岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山は岩山、デフォルメ的に言わせてもらえば…?

2007-10-22 06:39:19 | Weblog
(今日の写真は大石神社のご神体である「大石(石も岩も同じ意味)」だ。地上に置かれたものというよりは、地中深くにその大半を隠して、地上に僅か「顔」を出しているのかも知れない。それでもこの大きさなのだから、本体の大きさは計り知れない。だが、実際に周りを掘り起こして実測した人はいないだろう。ご神体に対して畏れ多くて、それは「冒涜行為」、罰あたり的な所行であるからだ。) 

       ☆ 岩木山は岩山、デフォルメ的に言わせてもらえば…? ☆

 ところで、名前の由来から考えても「岩木山」は「岩」の山なのである。デフォルメ的に言うと「表皮(樹木の生えている土の部分)を剥ぐと全山岩山」となるのである。
 地質学者からお叱りを受けることを覚悟して、かなり、無理な説明であることを承知で「デフォルメ的」に表現すると、こうなる。
 岩木山は、大まかに「西北から東南」のラインで2つに分けることが出来る。つまり、鰺ヶ沢側が「旧(古)岩木山」であり、百沢側が「新岩木山」である。

 「旧岩木山」は岩山の上に長い年月をかけて樹木の葉が積もって「表土」を形成して、それが現在、標高1100m辺りまで「ブナ林」となっている。だから、ブナ林の中には突出した岩が至る所に見られる。大白沢や小白沢、大鳴沢沿いの尾根を歩いてみると、まさに至る所に「累々とした岩が創り出す神々の庭」が出現する。
 鰺ヶ沢スキー場が「上級者のニーズ」に応えるとして「拡張」したゲレンデも、まさにこのような「神々の庭」であった。
 このゲレンデ「拡張」の理由を「上級者のニーズに応える」としていたが、これは方便の、真っ赤な「ウソ」だった。事実は「冬季アジア競技大会」で「モーグルスキー」会場にするためだった。なぜ「ウソ」をつく必要があったのか。恐らくそこには「冬季アジア競技大会」とそれに関する何かを「ウソ」をついてまで「隠さなければいけない」理由があったのである。
 知事、企業、監督官庁がつるんでしまうと「マスコミ」など、弱いものだ。悔しいながら本会も暴けなかったが、その「ウソ」を暴いたマスコミは1つとしてなかった。

 「新岩木山」は5000年ほど前に噴火して、現在弘前方向から見える姿を形成した。現在の山頂が、その時の「中央火口丘」である。そして、噴出した「火山灰や火山弾」が鳥海の尾根や大長峰の弥生方向に堆積した。その上に「ブナ」や「ミズナラ」が生えて現在の林相を形成している。
 だから、こちら側はが堆積した地層であるが故に「土石流」が発生しやすいのである。1975年8月の、21名という尊い人命の犠牲を出した「百沢土石流」がそれを教えてくれるのだ。当然、いまだに問題になっている「弥生跡地」を含む尾根や山麓も「土石流地帯」なのである。
 この堆積した地層の下部には「古岩木山」と同じような「岩」が累々と埋まっている。「弥生地区」に入植した人たちが「リンゴ」栽培の「園地」を開墾した時は、この「岩」との辛くて苦しい戦いだったと伝えられている。

 岩木山の名前の由来は、アイヌ語のイワーケ(岩・所)とカムイーイワケ(神の住むところ)である。さらに鎌倉時代になると「イワキ」の音に「岩城(天然の石のとりで)」とか、「盤椅(寄りかかる大岩)」の漢字を当てたものである。
 「イワキ」は古代より、「神性の岩城」であったことが、地名に表われている。まさに霊山信仰であり、全山が「岩の集合体」であるといってもいい。

 その「全山」岩である「岩」の性質は、「安山岩溶岩」で形成されて、粘りが強く、あまり流れ出すような性質のものではない。この「熔岩」は百沢登山道の大沢口から上部100mにかけて見ることが出来るのである。この岩の「マグマ」は、鳥海・那須両火山帯の中間に発生したマグマ帯ではないかといわれている。

 昨日も書いたが、「石神大神(石神さま)」は、「神社」としての形を取ったのは比較的近年であるが、岩木山北東麓にある大石神社は、歴史が古い。
 その名が示すように「ご神体」が大きな岩である(今日の写真を参照)。巨石が本殿と一緒に柵に囲まれている。神社名も、当然大きな石から名付けられている訳で、神が宿る巨石崇拝であることは疑いがない。
 大石神社側山麓の、またはそこを起点に広がる北西津軽の人々は「岩木山の霊界をこの神社の大石で封じている」とこれまで信じてきた。「岩木山の霊界」は時には「人々」に悪さをする存在でもあったのだ。
 また、「安産やお乳の出がよくなるようにと巨石に祈願する」ことが大石神社にはいまだに残っているのである。
 一方、この大石神社は、江戸時代から農家にとってこの上なく大事である「農耕馬」の冬場の餌である「干し草」の刈り場の中心であった。
 「草刈り場」はいきおい、若い男女の出会いの場所となった。「出会い」「結婚」となれば「安産」を願うのは常だろう。今もって大石神社は「安産」を司る神なのである。
 また、「馬」の餌調達の草刈り場、「馬」に対する感謝も人々は忘れなかった。大石神社には何十体という「馬」の石像や木像が近郷近在の村々から奉納されている。
 ただ、その「奉納された」日付を検証してみると、農耕が馬から機械力の「耕耘」やコンバインなどに変わってからは、「奉納」は非常に少なくなっている。
 「機械文明」は、「人々と命あるものとのつながり」と「自然に対する感謝や信仰」を、容赦なく剥奪し、無味乾燥な世代だけを育んでいく。本当にさびしい限りだ。