岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

森林の保護を中心とした自然保護の視点(1)

2010-07-24 03:17:57 | Weblog
 (今日の写真は、ラン科トンボソウ属の多年草「トンボソウ(蜻草)」である。北海道、本州、九州、四国の湿った林下や川のそば、岩場などに生える。主に日陰に多いが、日向でも見られることがある。岩木山のものは「薄暗い」林床に生えているので、「薄暗い中空を飛び交う白い小さなトンボの乱舞」とキャプションをつけたりすることもある。大抵は群生している。
 花の咲かない株は1枚葉で、開花株は2枚葉になる。花名の由来は「花がトンボの顔に、また花の形がトンボに似ていること」による。

 その年に初めて「ギンリョウソウ」に出会ったのは、6月の上旬、ブナ林内の岳登山道であった。何故なのだろう、この花だけは、花や自然に関心のない「体力勝負」の登山をしていた若い頃から、生えている場所もその姿も、どちらかというと「派手さ」はなく、薄暗い森の木の根元や落ち葉を被ったりで目立たないのに、よく目についていた。
 その日もやたらに「ギンリョウソウ」が目についた。まるで「食傷気味」だ。もうお別れしよう。
 まだ、午後も早い時間だったし、百沢近くまで歩いて途中「平沢」の縁でも歩いてみようと思った。堰堤建設用の道路を辿って沢筋の間道に入る。
 そこを少し進んでからミズナラを主とした林に入る。何年か前に「サルメンエビネ」に出会った場所に向かっていた。
 沢筋である。湿った林内であまり草の生えていない広場のような場所に出た。薄暗い中ですくっと立って地表を照らしているものがある。しかも、あっちにもこっちにも、お互いはおろか、周りのシダ類までを明るく染めている。それは薄暗い中空を飛び交う白い小さなトンボの乱舞だった。
 何と可愛い素振りではないか。トンボソウは個性的な花なのだ。
 これまで、岩木山では「トンボ」と名のつく蘭としては、ツブラトンボ、オオバノトンボソウとコバノトンボソウに出会っている。)

◇◇ 森林の保護を中心とした自然保護の視点(1)◇◇   

はじめに…
『核のゴミにはじまり、森林伐採、温暖化。オゾン層の破壊などを未来世代に残すこと』は未来世代に対して「時限装置の付いた爆発物を贈り、どうぞ自由に始末してください。」といっているに等しい。

        Ⅰ 共生と共存の生態学の視点
1)生態学的に見た人とは…

①人はサルと同じ「物質系の動物であり自然」である。同時に「自然の操縦者としての人間」であり、人(ヒト)は人間によって制御されるという二重性を持った生き物である。
②生態系と食物連鎖からみると、人間は生産者ではない。徹底的に光合成をする植物(生産者)が作った有機物を消費する消費者である。同類の動物をも食べることで消費する。
③被支配者を自然物であるとする支配者である。時にはヒト・人間をも支配する。
④本性は「易きにつく」であり、衣食住を含むすべての面に渡って、生活を便利にすることを考えてきた。
 基本的に、この①~④の流れは現在も変わらず、ますます強力で激しくなっている。

2)生態学的に見た自然とは…

 人間が手を下さなくても、自らの力で生まれ育ち何もしないでも、しかるべき姿になっていくものである。
 これを自然界と呼び、生態系とも呼ぶ。生態系の中には別の生態系に依存することなく「自給自足し」完結しているものもある。大きくみると、地球がそうなのである。
 そして、その自給自足するミニチュア地球と喩えられるものが、きわめて身近なところに存在する森林なのである。森林の破壊は修復が不可能であり、絶望的な地球の破滅へとつながっていく。

生態系の型とは…
①自給自足的なサイクル型-この代表が森林である。
 人間の介入はシステムの自律性を損ない連鎖を断ち切り破壊という結果をもたらす。
②入出力というハンドを持った他律型のシステム-河口湿地や河川である。
 これらは外力に変更を加えると別な生態系に変わってしまう。

3)生態学的に見た森林とは…

①森林は酸素の供給源。人は酸素がないと5分で死ぬ。
②水源を確保維持するもの。③土石の崩落をくい止めて、地形の安定を保つものである。
④動物や植物が育つ生態系と位置づけられるものである。
⑤森の木々の葉には滅菌・抗菌作用のある物質を出し、埃を払い落とす能力もある。

4)ヒト・文明と森との関わり…

基本的には狩猟や採集の場が森であり、生態系の一部である人にとって、共生する為の収奪の対象であった。
 キリスト教の下「人間の幸福のためならば、森はいくら破壊してもかまわない」という主張のもとにヨーロッパを覆いつくしたのであった。
「自然を支配する手段の発達」が文明。「文明」の英語、civilizationのcivilが市民・都市を意味するところに「文明」という語の絶対的な意味がある。それは「人工」、つまり、「人工環境」ということだ。だから、文明の対極に「自然」があり、対義語には「野蛮」がある。「文明」が森を破壊し、今も文明人が「緑」を喰うのである。破壊の対義語は建設である。
 日本にあっては山も森も神の住むところであった。狼や狐、それに蛇などの森に棲む動物を、森の神とかその化身やお使いと見立て崇めてきた。 (明日に続く)