ジャヤプラなどでその現場をみた。

そこで強く感じたのが、こうした事業に参加する一部の日本人の「傲慢な態度」であった

日本兵の可能性のある人骨が埋まっているという情報をたよりにパプア州の州都ジャヤプラから西に向かったベラップという小さな村で長老や住民と開いた説明会の席で民間団体代表はこう言い放った。

人間の骨が埋まっているところで生活をしているあなたたちは平気なのですか。人間としてそれでいいのですか

私たちは埋まっているその人たちを故郷へ返したいだけなのです。協力してください。見返りは日本政府や(ジャカルタの)日本大使館と話をしてください。私たちは民間組織ですから

戦場となったパプア州の人々にしてみれば、「ある日突然日本兵がやってきて陣地や要塞を構築、そこへ今度は米軍が艦砲射撃や空爆、そして上陸して戦闘。自分の家の庭で無関係の人々が戦い、終戦とともに平和にはなったが、死者はそのまま放置」という状況が長く続き、「骨を持ち帰りたいので協力してください」である。

インドネシアの人々はそれでも快く、協力を惜しまないが、「見返り」は当然求めてくる。それを非難することは日本人にはできないことである。

それゆえに外務省や現地大使館は無償援助(現地学校の校舎改築など)で地元住民の顔色を伺いながら事業を支援しているが、ビアク島では「あいつの地区の学校が改築されて、なぜ私の地区の学校は何もしてくれないのか、協力はもうしない」というような難しい問題に直面したこともある。

「とにかく実績として数を残す」ことに専念する日本方式が果たしていいのかどうか、私たち日本人は8月15日の機会に一度自問してみることも必要かもしれない。 

インドネシアからこれまでに収集、帰還した遺骨の全てが、身元不明のいわば「無名戦士」の遺骨である。しかし、実は今「インドネシアで戦死した日本兵で初めて身元が判明する可能性の極めて高いケース」が遺骨収集に向けて動き出している。

これは厚労省やこれまで「数」という名の「実績」を積み上げるだけで厚労省から委託を受け続けてきた民間団体とは全く異なる、「独自の視点・ネットワーク、そして地元への愛情」で地道に活動してきた少数の日本人とその身元特定の可能性のある日本兵の遺族による「熱意」の賜物と言える。

「インドネシアから初めて身元が特定された日本兵の遺骨が日本へ、そして家族の元へ」という報告をぜひ届けたいと思っている。 

大塚智彦 (おおつか・ともひこ)
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞に入社し、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、2014年からはPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材執筆を続ける。著書に『アジアの中の自衛隊』『民主国家への道 ジャカルタ報道2000日』など。(引用ここまで

 太平洋戦線 傷痕今も

「ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア」

海外戦没者240万人 未収集遺骨112万柱

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

http://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2014/vol04/page01.shtml

フィリピン・セブ島で収集された旧日本軍兵士とみられる遺骨=1958年

 「ジャワは天国、ビルマ(現ミャンマー)は地獄、死んでも帰れぬニューギニア」。太平洋戦争末期、圧倒的な戦力で迫る連合軍を前に、海外の戦地で苦戦を強いられた日本兵たちは、そう口にした。

 補給を軽視した無謀な作戦の結果、悲惨な撤退を強いられ、その退路が「白骨街道」と呼ばれたビルマ戦線。ジャングルを行軍する兵士が、マラリアなどの病気や飢餓に倒れたニューギニアの戦い。九州で編成された部隊も、そうした過酷な戦場に派遣され戦った。

 1941年12月8日、米国のハワイ・真珠湾への奇襲攻撃と英領マレー半島への上陸作戦で始まった太平洋戦争は、緒戦で石油などの資源が豊かなオランダ領東インド諸島などを占領。南西太平洋のラバウル、ガダルカナルなどへも支配圏を広げていった。

 しかし、42年6月にミッドウェー海戦で敗れ、空母や艦載機を多数失ったことで戦局が変わった。ガダルカナル島争奪戦で戦力を消耗して撤退し、44年7月にはサイパン島の守備隊が全滅。連合軍の攻勢の前に孤立した島々で守備隊の全滅が相次ぐなどして終戦に至った。厚生労働省によると、日中戦争(37年7月)以降の海外戦没者は約240万人に上る。

 戦場には多くの兵士の遺骨が残された。NPO法人「戦没者追悼と平和の会」(佐賀県みやき町)は、その帰還運動を行っている。

 塩川正隆理事長(70)の叔父はフィリピン・レイテ島で戦死した。歩兵第77連隊の中隊長だった叔父の死の詳細は不明で、祖父母は戦後長いこと「生きている」と信じていた。

 同連隊3千人のうち復員したのはわずか3人。その一人の永田勝美さん(故人)と慰霊祭で偶然会い、叔父の消息が分かった。「亡くなりました。私が埋めましたから」。そして戦後も多くの遺骨が帰国できずに現地に残されていることを知り、永田さんとともにフィリピンの遺骨収集に関わった。だが、戦病死した叔父の遺骨は、今も見つかっていない。亡くなった永田さんは「戦争は悪。しかし、(戦死者も)戦争被害者」という言葉を残した。

 現地に遺骨が野ざらしにされている戦死者もまた戦争被害者である、という視点は、塩川理事長の父への思いにもつながっている。沖縄で戦死した父の遺骨の手がかりを求め、77年、沖縄の遺骨収集に加わった。防空壕(ごう)で見たのは、戦後30年間も放置されていた白骨化した遺体。衝撃を受けた。「うそやろ。これじゃ父は浮かばれない」

 海外戦没者の遺骨収集数は127万1千柱(7月末現在)で、いまだに112万9千柱が未収集だ。その膨大な数字の背景には、飢餓や病死、捕虜収容所での衰弱死などさまざまな死があり、それぞれが父であり夫であり、息子や兄、弟であった。

 戦後70年を前に、風化しつつある戦場の現実について、その場に身を置き、今も忘れられずにいる人たちの証言などをつないで考えてみたい。(引用ここまで


 



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