岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

360度、姿を変える岩木山(17)04年6月6日、若松を経て枯木平に向かう…

2008-06-22 06:52:39 | Weblog
(今日の写真は鰺ヶ沢町の若松地区と旧岩木町枯木平間で見られる岩木山だ。この辺りからは、連続的に「寄生火山」がよく見える。
 私たちは既に長平と松代の間で、長平登山道尾根沿いに「鍋森山」、黒ん坊沼の東側に「笹森山」という「寄生火山」を見てきた。
 写真右前面に見える山も「寄生火山」である。標高540mほどの「若木森」である。その奥に見えるのが「寄生火山」では一番標高のある黒森山だ。この「若木森」の標高が540mもあるとは見えないだろう。なぜならば、歩いている道路の標高が430m程度だからだ。当然、見える「若木森」は100mほどの小さい山となる。低くて小さい感じの山ではなく、その実態そのものが「低くて小さい」のである。
 この山麓に開けた「平地草原」は従来からの手つかずの「草原」だろうか。違う。「減反政策」で打ち棄てられた「田圃」である。
 若松地区や松代地区に入植した人たちが、不毛の土地であるこの場所に、木々や草の根、地中に埋まっている多くの石や岩と血を流す苦闘をしながら「開墾」した「田圃」や「畑地」なのだ。
 国が、農水省が進める「減反」は、その苦労に報いることもなく、癒すこともなく、逆に耕す土地を奪ったのである。
 どのような理由にせよ、土地を奪われる農民ほど空しいものはない。しかも「減反」には農民たちの「自己責任」領域はないのである。全く、一方的なアメリカ主導の農業政策を進める農水省や政府自民党の「党利党略」の犠牲者なのである。
 棄農、放棄耕地、限界集落などというネガテイブな事象を、すべて「農民」の所為にしてはいけない。国を挙げて農業や林業を「国を守る」産業と位置づけて、経済政策の中で「国策」としていかねばならない時である。
 私たち消費者も全面的にこれに参加していかねばならないのである。農業や林業が生き生きしてくるとそれは「地球温暖化」の抑制にもつながっていくのである。
 かすかに畦であろうという形跡を残すところには、ピンクのタニウツギや真っ白なケナシヤブデマリが「自然に帰ったこと」を誇るかのように咲いていた。何だか悲しくなってきた。

 黒森山が山頂を遮るように立ちはだかって見えてきた。カラマツ林の梢の上に山頂だけを覗かせる岩木山が見える。
 道路の直ぐ上部が標高612mの「二ッ森」である。それに遮られて岩木山は、しばらく間、私たちの目から姿を隠す。この山の稜線が弘前市と鰺ヶ沢町との「境界線」になっている。この境界線は「黒森山」山頂を経て、鰺ヶ沢スキー場上部へと続いている。地勢的には「追子森」や「西法寺森」ピークを経ていてもおかしくないのだが、この二山は従来から岩木町の管轄であり、弘前市は「吸収合併」で、この二山を含めた広大な岩木山を易々と手に入れたのである。これは「策略」としか言えない。
 この「二ッ森」の上部には地図では無名であるがもう一つの「寄生火山」があり、それはさらに「黒森山」に連なっている。地図では無名だが、私たちは地元の人に倣って「一ッ森」と呼んでいる。
 間もなく弘前市、04年はまだ岩木町だったが、である。鰺ヶ沢町から岩木町に入った。まだ、合併していない時である。
 「岩木山一周をうまく歩くと一市四町二村を巡ることが出来るんだよ」と私が言う。一市はもちろん弘前市だが、残りの四町二村とはどこだろうか。
 答えは鰺ヶ沢町、鶴田町、板柳町、岩木町、それから森田村、西目屋村である。現在はこの中から岩木町と森田村が消えた。

 写真の左端に一本の木が見えるだろう。支え木を杭止めをして倒れるのを防いでいる。ずいぶんと大事にされている樹木だ。もちろん植樹されたものである。
 何だろう、これは「オオヤマザクラ」だ。「大事にされている」と書いたが「倒れることを防ぐために一時的に、その時の見せかけ程度に大事にされている」だけなのである。
 この「オオヤマザクラ」の植樹が環状道路沿いに盛んに実施されていた頃の秋に、私は石倉手前から2、300mの間に植樹されたものを確認して写真に撮った。
 そして、残雪期の3月にそこをまた訪れた。そして、驚いた…。
道路脇に並べて植えられているものを仮に10本としよう。その10本の中で無傷で立っていたものは1本だけであった。支柱とした横木が圧雪のために折れて、それに引っ張られて、苗木の幹をこの支柱に縛り付けているために、苗木そのものが折れているのだ。横に張り出している細い枝もすべて圧雪のために折れている。これらには葉芽も花芽も見られなかった。春になる前に既に枯死していたのだ。
 そして、既に枯れた細い幹や枝には、この苗木を寄贈した人の銅製の銘板が空しく揺れていた。寄贈者は30年後50年後に立派に育ったオオヤマザクラをイメージし、立派に育って欲しいという思いを込めたに違いない。植えた後の育てるための管理は全くされていない。寄贈者に対する「裏切り行為」だろう。)(この稿は明日に続く)