岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

360度、姿を変える岩木山(6)04年6月6日赤倉登山道入り口付近から見た岩木山

2008-06-10 06:02:57 | Weblog
(今日の写真は岩木山環状道路を歩いてほぼ、赤倉登山道入り口に着いた辺りからの山容だ。
ここまで来ると弘前市街地からは絶対に見ることが出来ない「赤倉沢の源頭部」の眺望が可能になる。写真に注目して欲しい。
 山の先端、丸みを帯びた部分が山頂である。その左側にまるで山頂を「顔」とすれば耳のように見える山体があるが、これを「耳成岩」という。まさに「耳状」を「成している」山だからこのように呼ぶ。
 「…岩」と呼ぶのも一理がある。これは噴火して中央火口丘「山頂」を築いた「噴火口」の外輪山であり、全山が「溶岩や岩」で出来ていることによるものだ。「耳成」という形状はかなり主観的なものだが「岩」という名称には「火山性地質的な」事実が含まれており客観性が強い。だから、何となく「イメージ」に頼っただけの命名でないことがよく分かるのだ。
 その山頂下部から北に延びるなだらかに見える稜線は「大鳴沢右岸」稜線である。この稜線は「風衝地」でダケカンバなどの樹木も背丈は低く、1~2mでしかない。岩木山でミチノクコザクラが一番早く開花するのが、この稜線・風衝地なのである。
 ここからはなだらかに見えるが、右岸から大鳴沢の源頭部を渡り、左岸に取り付くと一変して急峻な登りになる。赤倉登山道を登る者にとっては、そこが最後の「難場」となる。
 はっきりと見えないがこの稜線上に、岩木山の三峰の一つである「巌鬼山」(他に鳥海山、岩木山)がある。
 古来からこの三峰は鳥海山が薬師仏、岩木山が阿弥陀「あみだ」仏、そして、巌鬼山が観音仏に擬えられて信仰されてきたのである。赤倉登山道沿いに、三十三体の「石仏観音像」が標高1450m付近のこの巌鬼山までに設置されている理由は「巌鬼山」が「観(世)音仏」とされてきたことにあるのだ。
 また、巌鬼山は修験道の赤倉大権現も祀られていて、その下部には赤倉大権現を祀る大きな石碑も建立されている。
 このなだらかな稜線を北に辿っていくと急激に落ち込んでいる場所が見える。そこが馬の背中に鞍を載せる部分であるかのようにひこんでいるように見えるだろう。そこを私たちは「赤倉切れ戸(キレット)」と呼んでいるのだ。
 その下部には全く緑のない崩落崖壁が続いている。これが岩木山で一番規模の大きい赤倉噴火口「爆裂火口」である。以前のブログにも書いたが現在もこの崖壁は「崩落」を続けている。
  登山道はこの爆裂火口の右岸尾根にある。しかも、上部は「爆裂火口」の上端すれすれのところを通っている。しかし、そこを通る者にはそのことが分からない。まかり間違うと深さが100mを越える「爆裂火口」に真っ逆さまに落ちてしまうような場所が至るところにあるのだ。
 実は歴史的にみると、この赤倉登山道は「岩木山登拝道」としては一番古いのである。「岩木山登拝道」の数は少ない。名前が示すように「ご神体」である「岩木山に登って拝むための道」である。
 ところが、百沢に岩木山神社が開基されると、この「赤倉登拝道」はその「登拝」という性格を「百沢登山道」に無理矢理「移封」されてしまったのである。その理由は「道が険しく危険で登拝者の中に事故や事故死者が続出した」ことであると言われている。
 確かに、現在も「険しく危険」という実態は変わらない。しかし、今は危険な「崖壁上端」にはコメツガやダケカンバが密生して、ガードレールやフエンスの役割をしてれくれているし、それらが登山者の目を塞ぎ、垂直に近い100mという高度を意識させないようにしているのである。
 昔は、この樹木の「ガードレールやフエンス」などがなかっただろうから、まともに危険で、落ちる者、死亡する者が続出したのは事実であろう。その事実を巧みに利用して「津軽藩」が「藩命」で百沢の岩木山神社からの登山道を、正式な「登拝道」としたのである。 このようなことで岩木山の信仰は「藩」という「公」によって管理される「武家社会」中心のものになったのである。
 それまでの「岩木山の信仰」は、赤倉登拝道を中心とした「民間」や庶民のものであったのである。)