(今日の写真はそろそろ第二松代の「石倉」地区と呼ばれる辺りに着くところから撮ったものだ。方角的には岩木山を西北西から見ていることになる。
この辺りになると、ずいぶんと岩木山もその容姿を変える。弘前から見慣れた山容とはまったく趣を異にする。
弘前から見える山容は言うまでもなく「単独峰(孤立峰)」である。しかし、この辺りから見える山容は複雑に峰や尾根、それに谷が絡まり、連なっている「連山」的なものに変わってしまうのである。
その理由は岩木山の「造山」過程にある。この写真に見える山容は、「岩木山の造山」史からみると「旧岩木山」と呼ばれる範囲と地形を示している。
簡単に言うと、岩木山はほぼ東から西に走る線で二分された範囲、つまり北(詳しくは北北東)側が古い山体で、爆発や噴火をしていた時の地形をいまだに残しているのである。だから複雑な山体を維持しているのだ。
南(詳しくは南南西)側は数千年から千年程度前の爆発や噴火のさいに噴出したものが堆積したことによって出来た山容を見せているのである。こちら側は非常に単調で「スマート」な山容となっている。
これら「山容」の違いを、一層際だたせているものに「寄生火山」がある。これは北から西側にかけて偏在し、弘前から見える範囲には、僅かに一山「森山」だけである。
この違いは「植生」の面にも現れている。写真では小さくてはっきりしないが、左からの山稜に見られる「濃い」緑に注目してほしい。これらはすべて「コメツガ」である。弘前から見える範囲の弥生、百沢、岳登山道沿いの尾根には生えていない針葉樹である。中央火口丘(現在の山頂)を形成した噴火や「鳥の海」爆裂火口を形成した大爆発で、その噴出物によって、下部稜線上に生えていた「コメツガ」は「埋められて」消滅したのである。
ここで、山稜の説明をしよう。左から右に見ていく。先ずは「烏帽子岳」、次が無名の「1396m峰」この二山に見られる濃緑は「コメツガ」だ。さらに赤倉風衝地のある巌鬼山を含む山稜だ。その手前が長平登山道のある尾根だ。中央部に白い建造物が見えるが、これは鰺ヶ沢スキー場ゴンドラターミナル駅である。
この尾根の上部に見える山が「西法寺森」であり、その右に続いている「コメツガ」の生えているピークが「追子森」である。「西法寺森」と「追子森」の間は吊り尾根と呼ばれるほどに「細い」稜線で、真下には深い「爆裂火口」が広がっている。
山頂から右には、二の御坂、一の御坂、鳥の海爆裂火口外輪山、鳥海山南陵と続いている。鳥海山南陵に斜めに走っている直線的な「切れ込み」はリフト索道である。
いずれにしても、この「山容」を提示して「この山はどこでしょう」と訊いても、おそらく「100人中98人」は「岩木山」とは答えないはずである。
自分たちの目で眺めたりマスコミ等が提示する「岩木山の容姿」は一に弘前からであり、次いで五所川原方面、さらに鰺ヶ沢方面からのものであるはずだからだ。
石倉のが近づいてきた。「」と書いたが最近では、家は僅かに「一戸」になってしまった。これでは「」という表現はあたらない。
その家の前には「アスパラガス畑」があった。さっきまで蕨狩りに興じていた人たちが、アスパラガス畑を眺めて、『頭を「の」の字にしていない変わった蕨があるよ。』と騒ぎ立てて、今にもそこに侵入して、「採取」するような気配を見せたのである。
だが、幸いにも傍にアスパラガスの無人売店があったので「不埒な」侵入行為と無断採取しないですんだようだ。
この畑には「独活(うど)」も生えていたが、だれも「天然のもの」だとは言わない。言うと白々しさがすぐばれるからであろう。みんなはニコニコしながら栽培されて、かなり伸びきった独活を横目で見ながら通り過ぎたのだった。
その先には「Y字路」がある。左に行くと「若松」に出る。右に行くと第二松代小学校のある第二松代に出て、白沢からの「本来」の道に出るのだ。
若松に出る道を辿ると「距離」は4kmから5kmほど短縮される。「短時間」という合理性を大事にするならば、第二松代地区へと迂回しないで真っ直ぐに「若松」地区に出ればいいと思うのだが、「岩木山一周歩こう会」を主催する弘前勤労者山岳会にはその考えはない。それは「歩行距離」にこだわっているからであるらしい。
当初は峠、白沢、第二松代、若松を経由して総歩行距離は50kmを越えていた。現在は「新道」経由で距離は10km以上短くなっている。さらに、若松地区に直進すると5kmも短くなる。
総歩行距離を40km台に維持し「マラソン」競技の走行距離との近似値でもって歩く人たちに、この催事に「親和感」を持たせようとしたものらしい。35kmでは「マラソン」との近似的なイメージとはほど遠い。
第二松代小学校(現在は跡地となっている)からの道は、実にいい。(明日に続く)
この辺りになると、ずいぶんと岩木山もその容姿を変える。弘前から見慣れた山容とはまったく趣を異にする。
弘前から見える山容は言うまでもなく「単独峰(孤立峰)」である。しかし、この辺りから見える山容は複雑に峰や尾根、それに谷が絡まり、連なっている「連山」的なものに変わってしまうのである。
その理由は岩木山の「造山」過程にある。この写真に見える山容は、「岩木山の造山」史からみると「旧岩木山」と呼ばれる範囲と地形を示している。
簡単に言うと、岩木山はほぼ東から西に走る線で二分された範囲、つまり北(詳しくは北北東)側が古い山体で、爆発や噴火をしていた時の地形をいまだに残しているのである。だから複雑な山体を維持しているのだ。
南(詳しくは南南西)側は数千年から千年程度前の爆発や噴火のさいに噴出したものが堆積したことによって出来た山容を見せているのである。こちら側は非常に単調で「スマート」な山容となっている。
これら「山容」の違いを、一層際だたせているものに「寄生火山」がある。これは北から西側にかけて偏在し、弘前から見える範囲には、僅かに一山「森山」だけである。
この違いは「植生」の面にも現れている。写真では小さくてはっきりしないが、左からの山稜に見られる「濃い」緑に注目してほしい。これらはすべて「コメツガ」である。弘前から見える範囲の弥生、百沢、岳登山道沿いの尾根には生えていない針葉樹である。中央火口丘(現在の山頂)を形成した噴火や「鳥の海」爆裂火口を形成した大爆発で、その噴出物によって、下部稜線上に生えていた「コメツガ」は「埋められて」消滅したのである。
ここで、山稜の説明をしよう。左から右に見ていく。先ずは「烏帽子岳」、次が無名の「1396m峰」この二山に見られる濃緑は「コメツガ」だ。さらに赤倉風衝地のある巌鬼山を含む山稜だ。その手前が長平登山道のある尾根だ。中央部に白い建造物が見えるが、これは鰺ヶ沢スキー場ゴンドラターミナル駅である。
この尾根の上部に見える山が「西法寺森」であり、その右に続いている「コメツガ」の生えているピークが「追子森」である。「西法寺森」と「追子森」の間は吊り尾根と呼ばれるほどに「細い」稜線で、真下には深い「爆裂火口」が広がっている。
山頂から右には、二の御坂、一の御坂、鳥の海爆裂火口外輪山、鳥海山南陵と続いている。鳥海山南陵に斜めに走っている直線的な「切れ込み」はリフト索道である。
いずれにしても、この「山容」を提示して「この山はどこでしょう」と訊いても、おそらく「100人中98人」は「岩木山」とは答えないはずである。
自分たちの目で眺めたりマスコミ等が提示する「岩木山の容姿」は一に弘前からであり、次いで五所川原方面、さらに鰺ヶ沢方面からのものであるはずだからだ。
石倉のが近づいてきた。「」と書いたが最近では、家は僅かに「一戸」になってしまった。これでは「」という表現はあたらない。
その家の前には「アスパラガス畑」があった。さっきまで蕨狩りに興じていた人たちが、アスパラガス畑を眺めて、『頭を「の」の字にしていない変わった蕨があるよ。』と騒ぎ立てて、今にもそこに侵入して、「採取」するような気配を見せたのである。
だが、幸いにも傍にアスパラガスの無人売店があったので「不埒な」侵入行為と無断採取しないですんだようだ。
この畑には「独活(うど)」も生えていたが、だれも「天然のもの」だとは言わない。言うと白々しさがすぐばれるからであろう。みんなはニコニコしながら栽培されて、かなり伸びきった独活を横目で見ながら通り過ぎたのだった。
その先には「Y字路」がある。左に行くと「若松」に出る。右に行くと第二松代小学校のある第二松代に出て、白沢からの「本来」の道に出るのだ。
若松に出る道を辿ると「距離」は4kmから5kmほど短縮される。「短時間」という合理性を大事にするならば、第二松代地区へと迂回しないで真っ直ぐに「若松」地区に出ればいいと思うのだが、「岩木山一周歩こう会」を主催する弘前勤労者山岳会にはその考えはない。それは「歩行距離」にこだわっているからであるらしい。
当初は峠、白沢、第二松代、若松を経由して総歩行距離は50kmを越えていた。現在は「新道」経由で距離は10km以上短くなっている。さらに、若松地区に直進すると5kmも短くなる。
総歩行距離を40km台に維持し「マラソン」競技の走行距離との近似値でもって歩く人たちに、この催事に「親和感」を持たせようとしたものらしい。35kmでは「マラソン」との近似的なイメージとはほど遠い。
第二松代小学校(現在は跡地となっている)からの道は、実にいい。(明日に続く)