岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

本日18時30分から放映!NHK紅葉取材同行記 / 自己中心「子供のまま」のバカ親たち(その7)

2008-10-16 04:45:25 | Weblog
       ■■本日18時30分から放映!NHKテレビ■■

 今日の夕方6時30分ごろから岩木山の長平登山道沿いの「紅葉」を三浦章男のガイドで綴られた映像で紹介するということです。どうぞ、興味のある方はご覧下さい。放映時間は非常に短く数分間ですから、その前からテレビのチャンネルをNHKに合わせておいて下さい。

(今日の写真はブナ樹林帯の最後の急登を過ぎた辺りから見た大鳴沢対岸稜線である。濃い緑はコメツガとヒバである。)

 標高1200m辺りまではブナ林が続く。この尾根のブナ林には特徴があった。百沢尾根や弥生尾根のブナ林は標高800mを越えると、とたんに背丈が低くなる。いわゆる低木ブナになるのである。しかし、この長平尾根のブナはこの高さになっても「低木」とならないのだ。幹廻りも太く、樹高も15mを越えている。樹齢は数百年だろうか。
 そのブナ林は落ち葉は始まっていたが、まだ、葉を相等につけて残ってはいた。しかし、一様に「葉」は傷んでいた。
 その「落ち葉」を押しのけて、時を遅れたような「サモダシ」が生えている。これは晩秋の風情だろう。
 私は妙に不安になってきた。今年の秋は去年よりも確かに早く進んでいる。昨年と同じような「美しい紅葉」に会えるのだろうか。流れ出ているのか、そうでないのかもはっきりしないほどにしか、湧き出さない「長平清水」の前を通過する。
 そこからは急峻なブナ林内の道になる。しかも、湿った土に被われたような道でもある。「踏み跡」はまったくない。ここ数日、いや数週間、人の歩いた様子はないのだ。
 本当に、この登山道を利用する者は少ない。入山する人が少ないということはそれだけ、自然度が高いということである。
 その「自然度」の高い「紅葉」を取材してほしいと思い、この登山道を推薦したのであった。

 …だが、コメツガの下部を形成しているのはダケカンバであり、さらにその下部にはブナが続いている。この写真には紅葉は見えるが、一昨日の風景の中にはこれほどの紅葉はなかったのであった。
 …この写真は昨年10月14日に写したものだ。すでに書いたが一昨日は1枚も写真を写していない。
 一昨日の「今年の10月14日」のこの景観は「濃い緑の部分」は去年と同じであったが、赤や黄色の色彩はなかった。コメツガの下には葉を落としたブナやさらに高いところではブナに替わってダケカンバが白い幹を見せて「枯れ枯れ」とした風情を漂わせて、すでに冬のかんばせを見せていた。

 この違いは何なのだろう。昨年と同月同日、私は「黄葉、紅葉、褐色の葉」に染まっている大鳴沢対岸の稜線と深い谷を想像しながら登ってきた。そのような紅葉風情をYさんに見てもらいたくてここまでやって来たのだ。
 だが、それはあくまでも、私の希望的な観測であって、季節というのは「判子で押したように決まった時季」に紅葉を運んで来てくれるものではない。
 それは客観的に、これまでの経験から重々理解していたはずなのに、私はすでに紅葉の終わった岩木山大鳴沢を挟む峰々にYさんを案内してしまったのである。
 遠望、そして眺望に耐えうる「紅葉」は尾根には見られない。ただ斜面の裾にまだ、ミネカエデやナナカマドの赤い色彩がひろがり、緑の絨毯のようなネマガリダケの中には赤い色彩が点在していた。

 私はYさんに申し訳がなくて「萎れて」いた。気分としては「枯れ葉」であった。しかし、それを知ってか知らずか、さすが「プロの(映像取材)報道カメラマン」である。
 Yさんは「秋の紅葉」とその風情を追求して、重いビデオカメラを回し続けるのだった。幸い、登山道沿いには、紅葉したナナカマドも多くはないが残っていた。だから、全く紅葉の風情がないというわけではないのだ。
 「予想した被写体」があまりなくてもがっかりしないで「少しでも残っている」被写体になりうるものを探しながら写して、それを一つの番組に仕上げていくというのがYさんの姿勢であるようだ。(明日に続く。)


         ●自己中心「子供のまま」のバカ親たち●

(承前) 

 …富山県では、石で校舎の窓を割った児童の親が「そこに石があったのが間違っている」と抗弁した例が報告された。…という。

 これはれっきとした「親権」を持つ「親」の発言である。しかし、社会的に法律の上では保証されている「親権」の保持者に過ぎない。その実態は「論理的な思考をすることが出来ない」幼児である。
 もしも、このような人が新しい裁判制度の下で「裁判する」側になったとしたらどうなるのだろう。
 「石で校舎のガラス窓を割る」という「行為者」の責任とその行為そのものの善悪が問われるべきであるのに「割るために使用された」全く意志のない無機物の存在で以て、論理をすり替えようとしているのだ。幼稚であると同時に、何という自己中心、狡猾さだろう。

 牧太郎氏は…『この異常な自己中(心主義)「の親たちを」「校内暴力を経験した人たちが親になったから、もともと教師を尊敬する意識がない」と解説する向きもあるが、この「自己中」が日本を劣化させる。』と続ける。
 「校内暴力を経験した人たちが親になったから、もともと教師を尊敬する意識がない」と解説する向きの論理も、また詭弁である。
 これだと「石で校舎のガラス窓を割る」ことの所為を「石」に仕上げる親と同じではないか。
 私は「荒れた学校」を経験している。その私からすると「校内暴力を経験した人たち」などとは「校内暴力の実態」を知らないでは言えるものではない。(明日に続く。)