岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

秋のヤブ山と雑木林(10) / 自然観察会で出会ったキイロスズメバチの女王蜂

2008-10-29 05:34:34 | Weblog
(今日の写真はハチ目スズメバチ科スズメバチ属の「キイロスズメバチ(黄色雀蜂)」の「新しい」女王蜂だ。先日26日に実施したNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察時に阿部会長が朽ち木で発見したものを、写したのだ。
 当日は11時頃から雨となった。それまでは曇り空だった。気温も低く、7℃程度だと思われる。
 その所為だろう。動くのだがとても緩慢で、出て来る気配は全くなかった。阿部会長が朽ち木で樹皮の剥がれたものに近寄り、目敏く見つけたものだ。
 この「女王蜂」が潜り込んだ時は「樹皮」はあったのだろうが、前日かその日の朝辺りに偶然、はげ落ちたものだろう。)

     ●● 自然観察会で出会ったキイロスズメバチの女王蜂 ●●

 9月に入ると、「キイロスズメバチ」の巣は「巨大化」して「働き蜂」も一つの巣で500匹を越える数になる。この頃が一番「私たち」にとっては危険な時期なのだ。
 新聞やテレビで、幼稚園や小学生の児童たちが「スズメバチに襲われた」と報道されるのは、ほとんどこの「キイロスズメバチ」のことだ。
 9月頃が「キイロスズメバチ」はもっとも沢山の幼虫を育てている時期なのである。それを知って同属でもっとも体の大きい「オオスズメバチ」がキイロスズメバチの「巣」を襲うのだ。
 このため「キイロスズメバチ」は「周囲の刺激に対して過敏な反応」をするようになるらしいのである。
 9月は「キノコ採り」のシーズンであり、紅葉などの行楽のシーズンである。山に入ることが多くなり、園児や小学生、中学生たちにとっては「遠足」のシーズンでもある。
 そういう機会に、「不用意」に「巣」に近づくことがあるのだ。そして、「キイロスズメバチ」の巣に近づいただけで攻撃を受けてしまうのである。

 今日の写真は新しい「女王蜂」だ。「女王蜂」は普通10月中旬頃までに死亡してしまうのだ。もちろんこれは「古い女王蜂」であり、その巣に君臨していた女王である。この「女王蜂」の下にオスバチ、働きバチ、「新女王蜂」が総計で500匹以上が暮らしているのだ。

 秋の気配が漂う頃、次の年の「王国」を築く「新女王蜂」は雄と交尾して、それから朽ち木などにもぐって、長い「越冬」する。
 しかし、交尾を終えた「雄」は寒さの厳しくなってくるころに、自分の生命を終えて死んでしまう。働きバチも同じである。
 秋の紅葉が次第に濃くなってくる林縁や登山道で、横たわり蠢いていたり、完全に死んでいる「キイロスズメバチ」をよく見かけることがある。あれである。
 やがて、越冬から目覚めた「キイロスズメバチの女王蜂」は、5月になると「椎茸のほだ木」や朽ち木から集めた材を練り合わせて、壷型で「縦型の巣」を造る。そして、卵を産み、卵からかえった幼虫に、羽化した蝉、蝿、他の蜂などの「昆虫」を捕えて、よく噛み砕いて、与えながら幼虫を育てるのだ。
 だが、その幼虫から「働きバチ」が産まれてくると、育児や巣造りはその「働きバチ」に任せてしまう。そして、「女王蜂」は、ひたすら産卵するのだ。

   ■ スズメバチに「襲われる」ということは何を語っているのだろう ■
(承前)
 十和田市の史跡、「稲生川幻の穴堰」へ続く山道で「スズメバチに襲われた」というニュ-ス報道で、テレビ画面に映し出されていたものは、半ば壊された巣であり、殺虫剤を噴霧され断末魔にあえぎながら、蠢いている無数のスズメバチであった。
 子供たちの目にはどう映っていたのだろう。こちら側に誘発させる最初の行動があったにせよ、人を襲うことは悪であり襲わなければ善という二者択一的な基準で見ていなければいいなあ、とひそかに願わずにはいられなかった。 
 それにしても、大人にとっては、いったん攻撃されたら、どんな理由があれ、相手は敵であるらしい。そして敵ならば抹殺するか、敵の勢力範囲外に逃げ去るか、どちらかを選ぶようだ。
 今回は大人がスズメバチを敵として、抹殺する方を採った。子供たちから「なぜ殺してしまったの」と問われたら、自分の側に主観的な「人が襲われることは危険だ。それを避けるためだ」と答えるつもりだろうか。
 ここに私たち大人の、子供たちに対する課題があるような気がするのである。
子供とは単純なものだ。さらに大人のように人間社会の仕組みや通念に馴れていない。だからこそ、「自然を丸ごと受け止めること」が出来るのだ。
 山野を舞台とした生命のバランスはゼロに近いものであると言われている。自然の摂理の中で、人を含めたすべての生物は、人も鳥も虫もカエルも獣も、対等な立場で生きている。その意味から、自然界には価値の序列はないのだとも言える。
 そして、その対等であり価値の序列のない場所が、わたしたちの住む自然界としての地球だろう。それなのに、人間に役立つところだけを、つまり、「人間にとって価値のあるところだけを取ろうとする」のが、人間の大人の論理なのだ。

 地球上には現在150万種を越える動物がいるという。そして、その75%以上が虫だそうである。
 そして、地球上のあらゆるところに、虫のどれかが生活している。これだけ各地域に生活する場所を見つけている動物は、虫以外では人だけだそうだ。だから人と虫がぶつかる確率は高いのだという。
 人は道具を発明して、その利用によって発展した。ところが虫はなんの道具も使わないで、生まれつきの能力に従い成功した。そして自分のほうから自然の環境にみあう能力をつけてきた。
 そのずっと後を追っかけて登場した「人」が道具(科学)に頼り、生活の場所を広げてきた。当然、虫の生活とぶつかるのである。
 このぶつかりあいが、いい虫だ、悪い虫だと判定されてきた所以である。虫たちにとっては、特に農薬が多量に散布されるようになった近・現代には、受難の時が続いている。
 だが、それでも虫はめげない。たいがいの虫たちは、自然のやり方で自分の立場を主張する。駆除されたスズメバチも自分の立場を主張したのである。
 人間にとって都合がよければミツバチやマメコバチのように「良虫」とされ、都合が悪ければ「穴堰」のスズメバチのように害虫とされる。そして「住みかを奪ったうえに皆殺し」にしたのだ。