岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真はミネアザミ/スズメバチは厄介者か…(その2)

2007-10-01 06:46:50 | Weblog
(今日の写真はキク科アザミ属の多年草であるミネアザミ「峰薊・別名オオイワアザミ」だ。まるで、「葉の上に頬をついて涼風に揺れる岩稜地帯の秋の煌めき」のような花である。
 岩木山では結構多くのアザミが見られる。ノハラアザミ、サワアザミ、ナンブアザミなどである。ノアザミもあるがこれは「春咲き」である。
 秋に咲くこれらは、だいたいどこの山でも見られるものだし、私でも見分けがつく。ところが、どうしても私の乏しい知識では判別・同定出来ない「アザミ」にここ数年ずっと出会っていた。
 秋の始まりの大沢で、仄かな赤に染まったオニシモツケと別れてまた登り続ける。両腕で体を支えて、日陰になっている大きな岩を前向きで躱す。目の前で、葉の上に頬をついて涼風に揺れる岩稜地帯の秋の煌めき、小花の淡いピンク色が揺れた。細ながく柔らかい鋸歯を持つ葉を広げて、数本が佇んでいた。ミネアザミだ。これは美しい。
 仲間に鬼という名を持つ「オニアザミ」もあるが、これらアザミの仲間はみな美しい。俳句に「花さくや今十八の鬼あざみ」というのがあるが、深緑の中で暗紫色に佇立している姿には高貴さがあって美しい。…なのに「鬼」という名を冠された彼女たちが何となく気の毒に思われ、今一度実物を見て貰いたい気持ちになった。
 ミネアザミは津軽地方と北海道道南地方の特産種で「岩木山を代表する秋の花」である。花は直立して上向きに咲き、総苞片が斜上することが特徴でもある。津軽地方では海岸の風当たりの強い草原にも生育している。)

         ☆ スズメバチは厄介者か…(その2) ☆
(承前)
 子供とは単純なものだ。さらに大人のように人間社会の仕組みや通念に馴れていない。だからこそ自然を丸ごと受け止めることが出来るのである。
 山野を舞台とした「生命のバランスはゼロに近い」ものであると言われている。自然の摂理の中で、「人」を含めたすべての生物は「人も鳥も虫もカエルも獣」も対等な立場で生きている。
 その意味から、自然界には価値の序列はないのだとも言える。そして、その対等であり価値の序列のない場所が、わたしたちの住む自然界としての地球であるはずだ。 それなのに、人に役立つところだけを、つまり「人」にとって価値のあるところだけを取ろうとするのが、人間の「大人の論理」なのだ。
 すでに21世紀が始まっているというのに、大人たちは自然界に「価値の序列」を今だにしつっこくも固定しようとしている。
 20世紀までは、人間は「自然を人間中心に回っている」と考え、人間以外の生き物を従属させ、殺戮を繰り返してきた。一方、自然を科学と対置するものとしてとらえ、その科学の力で人間に都合のいい利用の仕方をし、かつ破壊を続けてきたのである。
 21 世紀は「自然と共存していかねばならない時代」である。人間も自然の中の一員に過ぎないということがテ-ゼである。この視点を持ち続け共生・共存を図らない限り、地球は破滅する。まさに「人間も自然の中の一員に過ぎない」を教育の根幹に据える時代が始まったのである。
 小学生14名を「刺した」スズメバチは人間にとって都合の悪い害虫とされた。だから、住みかを奪ったうえに皆殺しにしたのだ。
 この地球に人が生きているのがいいことならば、他のすべての動物がここに生きていることもいいことだろう。明快なことだ。子供にはこれがよく解るのだ。
 さらに、子供とは、「なんでもやたらに食べ、どこでもつくりかえてしまう人」という動物がもっとも悪いということも単刀直入に理解出来る者でもある。「人」とは他の生命を奪うだけだと考える子供だっているかも知れない。
 この事件への対処は、実に知恵のない方法と結末で終わった。「人間の大人」とは、この程度のものかとスズメバチを含めた「虫たち」が笑っているだろう。いや本当に悲しくて失望の笑いをしているのは子供たちであろう。この意味からも、これは私たちに将来的現実としての課題を与えてくれたと考えるべきなのだ。 

 子供たちには、今まで以上に「自然の中で生きている生物をそのままの姿」でとらえてほしいと思う。自分を含めて互いを独立した生き物同士なのだと見てほしい。君たちだからこそ「偏見のない感じ方」が出来るのだ。
 教員も父母も、危険なことはもう懲りごりだ、などと言うべきではない。危険を避けることにのみ重点が置かれるあまり、自然いっぱいの野外での活動を縮小するようであってはいけない。
 多様性に満ちた自然、絡み合った数々の生命を育てる自然、無駄でゴミとなるようなものが何一つない自然、必ず何かの役割を担って生きているものたちがいる自然界を学ぶところが野外である。「見せる、聞かせる、歩かせる、探させる、触れさせる、捕まえさせる」ことが具体的な項目になるだろう。

 スズメバチたちが刺したことは自己主張の現われである。しかも、当然のことを主張したに過ぎない。自己主張は「主体性の体現」である。
 これは教育活動の中で、重要な行動と精神のあり方として位置づけられるものである。悪いことではない。さらに、ハチたちの自己主張をほかの生き物と共存するための基本的な認識として、教育に生かすようにするべきでもある。
 また、人が集まる場所を管理しているものは、その周辺地域や通路などを日常的に点検すべきだ。それが「他の生き物と共存・共生していく最初の手立て」である。スズメバチとその巣の存在を確認したならば、迂回路などの設定をすべきであったし、観察に来た児童・生徒に「静かに行動をするようにとの指導」があってしかるべきだった。      (この稿終わり。)