岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

360度、姿を変える岩木山(11)04年6月6日、鰺ヶ沢スキー場と畑について

2008-06-16 04:42:52 | Weblog
(今日の写真は環状道路の長平旅行村入口付近を白沢に向かった辺りから撮ったものだ。前景は「畑地」である。中景は山腹下部から続く雑木林であり、後景が山腹・山頂を含んだ岩木山の山容である。
 後景の下部左側には「拡張の計画はない」→「上級者がより難度の高いコースが欲しいと言っている、その要望に応えるために拡張する」→「アジア冬季大会の競技会場と関連性はない」と言いながら、結局は「アジア冬季大会でモーグルスキー競技会場にした」拡張スキー場が見える。
「拡張スキー場の計画」があるという情報を得たのは1997年であった。本会は「計画があるのか、ないのか」を株式会社コクドと当時の営林署に質問状という形で訊いたが、「ない」の一点張り、行政当局も「知らない」の一点張りであった。
東奥日報や陸奥新報の投書欄には1997~2000年に月平均3以上の「拡張反対」の意見が掲載されていた。私も10回投稿し、そのすべてが掲載された。
 その頃、「岩木山を考える会」で毎年実施している「岩木山写真展」で、「岩木山にスキー場は必要か」というアンケートをとった。その実績は、「来観者約1000名中回答者が約700名、その中のわずかに2人が必要と答えたにとどまっていた。大多数の地域の人が、「今ある以上のスキー場もその拡張をも」望んでいないのであった。
ところが、株式会社コクドも町、県、林野庁も知らないという態度を頑なにとり続けた。その間、林野庁には事業内容の縦覧があった際に反対意見を100名単位で提出したが、事業計画にないことなのでという理由で無視された。
  拡張計画が明確にされたのは1999年2月だった。ただし、これは私たちに文書で回答されたものでなく、当該「鰺ヶ沢町の広報誌」によるものであった。
 それは「計画はない」「計画は知らない」と言っていた割にはずいぶんと整ったものであった。
私たちはその後、アセスメントの不備、間違い等を指摘したがこれらについても誠意ある回答は得られなかった。とにかく、「株式会社コクド」も行政も私たちの要望、地域住民の生の声には全く耳を貸さず、「ノーコメント」と「徹底した無視」を決め込んだのである。「無視」が「いじめの一種である」ことは小学生でも知っている。いじめをいいことだと言う人はいないが、行政は率先して無視を続けた。
 そして、2000年の6月26日に森林管理局は拡張工事へのゴーサインを出したのであった。
 「株式会社コクド」が「上級者がより難度の高いコースが欲しいと言っている、その要望に応えるために拡張する」という「拡張理由」が、一番経営的には「先見性」のないもので、しかも矛盾することであった。
 どだい、「スキー上級者」というのはスキー人口の中で一番数の上では「少ない」ものだ。経営的に「儲け」を考えると多数の利用者ということが絶対の条件になる。多数の利用者を望めないことなのに、どうして「株式会社コクド」たるものが「スキー場」を拡張するのかは、私たちにとっては「常識的」に疑問だった。これは最初から木村前知事と組んで「アジア冬季大会でモーグルスキー競技」の会場とするという密約があったからである。
 雑誌「週間金曜日」の記事によると、知事は事前にコクドの堤会長と当地ホテルで会っていたそうだ。県民をつんぼさじきに置いて「トップ同士が密約をしている」といえる構図である。
「アジア冬季大会」がやれさえすればそれでよかったのだ。資金援助から、さらにそれを含めた「後始末」には県や町から相当の金が流れたのだろう。「株式会社コクド」はまず自分の懐を痛めてはいない。「開催費が8億円から56億円にふくれ上がった」理由もこの辺にあるのだろう。そして、鰺ヶ沢町がスキー場のためにつぎ込んだ分、鰺ヶ沢町の財政は逼迫した。そして現在、北海道夕張市なみの「赤字再建自治体」に堕しかかっている。
 さて、写真の右に視点を順次移動して欲しい。
 中腹部下部に見える「樹林帯の伐採地」はすべて、既存のスキー場である。これは「白神山地・青秋林道建設反対運動」のさなかに、その間隙を巧みに利用して白神山地の東回廊に位置する岩木山にスキー場を開設、営業を開始したものである。
 その後、年次進行で、ゲレンデを拡張してきた。しかもそのやり方は「狡猾」過ぎるものだった。それは、法的にはアセスメントが要求されない限度ぎりぎりの面積を拡張して、総合的に広げていくという、実にずる「賢い」ものであった。現在は大小12本のゲレンデを擁する大スキー場になっている。まさに岩木山の北面とその山腹を蹂躙するかのようである。)