岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

NHK紅葉取材同行記その1 / 自己中心「子供のまま」のバカ親たち(その6)

2008-10-15 05:44:20 | Weblog
(今日の写真はモチノキ科モチノキ属の常緑低木「ヒメモチ」である。これは、北海道南西部から本州の山陰地方に至る日本海側に分布している。)
 昨日の登山で、「石神さま」の境内(?)を過ぎた登山道脇と「西法寺森」鞍部の「大ノ平分岐点」辺りで出会ったものだ。標高600mから1300mにかけて見られるので、その生育範囲はかなり広いし、高低にあまり関係なく生えているものである。
 ただ、標高の高い場所に生えているものは、この写真のように「樹皮」が白っぽくなるようだ。これは標高1350m地点で撮影したものだ。しかし、昨日撮影したものではない。
 昨日はカメラを持って出かけたが「カメラ」の出番は全くなかった。カメラはビニール袋に包まれザックの中で、一日いっぱい眠っていた。
 何故かというと、1つは「映像取材報道カメラマン」が仕事をしている傍でカメラを構えてパチリパチリと写すことが何となく憚られたからである。
 もう1つは、「案内」に徹しようと考えことである。その場面、場面でしっかりした客観的な「案内」をするには、自分で写真を写すという暇はないし、またそのような「暇」を作ってはいけないと考えたからである。

 ヒメモチは花を殆ど見かけないこの時季にはやはり、目立ってたやすく目につくのである。
 多雪地帯のブナ林の林床に生育するが、尾根筋などにも多い。「樹高」は2m前後で、株立ちとなる。葉は互生し、長さ5~10cm程度で、1cm前後の葉柄がある。
 葉の形は、陽光が強い場所のものは細長く、立つ傾向がある。この写真はまさにそれである。
 雌雄異株であり、5月から6月にクリーム色の小さな花をつける。花弁は4枚、おしべも4本。雌花には退化した4本のおしべがある。
 果実は直径1cmほどで、この時季に微妙な赤っぽいえんじ色に熟すのである。

 昨日からNHKテレビ「アップルワイド」の18時30分ごろから数分だけ放映される「県内紅葉の山(?)」という番組が始まった。
 今週の金曜日までの4回シリーズで放映されるものらしい。昨日は北八甲田山の紅葉紹介で酸ヶ湯から大岳山頂、毛無岱というコースを辿っていた。
 今日は南八甲田山であるとアナウンスされていたから、明日か、明後日が岩木山ということになっているようだ。
 …というわけで、昨日は報道カメラマンのYさんとアシスタントのM君と一緒に、長平登山道を登った。Yさんの名刺には「NHK青森放送局(映像取材)報道カメラマン」とあった。M君はアルバイトで弘前大学農学部の学生というよりは「探検部」の学生だと自己紹介してくれた。本会にもこの「探検部」のOBやOGが数名いる。登りながら「彼等」のことがM君と私の間の話題になった。

 朝が早かった。起きたのは3時である。ブログを書き終えて、洗顔、ひげ剃りなどをし、「朝食」を食べて5時の出発に備えた。
 どうも体調が思わしくない。一昨日あたりから「鼻水」が出てしようがないのだ。葛根湯を飲む。鼻風邪かも知れない。微熱もあるようだ。
 一昨日、あまりのいいお天気に誘われて、ついつい「徒歩」で遠出をしてしまった。本当に「衝動的」な行動に出てしまうのが私の悪い癖だ。「悪い癖」と言っている「くせ」にそれを直せないのだから、これは本物の癖なのである。
 自宅から久渡寺の山門まで歩き、さらに「編笠林道」をとおり、座頭石に出て、松原東三丁目のバス停まで歩いたのである。距離にして18kmほどであろうか。その疲れがまだ抜けていないらしい。「鼻風邪」「微熱」「疲労」の3つを抱えての登山に不安があるが、頑張るしかない。
 同行するというものの、もちろんYさんにとっては初めてのコースなのだ。しっかり、案内しなければいけない。(明日に続く。 )

    ●自己中心「子供のまま」のバカ親たち● 

(承前) 

 …「背の高い子と低い子を並んで写真を撮られた。配慮に欠ける」と文句を言う親がいる、と聞いた。そんなバカな?…

 このように「背の高い子と低い子を並んで写真を撮られた。配慮に欠ける」と言う論拠は何か。ない。論拠も根拠もない。あえて探すならば「高い」と「低い」であり、このように言う「親」は「高い」方がよくて(優れて)「低い」方が悪い(劣って)いると考えているのだろう。
 「背が高い、低い」ということは「優劣」や「善悪」などという価値基準とは無縁なものだ。「配慮に欠ける」という「言い分」に対しては、私であったら、「あなたの方こそ配慮に欠けている」「論拠がない」「論じ、傾聴する価値もない」と言って、突っぱねる。耳を貸さない。
 そのような言い分に、どうして応えようとするのか。それは学校にも教員にも確乎たる論拠と価値観がないからだ。
 私なら、加えて、「それを言うのなら、それはあなたの周りにいる多くの同世代の親に向かって言えばいいのだ」と言う。
 さらに、「学校や教員に言うことはお門違いなことだ。同世代の親は、子供をすべて同じ身長になるように産み育てよと親に向かって言うべきだ」とも言う。
 そのようなことが出来るかと言ったら「あなたの言い分」をそっくり返したまでですよと一喝をいれてやる。
 「すべては同じでなければいけない」と考えることは、一視同仁、バカ民主主義であり、これを平等であることだと取り違えている。民主主義や平等とは「お互いがお互いの違いを認める」ことで成り立つものなのだ。(明日に続く。)