岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山を背景とする風景、一番似合うのは「稲田」であろう…

2007-10-26 08:58:39 | Weblog
(今朝の写真は「岩木山をバックにした菜の花畑」だ。この写真は今日書こうとしていることと関係がある。導入として必要なのだ。岩木山を背景にした「お花畑」はとりわけ美しい。この写真はある年の5月中旬に鰺ヶ沢町山田野地区で写したものだ。)

 ☆ 岩木山に菜の花はよく似合う。蕎麦の花もよく似合う ☆

 実はその2、3日前に岩木山の頂上から山麓の鰺ヶ沢方面を眺めている時に、そこだけ、真っ黄色な長方形の「区画」を発見したのだ。その時から「あれは何だろう」との思いに取り憑かれて、下山後もその思いは消えなかった。
 確かに、山頂からは小さく狭い「黄色の長方形」であった。あえて言えば、それは小指の先端に隠れるほどで、1cm掛ける2cm程度にしか見えない。見過ごしてしまいそうな黄色の「区画」ではあった。
 私にはKさんという友人がいる。岩木山が好きで、「よく登っている」と書きたいところだが、「腰痛」があって「登ること」はままならない。だから、「スカイライン・リフト」を利用した「登山」には、これまでも何回も同行している。
 Kさんは「写真」も趣味にしている。「登ることがままならない」ものだから、いきおい「遠景の岩木山」が撮影の主題になる。とにかく、遠景の岩木山をその360度の方角から、こつこつと写しているのである。本会の写真展「私の岩木山」にもここ5、6年連続して出展しているので、会員の中にも顔見知りが多くなっている。
 最近は「茅葺き屋根のある風景」を追い求めて、「茅葺き屋根の家屋」と岩木山を一緒に写すことに励んでいる。その写真の数枚を私はもらって持っているし、その中の1枚は、書斎の壁に飾って毎日眺めているのである。
 先日も「もう茅葺き、なくなってしまった。」と言っていた。
「灯台もと暗し」とはよく言ったものだ。私は真っ黄色な長方形の「区画」を発見し「あれは何だろう」との思いに取り憑かれながら、その答えを出すのに「Kさん」の助けを借りることに、やっと気がついたのである。
 そこで、山頂で写した「真っ黄色な長方形の区画」の写真を提示して、訊いた。答えはあっけなかった。「うん、それは菜種畑、菜の花だよ。」といとも簡単に言うのである。そして、「一緒に撮影に行こうか。」と誘ってくれたのだ。
 今日の写真は、その時に写したものだ。それから、数年Kさんと一緒に、この菜の花畑を、その時期になると訪れている。
 この菜の花畑の持ち主は鰺ヶ沢町のYさんで、Yさんとは数回会って話しを交わしている。Yさん「時季になると花見に来る人が増えました。秋には、蕎麦に代わります。蕎麦の花もきれいですよ。」と言ってくれた。もちろん、私たちは、その蕎麦の花が背景とする岩木山の写真も撮影に出かけている。

☆「垂柳遺跡」の古代米稲田んぼアートに岩木山はよく似合うが、「コスモス」畑は似合わない☆
 
 私は自転車でよく出かける。その中でよく走るのが弘前と黒石を結ぶ「バイパス」道の「自転車道」である。黒石市に入る手前は田舎館村である。この村は、まさに純粋な農村であり、津軽地方の米作農業の中心といってもいい。その農村的な風情はすばらしいものだ。
 この村には「垂柳遺跡」がある。これは、約2000年前の弥生時代の「水田跡の遺跡」である。この水田跡が発見されるまでは「東北地方北部に弥生時代はなかった」と言われていたのだが、以前から出土していた弥生式土器と合わせて、昭和56年に水田跡が発見され、東北地方北部にも弥生時代が存在していたことを証明したのである。この発見は、考古学史や農業史を書き換えるほどの大発見であるとされているそうだ。  
 この「垂柳遺跡」の側を「自転車道」は走っている。そして、そこから少し離れた村役場庁舎東側には、弥生時代の古代米(紫稲、黄稲に赤米「紅染、紅都」)に「つがるロマン」を加えた四色の稲で育てながら作る「田んぼアート」水田がある。この「田んぼアート」水田にも岩木山はよく似合うのである。2000年前の「弥生人」もこうして岩木山を眺めたのだろうかと思うと思わず「わくわく」してくるのだ。
 ところが、最近は「うち捨てられている」ようだが、ある年の秋のことだった。「垂柳遺跡」のそばを例によって自転車で走っていた。「減反」政策による休耕田が年ごとに増えていた。
 道路脇の休耕田が一面の「コスモス」の花園になっていたのだ。それは美しい光景だった。柔らかい秋の涼風に揺れる多くの色彩は、乱反射してその光彩を地上に、空間に思い切り放っていた。
 私はコスモスという「花」は好きである。コスモスを否定する気持ちは微塵も持ち合わせてはいない。だが、「田んぼ」の中の広い「コスモス」園にはかなりの違和感を持った。
 それは、「コスモス」は田んぼに植えるものではないし、やはり、田んぼは休耕田といえども、「作物」を育てる場所であると思っているからである。その「コスモス」の園に咲く「コスモス」はやはり、岩木山には似合わないものだった。問題は「減反」政策なのである。

 先日の毎日新聞「発信箱:コスモス畑のため息=中村秀明」には…

 『風にそよぐコスモスの花畑を各地で見かける季節だ。だが、秋の田園を彩る光景が生まれた理由を知ると、素直に「きれいだ」とは言えない。夏に、あちこちから届く「数万本のヒマワリが咲き誇っている」というニュースも、たいてい同じ事情を抱える。
 いずれも休耕田の利用。かつては実りをもたらした土地の寂しい現状であり、雑草で荒れ放題になるのを懸命に食い止めている姿なのだ。』とあった。