岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「移民」無責任な国…「ハルとナツ」

2007-08-16 07:21:31 | Weblog
 表題で2300字ほどの文章を書き終えて、「投稿」するつもりで、間違えて「事務局長Blog」をクリックしてしまった。そうしたら「記事編集中に別の画面(他のメニュー/プレビュー画面からのテキスト・画像リンクなど)にジャンプすると記事の内容が失われます。ご注意ください。」という注意書き通りに、失われてしまった。悔しいけどしようがない。今日一日かけて、思い出しながら書き直すことにする。

(書き直した文章)

(今朝書いて、一瞬にして失った文章とはかなり違ったものになった。失ったものは特にいとおしいものだ。この文章よりも私の思いが直裁的に出ていたはずである。二番煎じはやはり、そういうものらしい。)

    ☆「移民」無責任な国…「ハルとナツ」

 暑い。本当に暑い。猛暑日が続いている。この暑さだと出歩くと「熱中症」になるのが落ちだ。さりとて、家の中で原稿を書くという気にもなれない。動くとすぐに汗をかくのでじっと「貝」のようにしていることになる。しかし、所在がないので、勢い「テレビ」ということになる。だが、高校野球は見ない。あれは「暑さ」を助長・増幅させる。甲子園の「暑気」が拙宅にまで入り込んで来る気がしてならないからだ。
 BSハイビジョンで「ハルとナツ」という番組の初回だけを見た。4回シリーズらしいのだがその後は見ていない。
 その理由は、とてつもない労苦にあえぐ「移民」たちに対する深い悲しみとその労苦の根源をなしているのが日本という国であること、その国に対する激しい憤りにとらわれ、考え込んでしまったことである。
 私は次のように考えた…。
 …日本は「移民」に対して「無責任であり、無策」であった。しかも、それらと背中合わせ的な関係である、外交的には国際的に民主制の成熟という点からは貧しい「品格」の国であり、外交的には低位・未熟な国であった。
 国や組織は不都合なことの責任はすべて、「個人」にありとする。「国を挙げての運動や施策」に失敗しても、それ「個人の努力がたりなかった」で片付ける。
 国は「国策」的に移民を推奨していた。しかし、移民する当該国の事情などを調査・研究していなかった。すべて、移民受け入れ国が提示する情報を受け売り的に「移民」希望者に与えていた。
 そうでありながらも、その反面で移民を希望する人々を「祖国を捨てる者」「祖国の恩に対する裏切り者や売国奴」としてとらえていた。だから、移民したあとの「アフターケアー」は全くない。
 移民として出国してしまえば「はい、それまでよ。」である。これは満州の開拓農民に対しても根を同じくしている。この開拓団も国は見捨てた。彼らの中国残留孤児に対する扱い方にはまだその「見捨てたこと」の「残滓」がある。
 国とは「領土」だけではない。実質的な「国」とは人である。人を大事に出来ない「国」は滅ぶ。62年前に、そのことを「学習」したはずなのに、為政者はすっかり忘れ果て、自己目的化にのみ、「政治」を行っている。
 現今の内閣をA紙は「アブナイ(危ない)カク」と評した。まさに当を得て妙である。ところが、「アブ」さんには、その危機意識がないように見える。
 批判や支持率の低下などにはびくともしない。自分に都合の悪いことは「言わざる・聞かざる・見ざる」で押し通す。何という強さだろう。ご立派というほかない。だが、支持率の高いときには、それを最大限にアピールしていたから、計算高い人物なのだろう。
 参議院選挙で大敗しても「国民は私の進めていこうとすることを理解している」と言う。民主主義の根幹的な手法である「選挙」ということをどうとらえているのだろう。選挙の結果すら、自分に都合のいいようにねじ曲げてしまうのだから大したものだ。
 開き直りでないとすれば、これほど「国民」から乖離した「総理」はいない。

 移民を「一旗揚げるための方途」または機会と考えた者は少ない。少なくとも99%の移民は、やむを得ず「移民」ということしか生きて食べていく「手段」がないからそれを選んだ。
 移民という選択肢しかないような状態に追い込んだのは誰だ。そのような経済状態にしたのはどこの何奴だ。それは、国の経済政策である。国である。
 その責任には全く触れず、国内的な経済の立て直しに取り組むこともしないで「生活できない・食うことが出来ない」者たちを海外のどのようなところかも知らない国や土地に送り込むことが移民である。まったく安易で無責任なことである。
 多くの国で移民たちは国のこの無責任さに泣いた。アフターフォローのないことにじっと耐えて泣いた。その中で、特に「ドミニカ」移民はひどかった。事前に国・政府から知らされた情報と「現地」とではすべてが「最悪」という点で180度違っていた。
 100年以上も前のこの移民政策に見られる「無責任さ」は現在も別な現象で色んな場で見られる。
 「ワーキングプア」といわれる社会現象もその一つである。働いても働いても、いつまでも「貧しさ」から脱却出来ない。「戦後レジームからの脱却」を掲げる前に「貧しさからの脱却」に取り組むべきだろう。ここでも「貧しさ」は個人の責任であって、個人的に「努力が足りない」こととして片付けられそうな気配がある。
 
 この「アブナイカク」が「ものを言う外交」を推し進めると言ったそうだ。だが、「外交」というものは、最終的には合意「文書」で決定する。交渉のあらゆるプロセスはすべてが、この「合意文書」の記載事項に収斂されるのだ。
 昼食会とかパーテイとかで交わされる会話は、すべて「合意文書」の一節、一連、一語に連なっていなければいけない。
 「ロンとヤス」などに見られる親しげな動作や会話は所詮パフォーマンスに過ぎない。特に映像文化を意識し、マスコミ受けを狙った「演技」でしかないことが多いものだ。だから、騒ぐ割には「あの会談の成果は何だったのか」というむなしさしか残らないのだ。 特に、「アメリカのポチ」となってしまった昨今はその傾向が強い。ポチとは犬の愛称である。犬の性質・性向はひとえに、「飼い主に従順」であることだ。
 「私はあなたに従順です」を前面に出して、どうして、外交の原則である「対等・互恵」が守られるか。だから、無駄な「金」だけをどんどん出させられる羽目になるのである。 アメリカは賢い。金は出させるが、文書には決して「自国が不利になるような文言は絶対記載させない。」からだ。
 入れ替わり立ち替わり、首相や各大臣が外国に出かけている。最近の外交で、具体的に成果があったというものがあるか。ない。
 私は現今の外交のあり方に、100年前と何ら変わっていない「国際的に民主制の成熟という点からは貧しい「品格」の国であり、外交的には低位・未熟な国」を見るのである。
…100年前、移民に関する交渉場面を想像する。
 調査・研究をしていないのだから「交渉」は「生殺与奪の権利」を持っている「受け入れ国」のペースで、思い通りに進められた。そこには、すでに日本からの「移民」の存在はなかった。日本が相手国に「同胞」を売り渡したのである。
 慇懃(いんぎん)な態度で、相手に阿(おもね)り、へつらい「どうぞよしなに」で交渉は終わったかも知れない。少なくとも「彼らは我が国の大事な民である。大過なきように取り扱ってほしい。」くらいは言うべきであり、「文書」にその文言を記載し、後々検証を怠るべきではなかった。
 これらをしておけば、特に「ドミニカ」移民のような悲惨な状況は生み出されなかった。「ハルとナツ」とその家族、係累をあのような悲惨な運命に陥れることもなかった。
 現今の外交のあり方では、いずれ他国に「国民」を売り渡すことになりかねない。杞憂であることを願う。

 NHKはBSハイビジョン特集で「硫黄島」とか「8月15日、あの日世界は何をめざしていたのか」などを放送した。この「ハルとナツ」はこれらの放送と連動した時間帯で放映された。
 私には、単なる番組編成上、たまたまそうなったようには思えなかった。NHKの番組編成の意図が解るような気がしている。不祥事もあった。しかし、NHKの良識をこの「番組編成」に見たような気がして嬉しくなった。

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(9)

2007-08-15 04:55:28 | Weblog
(承前)
     ☆21世紀とは… 

 かつて1990年代、総理大臣にはじまり、町村の議員に至るまで、政治家の多数は「21世紀」という言葉をよく使った。
 もしも、21世紀を「人間中心」から「自然や未来世代と共存・共生する時代」ととらえているならば、開発や自然の改造に関わる公共事業などを押し進めることは出来なかったはずなのである。
 しかし、そういうことに与する者ほど「21世紀云々」と言ったのである。つまり、実態的には20世紀のままで、「時間の推移だけの新世紀」を言っていたに過ぎない。
 これでは森のめぐみを未来世代へ保証する世紀とはならないのである。
 「私たちを支えている自然があと40年もすればなくなる。」と西丸震哉は「滅びの大予言」で言っているが「21世紀」とだけバカの一つ覚えのように言っていた手合いには聞こえないし、その耳を持たない。
 資本主義原理に求められる厳しい倫理観とは、企業や個人の「自己規制」である。
 それは、飽くなき願望を抑制することであり、常に未来世代の生存を現在世代の自分と同じように保証することでもある。この倫理観こそが「自然保護思想の発揚と自然との共存・共生」という21世紀的な世代間倫理としての実践主題なのである。
 資本が求める「人間中心」からの「開発」は「自然や未来世代と共存・共生する」ことと対立することであり「自然破壊」と同義であるということを理解すべきだろう。

 21世紀とは、私たちが現状を維持していては、破綻または滅亡するかも知れない未来世界を救うために「現状維持を犠牲にする倫理が実践的に求められる世紀」である。つまり、消費生活から質素・倹約の時代へと回帰する世紀である。

 21世紀とは、未来世代に負の遺産を残さないための科学の発展を促す世紀である。しかし、既に科学の発展は私たちにさえ「負の遺産」を与えているので、これは望めそうにない。

 21世紀とは、自然環境の尊重は人間の尊重という考え方は基本的な部分で「自然保護」という考え方と同じであるから、自然に手をつけないことで保護する世紀である。
 これを推し進めていくと、どうしても経済主義としての『高度成長・大量生産・大量消費・大量廃棄・労働生産性・製造業中心・使い捨て製品・輸出主導・経済合理性』などや『開発としての国主導・資源の浪費・公共事業』などと『社会主義的な産業何か年計画、それに戦争や軍拡』や『地産地消を認めない大国支配による食糧の世界戦略的な統制・バイオテクノロジーによる遺伝子組み換え技術による私的・法人的な種の統制支配』などは相容れないものになる。
 結局は地域・国・民族などの独自性が保証されるグローバルな平和主義的な世紀とならざるを得ない。
 
 さらに具体的に考えてみると、次の課題が示されるのである。
① テクノロジーからエコロジーへの変換をしていかねばならない。
② 自然と人間を対立的にとらえる文明から両者を統合して扱うことが出来る新しい文明の創出時代としていかねばならない。
③ 自然と人間を統合して取り扱うこと。自然の尊重は人間の尊重という考え方を第一義としていかねばならない。
④ 人間が自給自足型(サイクル型)自然と共存を望むならば、生態系を技術行使の対象から外すことである。
 いわば、自然を温存することである。「あれか、これか」という二者択一の一方に自然・生態系をいれないことである。すなわち「自然破壊である森林伐採か、地域振興か」という発想や選択は成立しないのだと考えなければいけない。

 つまり、現在の人間の利益になることでも、未来の人間と地球の自然の利益のためにしていけないことはしないという厳しさがなくてはこれからの環境問題に耐えていけないということである。
                              (この稿続く。)

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(8)

2007-08-14 06:31:01 | Weblog
 (承前)
  ☆20世紀とはどのような時代であったか…そして現今の21世紀とは

 それは戦争による人の殺戮と科学の発展の時代であった。さらに、開発の時代(食糧とエネルギー)でもあった。そして、それらは「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」「核のゴミ」を生み出した。
「飽くなきスケールメリット」の典型は「開発」である。とりわけ20世紀の後半50年間にこの「開発」は集中した。
 経済の競争原理はスケールメリット(規模の経済性)を追求するが、これが行き着くところには確固たる未来はない。
「飽くなきスケールメリット」の典型は「開発」である。「開発」は「自然破壊」と同義であるということだ。
 未来を考えるならば、企業や個人の責任に関わる自主規制や願望を抑制する節度的な倫理が求められることは必至である。

 「内山 節」が『自然と人間が共生するには循環的な時間世界の中で変化を望まずに生きている自然の時空を壊さないでおくことのできる社会を私たちが作り出すしかないのである。』(「森に通う道」)と言うように現状維持を犠牲にする倫理の一つが「自然との共存・共生」であるはずだ。
自然は途絶えることのないくり返される時間の中で生き、生存条件の変化を求めない。
 また、自然の価値は抽象化出来ないものだ。
個別の価値が横並びで存在していて、別の価値での決済は不可能だ。つまり、「金銭による決済」は出来ないということだ。「自然を破壊して補償金を払う・受け取る」という構図は「個別の価値が横並びで存在している」という自然界には通用しない。「原子力発電所」を造る。企業や国・自治体は補償金を支払う。「東通」にしろ大間にしろ、六ヶ所にしろ、住民はその補償金に飛びつき、「値段」をつり上げようと画策する。そこには「自然」への視点はない。未来世代に残していかねばならない自然的な漁場などを、現在世代の「金銭的な価値」を優先させて永遠に「手放し」てしまったのである。
 J・S・ミルが言う「個人は、他人の迷惑になってはならない」や「人に迷惑をかけないかぎりという条件」がつく「自由」から逸脱した「勝手気まま」な行為に他ならない。海に境界線や仕切りはない。「原発」からの「排水」は7つの海に「汚染」を運ぶ。
 自然界ではあらゆる個性が同等の価値を持つのである。
 そして、それらは決して、貨幣や経済効率的な価値に換算できるものではない。
 だが、飽くなき「スケールメリット」(規模の経済性、つまり、広げ拡張することでの現実的な利益追求)は、それを求め「開発」を進行させる。
 開発は同時に「自然」を破壊し、その自然は修復不可能であるという意味から「負の遺産」とも言える。
 環境省が「環境白書」で「規模の経済性の追求だけでなく…」と指導しても、所詮、政府・自民党の傘の下だ。開発業者や企業と握手をしている首長にその指導は届かない。
 
 過去を棄て、さらに未来をも展望出来ない現在は空しい夢に過ぎない。
元に戻らないもの、返せないものを奪ってはいけない。世代間倫理が重要視されるのが21世紀である。森林伐採は未来世代に対する現在世代が残す負の遺産である。 科学の進歩は未来を明るくするとされてきたが…、
 見田宗介は「科学技術が見落としているものは「共存する全体性へのバランスの感覚」である。」(気流の鳴る音)と言う。
 確かに現在世代は化石燃料ですら、科学によって未来世代の生存と享受するべきところまでを食い尽くしている。自分の子孫にツケを残したいと誰が考えるだろう。そのツケは、他の人の子孫をも巻き込んでしまうのだ。これは未来に対する未必の故意、つまり「被害者としての原告が今いない」だけという立派な『犯罪』なのである。
今が、現在が、科学を発展させると、未来は常に「バラ色」であると言われてきた。環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だが果たしてそうだったろうか。
 過去を棄て、さらに未来をも展望出来ない現在は空しい夢に過ぎない。
 このままだと、自分たちの身を食いあう「開発」の20世紀を引きずりながら、生きて破滅に向かう。怖いのは「自然破壊」のつけは、負の遺産であり運命共同体であるということだ。私だけは助かるという勝手は決して許されない。

 津軽富士・岩木山に委ねられた敬虔で素朴な信仰と信仰心からくる歴史的な登山形態は、自然を利用・支配してやまない主義によって、ゆがめられすっかり希薄になっている。岩木山の歴史的な個性も伝統も剥奪された。
 自然に対する畏敬の念の減退や自動車道路利用という安易・安直な登山はますます岩木山を無顔貌なものにしていくだろう。頂上に立つ人は今や岩木山そのものを見ていない。
 だが、今世紀は「人間中心の時代」から「自然や未来世代と共存・共生する時代」なのである。「公平」、「公正」、「平等」をないがしろにして、個性を歪(ゆが)め、異質を排除することが許される時代ではない。
                              (この稿続く。)

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(7)

2007-08-13 05:40:06 | Weblog
 (承前)
  ☆現在世代は単なる「消費者」、その満足の果てはどうなるのか(2)

 登山道の整備に目を向けてみよう。
 数年前に一信者によって「不法(自然公園法および森林法に抵触)」に整備された岩木山の赤倉登山道は、利用する登山者や信者たちから「登りやすい」と評価されている。しかし、これまで見たようにその評価の対極には、「自然を壊している」という厳然とした事実がある。
 岩木山という大自然の中にあって、歩きやすい道ほどそれは自然的な要素に欠けている所だろう。
 山に行くとか山を登るということは、本来都市型生活で失った自然的な要素の回復を図り、求めるためではないのだろうか。それならば、足で手で体で、五感すべてで自然を実感出来る道を求めるのがいい。
 登山道の整備を考える時、やって来る者たちが「体と五感すべてで自然を実感出来る場所」とすることを第一義とすべきだろう。
 傷をこれ以上深くしない、広げない整備。自然的な治癒が可能な形での整備を願いたい。登山道は明らかに都市の道路とは違うのである。
 都市型の道、それは合理性を常に志向し、さらに、利便性、効率性、安全性、普遍性をその根底に置く。そして根底には手間を省くという思想がある。
 それゆえに文明の象徴でもあるのだ。
 それは平坦で凹凸がなく、登り降りるという傾斜を排除して、仮に傾斜があったとしても出来る限り緩(ゆる)くを求める。
 だから「整備」や新しく登山道を開く時には、広く、曲がりが少なく、ぬかるみがなく、段差がなく、藪がない形態で応えようとするのだが、平坦であり、斜面のない「山」などは存在しない。
 登山道整備に都市型道路の感覚や性向を導入したり、求めようとすることは、どだい無理なことである。
 どのような道であっても、それを作ることは「人による自然の征服に荷担することになること」は否めない。
 歩いたり登ったりするのに、楽な上に、易きを求めるだけでは自然を実感することは出来ない。
 それだけではない。それだと私たちはただその道を利用させてもらっている、つまり、「歩かせられているに過ぎない」ことになる。

 さて、「消費者」である「現在世代」のニーズに応えることがすべて許されるとしたらどうなってしまうのだろうか。このようなことは一般的には誰も考えない。だからこそ、「今」考えるてみる必要がある。
 ざっと、次のようになるはずである。

① 今を生きている現在世代たちだけの満足になる。

② 循環型の世界は絵に描いた餅となる。

③ 「森林伐採」は未来との共存を、現実的には否定することになる。

④ 確かに現在世代は化石燃料ですら、科学によって未来世代の生存と享受するべ きところまでを食い尽くしている。これは未来に対する未必の故意、つまり「被害者としての原告が今いない」だけという立派な『犯罪』となる。

⑤ 元に戻らないもの、返せないものとしての森林伐採等は未来世代に対する現在世代が残す負の遺産となる。

 ニーズに応えるということは「自己のニーズに応えること」であり、「開発・地域振興・経済効果」ということはすべて「現在世代」の、その中の「特に一部の者に都合のいい詭弁」に過ぎないのである。

 J・S・ミル(注)は「私は後世の人のために切望する。…必要に迫られて停止状態にする前に、みずから進んで停止状態に入ることを。」と説いた。
 今から170年ほど前の1848年のことであった。「ニーズの抑制」をうながしたのである。
 しかし、近代人や現在世代はだれも耳を傾けず、とうとう2007年まで来てしまった。

 注:John Stuart Mill (1806-1873)

 個人の自律(「自由=自己決定」)説と結果重視の経験主義とを総合し、妥当な自由主義社会の理論を提示したのが、J.S.ミルである。
彼の『自由論』(文明開化の時代に『自由之理』という題で訳されて日本でも有名になった本)は、福沢諭吉など明治時代の思想家たちにも大きな影響を与えた。
 その内容は、当時としては非常に「新しく進歩的」なものであった。なぜならば、民主主義社会がすでに出来上がっていることを前提にした上での論であったからである。
 自由とは「人に迷惑をかけないことだ」とJ.S.ミルは言う。
この自由とは世論(世間)からの個人の自由であり、「個人が自分自身だけに関することをどのようにしようとも自由だ。それを回りの人間(世論)はとやかく言う権利はない」ということである。しかし、彼は、「人に迷惑をかけないかぎりという条件」をつける。
「個人は、他人の迷惑になってはならない」「個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない」などとも言う。
 なぜ個人の自由が大切なのか。
J.S.ミルは言う。「個人の生活に規制を加えるようになると、個性が育たなくなり、そうなると天才も生まれなくなり、その社会が発展しなくなってしまうからである。」と…。

 ところで、最近の安倍さんが強行に推し進めている「教育改革」に対しても…、
「教育を国がするのはよくない。国は教育の機会さえ平等に与えていればよい。その中身に国は口出しすべきではない。そんなことをすれば、誰も彼も同じ教育を受けた金太郎飴のような人間が出来上がってしまう。そうなると、個人は不幸になるし、国は発展しなくなる。」…と、170年も前にJ.S.ミルは言っているのである。
 安倍総理は「J.S.ミル」を読んでいない。さびしい話しだ。                                        (この稿続く。)

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(6)

2007-08-12 05:29:21 | Weblog
(承前)危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(6)

    ☆世代間倫理と未来世代の権利…

「未来世代は私たちよりずっと幸せになれる。」とか「おれは子孫のために自動車を発明してやった。」または、「原子力発電の残滓を青森県六ヶ所地域に貯蔵した。」などと得意がっているのが現代の文明的文化である。そして、危険きわまりない「放射能性の廃棄物」を未来世代に残す。ここには世代間の倫理(現在世代の未来世代に対する人間的な優しさや思いやり)は存在しない。
 通時的なシステムがないのである。過去・現在・未来を通じて約束・契約という拘束力を持たず、過去からその時まで続いてきた伝統を重んじるということがないのである。
 まさに共時的なシステムなのだ。「共時」とは一時期におけるという意味である。つまり、現在世代と置き換えることが出来るだろう。実は「現在が未来を食いつぶしている」のである。

  「先人木を植えて、後人その下に憩う。」という古い格言がある。これには、過去を畏敬し、それを未来につないでいこうとする強い意思がある。
① 木を植えるのは自分に利益がはね返ってくるからではない。各世代の行為は自発的な自己犠牲という形をとる。
② 未来の人格は、我々が借りを作った過去の人格の代理人として想定される。私たちは先祖がしてくれたことを子孫にすることによってこの借りを返すのである。
 過去の人たちはこのように考えたのである。しかも、私たちが過去の忌まわしい遺物のように嫌う「封建身分制度」の中にもこの考えは存在していた。

    ☆現在世代は単なる「消費者」、その満足の果てはどうなるのか

資本主義は競争原理と消費で成り立つ。だが一方で、この主義の原理的側面では宗教的なものと相俟って厳しい倫理観が求められてきたことは、歴史的に知ることが出来る。
 この倫理観とは、企業や個人の自己規制である。飽くなき願望を抑制すること、常に未来世代の生存を現在世代の私たちと同じように保証することでもある。だが、それは常に「個の人格」と「人格対人格」の問題とされることが多かった。
 中国の孔子、老子、荘子にはじまり、西洋のギリシャ思想や近代のカントなどに見られることである。しかし、残念ながら「倫理観」は時代の推移とともに薄れてきて、ここ現代の「只今」に至って完全に消失したかに見える。
 現代は個人の手間を省くという思想が定着しているその一方で、その省かれた手間を誰かに押しつけるという思想が当たり前になっている。それは便利さの裏返しであり、人々はそれぞれ、「個」を主張しているかに見えるが、実は「個」は社会に埋没し、希薄化している。
 ところが、先人は、手間を省きその手間を他人に渡し、目的地に早く着くことを戒(いさ)めてきた。「個」がその意味で「確立」されていた。先人の教えは尊い。
 「急がば回れ。」である。早く着くこと、時間をかけないことが、どれほど危険でリスクを伴うものかを、昔の人は知っていた。手間を省くという物質文明の行き過ぎを、諺や格言の精神文明が内側から、ぐっと抑止してきた。
 これが私たちの調和の取れた文明だった。自然をあるがままに使う中で、一方、自然をあるがままで育てようとする畏敬の念を伴った思想がそこにはあった。

ところで、本川達雄が「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)の中で…
『環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷をうめ「良い」道路をつくることは、当然よいこととして、問題にされてこなかったようだ。…アッピア街道やアウトバーンを造った人たちが、征服せねばやまぬ思想の持ち主だったことは、まさに象徴的なことである。』…と言う。
 このように機械文明は、人間社会からこの抑止力や畏敬の念を奪ってしまったのである。
                             (この稿続く。)

 お詫び:「NHKギャラリー」岩木山の花々写真展は10日で終わった。NHKが用意してくれたアンケートの結果を、写真展終了次第公表すると以前のブログで約束したが、NHKでその結果をまとめるということで、私の手元には後日、渡されることになった。ということで、「結果の公表」はかなり、遅れることになる。

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(5)

2007-08-11 06:00:31 | Weblog
(承前)☆森林、それはミニ地球である…(5)

 ☆環境倫理学の視点(昨日に続く。) 

 登山道を含めた「古道」は先人がさまざまな思いを込めて、苦しみながら築いてきたものである。先人の思い入れ、考え、苦悩は同じ人である以上、現代人の我々にも通じるものだろう。
 そこには、時代が変わっても常に、現代に働きかけてくるものがあり、時を越えた永遠の不変なる心情を、また普遍なる真実を過去から現在に注いで、さらに未来へとつないでいくものがあるだろう。
 つまり、「古道」とは、時代を越えて人の心に永遠に働きかけ、訴えてくる要素を持ったものである。それゆえに、古い道であってもやはり、それは現代に通じる道であるだろう。
そして、我々は先人と同じように、さまざまな思いを持ってこの道を歩かねばならない。こうすることが歴史を作っていくことに連なるのである。これを伝承と呼んでもいい。
 登山道や古道は財産であり伝統である。財産を食い潰し、道を廃れさせることは、先人の築いてきた文化を放棄し、根絶やしにすることだ。歴史的な財産を、道を廃れさせてはいけない。
 登山者は先人たちの財産と伝統を継承する者たちであるはずだ。そして、登山者とは、道なきかすかな踏み跡に「先人たちの思いを辿り、自分の思いを重ねながら」歩き続ける「継承の徒」でもある。

  ☆自然や未来世代との共存・共生の生態学的見地

 先ず「共生」について考えてみよう。共生関係は「支配ー被支配」関係にある生物のあいだでは成り立たないものである。支配者は被支配者に対して意の向くままに「生殺与奪の権」を行使できるからである。
 しかも、共生・調和はきびしい自然の掟の上に成り立っている。ある生物がほかのさまざまな生物と永続的に共存するには、はかりしれない数の生物がこれまでに、死に絶えている事実があることを忘れてならない。
人間は自然の支配者であるなどと考えていては絶対に、自然との共生関係は成り立たない。
 人は自然の脅威を前にして人間となり、自然環境をことごとく破壊する力をすでに持ってしまった。
 そして、今、人間の行動・行為が自然の脅威を質的に変化させながら増幅させて、さらに脅威の対象となってきている。
 生態系の破壊と温暖化・大気汚染・環境ホルモン・オゾン層の破壊などの現実的な脅威は、先に述べた「人間の二重性」に由来する。
 つまり、これらの原因はすべて人間が自然に手を加えたり、人間のすべての行動のプロセス・結果にある。
 総括的にとらえると、人間が人をコントロールし、支配しているのだとも言えるのである。つまり、科学を手にした人間が、それを手段や方法として営利や「目先のよりよきものと思われるもの」を求めて、生態系的生物である人を管理し、支配しているということである。

 「生態系の破壊と温暖化」と書いたが、実際に、地球は現在、何回目かの氷河期の始まりに移行している。それなのに「温暖化」が言われているのだから、その絶対値的な異常さは測り知れないものだあるのだ。
 つまり、「もの凄い生態系の破壊と温暖化が地球で起きている」のである。
 その主たる原因は生態系の破壊、つまり「森林の減少だ」と言い切る研究者は多い。私は研究者ではないが、そう思っている一人である。

 大気汚染は雨(雪)との関わりのの中でもよく解るし、深刻である。
 新雪は、その体積の90%が空気だと言われている。締まった雪でも70%前後が空気だそうだ。
 雪の匂いの源は、この空気に含有された微粒子なのであろう。私は冬山登山もやる。胸まで埋まるような新雪の中を登ることもある。幕営や雪洞に泊まり、「雪」を溶かして、炊飯をする。そのような時に、雪の匂いが、妙に「埃りっぽいことも、煙り臭く、灯油ぽいこと」を感知する。それは化石燃料のものだ。
 四十数年前の雪の匂いには、はっきりと、自然の木酢酸(さくさん)や木の煙りの燻(いぶ)りがあったものだ。
 今はまだ、「匂い」の段階だが、そのうちに「雪が味覚され、白以外の色で視覚される時」が来るかも知れない。
 酸性雨はいつでも、その名称を「酸性雪」に変え、色も無色から黄変、または別な色彩に変化することが出来るはずだ。
 放射能を含んだ「黒い雨」は「死の雨」であった。それを浴びた者は次々と死んでいった。これを考えると、黒い雪になっていくのをむざむざと見過ごすわけにはいかない。
 このような事実を受けて、生態学では『ヒトと人間の間に「共生」を作り出すことが文明に求められている。』とするのである。
 これが、現在世代の私たちに突きつけられている今すぐにでも解かなければいけない課題ある。ここで言う文明とは、もちろん「全生命的なもの」であることは言うまでもない。
                              (この稿続く。)

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(4)

2007-08-10 05:13:22 | Weblog
(承前)☆森林、それはミニ地球である…(4)

 環境倫理学の視点 

エネルギー、人口増加、食糧という人の生存と文化の在りように深く関わる大きな問題が、すべて地球環境を中心にして、互いに関係し合っていることは、どなたも「ご存知」のことだろう。
 環境倫理学はこのことを踏まえて、次の三つの主張を掲げている。
1) 自然の生存権の問題-人間、生物の種、生態系、景観(歴史的なものも含める)などにも生存と存続の権利があり、現在世代の意思によって勝手に、それらを否定(破壊や改造)はできない。
2) 世代間倫理の問題-現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。
3) 地球全体主義-地球の生態系は地球だけで完結していて、太陽以外の他の宇宙からの働きかけをまったく受けない閉じた世界である。
 この三つの主張に基づいて、現代を含めたこれまでの価値(正義・権利・平等・自由など)の基本的な考え方や歴史(進歩主義・保守主義など)の基礎概念をとらえると、多くの点で疑問視されることがある。
 たとえば、現代は「権利」を生存している人間のみにあるとするが、環境倫理学の視点では「未来世代」にもあるとする。
 また、保守主義ですら、これまでの「現状維持を目的とし、伝統、歴史、慣習、社会組織を固守する主義。新しいものをきらい、旧態を守ろうとする考え方」から「現状維持を犠牲にすることと、まだ見えないより新しい未来への視点」を持たざるをえなくなるのである。
 そして、この三つの主張を推進するためには、当然、「生態学」が歴史や経済、価値の世界にまで深く関わることになる。
 また、一方では、未来の文化が「環境倫理学」に強く映しだされるはずである。
 そして、この環境倫理学は、もっとも身近な今と未来世代を持つ親世代(大人)が、子供たちに、自分の希望を生かして平和に暮らしていける未来を保証しなければいけないことを示唆(しさ)する。
 さらに、子供に将来を選択させるならば、その選択肢が「可能になる」という行動を今既にしていなければいけないことを要求するであろう。

 環境倫理学のことをEenvironmental Ethics(エンヴァイロンメンタル エシックス)という。この主題を要約すると、次のようになるだろう。
① 現在世代だけが安逸に暮らせばいいというのではない。未来世代の生存条件を保証すること。
② 世代間関係を重視し、未来の人間の生存権を確実に保証すること。
 この二項は「自然はいくらでも自由に利用していいとする人間」に「待った」をかけるものであり、さらに、現在の人間だけが生きる権利を持っているのではないことを教えている。
 まもなく、人類の長い歴史の中では1%にもならない短い年数の「近代と現在世代」が化石燃料を使い切ってしまうと言われている。そうなれば、私たちが未来世代にガソリンや灯油を使う権利を与えないことになってしまうのである。

 環境倫理学が求めることを津軽地方の事例で言い換えると、それは「津軽の人たちが、岩木山を自分の原風景として保ち続けようとすること」であるだろう。また、「森を伐らないで、これまでの岩木山のままであってほしいと願うこと」であるに違いない。このことは、「ただ在ることを求めるというひっそりした実につつましい行動に過ぎない」のだが、行政や企業はそれすら許さない。
 私には故郷(原風景の中)にずっと居続けている行政や企業たちが、この故郷を、故郷の山を壊していくことがとても許せない。
 それは、この上ない自己認識の欠如であるし、自分を含む故郷全体に寄りかかりながらの甘えた自助努力のない未来世代を食い潰す悪業のように思えるのである。
 それゆえに、「ただ在ることを求めること」こそが未来世代と現在世代の共存を可能にすることの原点だと思うのである。
 「昔からのそのままを残すこと」は、この場合は保守主義ではなく、「未来を見つめた進歩主義」であり、未来世代への優しい保証であると断言したい。

 未来への優しい保証とは、木を伐らないで残すことだけではない。この土地・地域に連綿と続いてきた山岳信仰登山も民間的な伝承信仰も文化である。文化は、残され伝承されることで伝統的なものとなる。これを、「先人たちの残してくれた貴重な財産」と言い換えることも出来よう。
 歴史とは「今」を介在させながら、今を未来につないでいくことでもある。先人たちは確実にこれを実践していた。先人たちは、今、つまり現在につながらない未来や将来など絶対にありえないことを知っていた。だから、今を自然とともに必死で生きた。そうして、つないできた。
 そのことを、我々は伝統と呼ぶ。多くの現代人は忘れがちだが、この生きざまは当然、現代の我々にも課せられているのである。道はその伝統に似ている。それを必要としなかったり、守らないでいるとなくなってしまうものだ。                                       (この稿は続く。)

 「NHKギャラリー」で7月31日から開催されていた「岩木山の花々」写真展・「花と随想」のコラボレーションは、今日の17時で終了である。何と昨日までに3回もやって来た人がいることなど、アンケートのことを含めた報告は、明日以降順次掲載する予定である。

森林、それはミニ地球である(3)…飽くなき人間の森林破壊

2007-08-09 04:14:30 | Weblog
 ところで、短時間で楽に登れるスカイライン自動車登山道の敷設、登山リフトの建設、またはスキー場の開設・拡張などは、原生的な自然の破壊にとどまらず、地域の人々の岩木山に対する伝統的な信仰を外的にも心的にも変容・衰退させてしまうものである。
 登山道を麓から登ることで「成人を自覚」するという伝統的なお山参詣登山を衰退させ、次第に登山道をも廃れさせていくことなどを、設置者や許認可した国や自治体は、事前に把握していたとは考えられない。
 このような事業は、「足の弱ったお年寄りから子供まで誰でも岩木山に登れる」というスローガンのもとに、まさに営利のみに主眼を置いて始められたのである。
 見田宗介は「気流の鳴る音」の中で「まことに資本は、やむこともなく拡大する文明の布教者である。」と言うが本当である。
 私は「公正」さにおいて「一視同仁」的な「誰もが皆同じ」ということには賛成するが、すべてにおいて、皆同じであるべきだと主張する考え方には賛成はしない。なぜならば、民主主義とは「個々の人々がお互いにその違いを認め合うことで成立する」ものだからである。

 わき道に逸れたが、本題に戻る。
 …キリスト教が戴く一神教の摂理は、人たちに霊魂という権利を与え、人の自然に対する特権を正当化したのである。そして、この「特権」は資本を生み出し、資本はさらに「特権」を生み出してきたのである。
 アウグスティヌスは「動物を殺し、植物を滅ぼすのを差し控えることは迷信の極みであるとキリスト自身が教えている。」と言った。
 また、アリストテレスは「植物は動物のために造られ、動物は人間のために造られている。家畜は使用や食料のために、野獣は少なくとも大部分が食料のために、またその他の補給のために、すなわち衣服やその他のものがそれらから獲られるために存する。」とまで言っている。
 かくして、森を支配する文明が、キリスト教の下に「聖なる森など存在しない。森の中に神などいない。神は唯一であり、その神と人間に奉仕するために森は存在するのだ。人間の幸福のためならば、森はいくら破壊してもかまわない」という主張のもとにヨーロッパを覆いつくしたのである。

 一方、日本にあってはどうだったのだろう。
日本では、山も森も神の住むところであった。「やま」の語源にそれを辿ることが可能である。「や」には「やり」「やね」の形態的な共通項から三角形をした尖ったもの示すという意味がある。もうひとつ「畏れ多い」「人以外のもの」という意味がある。「ま」は状態や場所を示す接尾語だという。これを総合すると「三角形に尖っていて畏れ多いものがいる場所」が「山」となる。
 我々日本人もまた、狼や狐、それに蛇などの森に棲む動物を、森の神とかその化身やお使いと見立て崇めてきた。このように伝統的に森に抱いてきた観念は、狼が変身した狐信仰であるお稲荷さま、社やご神体に張られるしめ繩(二匹の蛇が絡み合っている姿)もまた森の守護神である蛇の象徴的具体化として、今日なお見られるものである。
 また、江戸時代まで下って見ても、各藩が「幹一本首ひとつ、枝一本腕ひとつ」などとして、木々を守ってきたことなどは、森の民であったことを物語っているものがある。
 木々の、草花の持つ命が、動物の生命があるがままの色彩となって光り輝く森を守ること、このことが、先祖から受け継いだ森の民として、我々の存在意義的な課題ではあるまいか。

 人間と自然との関係は、支配者と被支配者や利用者と被利用者の関係ではない。
 自然へのどのような介入でも、ミニ地球である自給自足型生態系の森林に対しては傷つけるものであっても、育てるものでは決してないのだ。
 しかし、一神教の摂理はそれに気づかず、東洋までも巻き込み全世界的に、人間は自然に対して、自分の願望を充足するため操作や制御をし、人工化することを認めてきた。しかも、それを「進歩」といい、「科学の発展」といい、「未来を常にバラ色に輝くもの」としてきた。
 そして、それらは「自然を支配する手段の発達」でもあった。人間たちはこれを「文明」と呼んだ。
 
 人が住む都市と人が耕し、収穫を手にする農地はどちらも「人工環境」である。
「文明」の英語、civilizationのcivilが市民・都市を意味するところに「文明」という語が持つ絶対的な意味がある。
それは「人工」、つまり、「人工環境」ということだ。だから、文明の対極に「自然」があり、対義語には「野蛮」がある。人間は自然から脱却して、文明を築き上げ、野蛮な自然を克服して「文明人」にならなければいけないと考えてきた。
 そして、その「文明」が森を破壊し、今、現在も文明人が「緑」を喰うのである。
登山をする者は「文明人」になってはいけない。素晴らしい「登山道」を望んでもいけない。野蛮な自然を心から愛せないものは「山」に登るべきではない。私はこの意味における「野蛮人」という「称号」(一般的には汚名であろうが)を喜んで受けたい。
 
 ところで、ジョン・ロックは「人間の手を加えない自然は無価値であり、手を加えることによってのみ価値あるものに変わる。」と言って、科学と技術の進歩は人間を幸せに導くものであることを疑わなかった。
 だが、森を見る限りでは、「人だけのものでは決してなく全生命的なもの」と思われてしようがない。そして、21世紀にあって、自然を征服と利用の対象と考えてきた西欧的自然観(キリスト教が戴く一神教の摂理と考えてもいい)は、とうとう人間に富みでなく、「災い」をもたらすようになってしまったのである。
                              (この稿続く。)

危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」☆森林、それはミニ地球である…(2)

2007-08-08 03:34:55 | Weblog
 (承前)
   ☆森林、それはミニ地球である…(2)

 私は「森林」を次のように捉えている。 

1.森林は酸素の供給源。人は空気(酸素)がないと5分で死ぬし、あらゆる燃料をエネルギーに変えるのに酸素は絶対に必要なものである。
2.水源を確保維持するもの。 人は食べ物がなくても平均的に50日間は生存が可能だそうだが、水がないと5日間で死ぬ。
3.土石の崩落をくい止めて、地形の安定を保つものである。
4.動物や植物が育つ生態系と位置づけられるものである。
5.森の木々の葉には滅菌・抗菌作用のある物質を出す能力もある。葉についた埃を払い落とす能力もある。その物質をフィトンチッドと言う。

 大事なことは森を伐ることは豊饒な生命を奪うことであり、森林は「生育していることによってのみ確保されるみんなの財産」であるということだろう。
 森林は未来世代との共有の財産であり、特に「国有林」はその意味合いからも一部の人たちのものではない。いわばみんなの財産だ。民有地といえども、この論理は当てはめられるはずである。
 だが、それにも拘わらず、ほんの一握りの人たちの満足のためにのみ伐り倒されてしまうという厳然とした事実が後を絶たない。

 森林を伐らなければ、どれほど「いいこと」があるかを考えてみた。
1.木を伐らないと道路を造らなくてもいい。
2.植林をしなくてもいい。
3.木を運ばなくてもいい。
4.谷に堰堤を造らなくてもいい。
5.動物や植物を殺さなくてもいい。
6.空気(酸素)は奇麗で新鮮でいい。
7.二酸化炭素が増えないので大気汚染がなくていい。
8.オゾン層を破壊しなくていい。
9.土石流や水害がなくていい。
10.沢や川の魚がたくさん捕れていい。
11.海の魚だってたくさん増えていい。
12.熊だってカモシカだって食べ物がたくさんあって大変いい。
13.金がかからなくてとてもいい。
 …などと木を伐らないということは、まったくいいことづくめなのである。なのに、何故伐るのだろう。
 「専守防衛」など「国を守る」ことの議論が、最近「戦後レジュームからの脱却」などとよくわからないスローガンとあいまって、政府・与党議員の中で姦しい。
 しかし、武力で国を守る前に、国の森林を守ることが、どれほど「国土の保全」と「国民の健康と命」を守ることになるかを真剣に議論するべきだろう。
 政治が「国を守ることは森林を守ることだ」と定義づけて行動したことが戦後にあっただろうか。江戸時代の為政者は「治水治山」に命をかけ、森林を大事にした。戦後は「治水」の名目で無駄な「ダム」をひたすら造り、山の森林を伐った。これは国を滅ぼす行為だ。
 きわめて、単純なことだ。「国を守るとは国内の森林を守ることである。」林野庁の衰退は、国にこの「論理と意志」がまったくないことを証明している。

 歴史的に、文明を持つ人との関わりからすれば、 基本的には狩猟や採集の場が森であり、生態系の一部である人にとって、「共生する為の収奪の対象」であった。時が進むに従い、収奪が激しく多量になり、農耕・牧畜が加わった。
 古代文明発祥の地やギリシャ・エーゲ文明の地に見られる住居・土木工事・燃料・耕地開墾・放牧地利用等による森の裸地化、森の減少や皆伐による破壊は、それらのことをはっきりと私たちに教えるものである。
 だが一方では、原始アニミズム(現象や事物に霊魂の存在を認める考え方・精霊崇拝。)はドルイド僧(聖なる木々の神、森の神を司(つかさど)った者たち)を中心に森を崇め守ってもいた。
 今から二千数百年前のヨーロッパでは、オーク(カシ、ナラなど)の巨木が「森の王者」として大地を覆っていたという。「ガリア戦記」(ローマの将軍シーザーの著になる)には「ゲルマーニアには六十日間歩いても端に到達できないような深い森があった。」とある。
 ドルイド僧たちはオークの巨木を、ヤドリギを、森を、動物を、森のこころを必死に守ろうとした。
 大宇宙も小宇宙もあるがものとして受け入れながら、森の神や大地母神(動植物が生存・繁茂していることを可能にしてくれる母なる神)に支えられる森の存続を願った。
 しかし、宇宙を一元化することは、広範に、しかも強力に進み、彼等は殺され森は伐り開かれ、動物は裁判にかけられ、豊かな生命をたたえる女性は魔女として殺された。私は、ここにヨーロッパの歴史的な不幸を見る思いがしてならない。
 こうして、ヨーロッパの森の神は滅び、世界はキリスト教が戴く唯一の神の摂理(せつり)(最終的に人を善に導く、神の意志)の下に確立していった。

 古代ヨーロッパの人々は、木や動物の生命と人間の生命が同じであると考えていた。森はキリスト教に支配される前までは、大地母神のすむ場所であり、メドウーサ(元もと女神として崇められていたが、キリスト以後、蛇を髪とする邪悪なもので、眼を見るとその者が石にされると伝えられた)やその使いが人間と調和して暮らしていたのである。
 キリスト教は自然物から霊魂や精霊を追放したのである。
 これは、人々の伝承信仰的な教えの衰退でもあった。これが自然に対する畏敬を育てず、恐ろしさを知らない破壊に結びついていったのである。
 これは、現代の岩木山に対する地域住民の伝承信仰の衰退が岩木山の森林破壊に連なっていることと奇妙に一致するのである。
(この稿、明日に続く。)

 本日、写真展・岩木山の花々の会場「NHKギャラリー」に私は終日おりません。昨日も午後からいませんでした。「色々と説明を聞きたかったのに、どうしていないのだ。」とお叱りの電話をもらいました。申し訳ありません。なお、9、10両日は午後3時までは常駐します。(三浦章男)

「NHKギャラリー・岩木山の花々」写真展で…コンパクトフラッシュにコピーして

2007-08-07 03:32:29 | Weblog
 ☆「NHKギャラリー・岩木山の花々」写真展で…「コンパクトフラッシュにコピーして下さい」とは!
 携帯電話のカメラで展示されている「写真」を写す人だけがいるのではない。もう世の中、滅茶苦茶だ。
 会場には「撮影禁止」というきまりも「張り紙」もない。しかし、常識として写真展会場で、「展示中の写真」を撮ることははばかれるものではないのか。私はそのように思っていたし、むしろ「撮っては」いけない、「撮影禁止」、「撮影お断り」が日本人の常識であろうと思ってきた。
 「手鏡」と「携帯電話カメラ」や「小型カメラ」で女性のスカートの中を撮る人までいるのだから、私のように考えることが非常識的であって、「禁止やお断り」がなければ、どこで何を写そうが自由というのが今時の「常識」なのだろう。

 数名のご婦人方がやって来た。その中の一人は手に「携帯電話」を持っていた。「わあ、これいい。」と言っては、携帯電話をその写真に向けて、写し出したのである。そうするとそれを待っていたかのように、他のご婦人方も「携帯電話」を出して写しはじめたのである。私は黙って見ているしかなかった。

 カメラを首に提げた男性が近寄ってきた。そして言う。「何年間も会いたいと思っていた花の写真があるのですが、写してよろしいでしょうか。」
 おばさんたちの「非礼で非常識」な行為に比すると、これくらいなら、「許可を求めるというエチケットにも適っている」ので許されるだろうと思った。だが、本心では許されない行為だと考えていたので、少しとまどいながら、「よろしいですよ。」と応えていた。

 写真展会場には、出展してあるものを含めて岩木山の花画像560枚を案内するするために、コンピュータを設置してある。それをスライドショウにして見てもらい、質問に答えるための補助として活用している。
 それを目敏く見つけたある来場者が私のところにやって来た。そして、小さなプラスチックのケースから何やら取り出して言う。
 「コンピュータのファイルにある似我蜂草(ジガバチソウ・蘭科の植物)をこれにコピーしてくれませんか。」と…。
 それは、デジタルカメラの記録媒体「コンパクトフラッシュ」であった。私はしばらく返答に詰まった。…というよりあまりの、図々しさというか、厚顔無恥にあきれ果てて声が詰まってしまったのである。
 幸いというしかないのだが、目の前に置かれたコンピュータには、メモリステックとかコンパクトフラッシュを扱うデスクが付いていない。また、その役割をする外部機器も付加してはいない。だから、「コピー」は出来ないのである。
 「このコンピュータではそれは出来ません。」私は重いものを飲み込むような声でやっと、答えた。その人は「出来ないの。…」と残念そうにつぶやいて、私の前から去って行った。

 恐らく、その人の行為がどれほど私を傷つけたかは、その人は知るよしもないだろう。その人が去ってから、私は怯(おび)えていた。もしも、今度「細長いプラスチックの容器のようなもの」を差し出されたらどうしようかと…。
 その細長い容器状のものは「USBメモリー」といわれるものである。これだと、USB端子がいくつもあるのでコピーは完全に出来るのだ。
 「物理的に出来ない」ことは断りやすいし、相手も納得しやすい。だが、心情的に許し難いこととして「断る」には、その理由を明らかにし、その上で納得してもらわなければいけない。いわば「価値観」の相違を理解し合わねばならないことだから大変に苦痛を伴うものだ。
 そのような状況にならないようにするには「コンピュータ」を撤去するしかない。そうしよう。

 文明の利器は人間の品性を堕落や下落させるものらしい。便利さは人間から慎み深さまで剥奪してしまうのだ。
 
(承前)
 危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」
   ☆森林、それはミニ地球である…

登山者や登山客で、森林と関わりを持たない者はいないだろう。山頂に至るには必ず森林帯を抜けなければいけないはずだからである。
 中には、いつもロープウエイや登山バスで一気に森林限界の高さに行ってしまう者がいるようだ。それでも山頂から見える山腹や麓に緑を発見しない者はいないだろう。 
 森林は生々輪廻、手間を惜しまず「自分の時間を生きる」のである。
白神山地が世界遺産に登録された真の理由はここにある。入山規制問題も原点に立ち返れば「自分の時間を生きる」ことを保証するということに行き着くはずだ。
 さらに、それは循環型の世界であり、山は命あるみんなの共有物でもある。つまり、森林は自給自足的なサイクル型の生態系であり、ミニ地球である。本当にすばらしいものであり、なくしてはいけないものなのだ。
 
  (危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」シリーズは明日に続く)

「岩木山の花々」写真展…来場者多数・アンケートのこと

2007-08-06 05:25:05 | Weblog
 ☆「岩木山の花々」写真展…来場者多数

もう少し早めの掲載でもよかったのではないかと思うのだが、昨日の「陸奥新報」紙が「岩木山の花々写真展」のことを報じてくれた。
 NHKのニュースでは4日の18時45分台に放映してくれた。いずれも、今回の写真展企図の意味を含めた主題をしっかり報じてくれていたように思う。非常に嬉しく、ありがたい。
 その所為だろう。昨日は来場者が非常に多かった。
 「…だろう」と書いたが、実際「ニュースを見て、来たくて来たくてやって来た。」という人や「新聞を見ました。前回も新聞を見て、あの厳冬の岩木山を見に来たのですが、今度は花ということでまた来ました。」などと言ってくる人が数名いたことは、「その所為」ではなく「その所為」で来場した人の割合が多かったということだろう。
 だが、来場者が多かったのは、その所為ばかりではない。この写真展の意図である「観光客を岩木山の花でもてなす」という狙いが的を射はじめたことにも因る。
 夕方から夜にかけての「ねぷた祭り」目当ての観光客は、それまでの時間の午前中から昼下がりの時間帯に、市内観光と、特に「弘前公園」の散策などに当てている。「弘前公園」から出てくる観光客は「市内を100円で乗り放題」という「100円バス」を利用している。これは、単独や二、三人という小集団の旅行者が主に利用しているようだが、パックツアーでの観光客がまったく利用していないわけではない。
 パックツアーといえども、個人の「自由観光」という時間があって、その時間は「集団から個人または小集団に分散」し「個人個人の好みや目」で「お目当て」の場所を訪れる。
 この人たちが、「弘前公園」の次に、すぐ近くにあるNHK弘前支局ギャラリー「岩木山の花々」を目当てにやって来ているのである。そのような人たちは時間をかけて見ていく。NHK弘前支局の前は「100円バス」の停留所である。バス停にバスが到着したからといって「慌てふためいて」立ち去ることはない。
 「岩木山の花々」写真展がお目当てでない「弘前公園」から出て来る「100円バス」利用の観光客は、ここのバス停でバスを待つ。「岩木山の花々」写真展の大きな看板を見る。バスが来るまでの「暇つぶし・時間つぶし」ということだろう。ぞろぞろと入って来る。
 そして、質問である。「ところで、岩木山って何メートルあるの。」私、「…む。1625mです。」「低いですね。」私、「…む。」(しばらく間をおいてから)「本州の北端に位置しますから、気象的な高度は北アルプスの2500m級の山に匹敵します。」「ああ、そうですか。」
 また、別な質問。「へ~、岩木山にはこれだけしか花がないんですか。100種ちょととは少ないですね。」私、周章狼狽と困惑のあまり、目を白黒させ、息も絶えだえとなり、弱々しい声で「私は470種以上確認して、写真に納めていますが…」と言う。
 そして、バス停にバスが入ると、脱兎のように会場を去るのである。このような人たちを含めて、観光客と思われる来場者は、今月の2日ごろから増え始めている。

    ☆アンケートのこと
 「ギャラリーNHK」では次のようなアンケートを作成して、展示会場の机上に、筆記具と用紙を入れる箱まで用意してくれた。

       □アンケートへのお願いです□

 ギャラリーNHKでは、夏休みの企画展として「岩木山の花々の写真とその花の随想を辿る」を開催しております。
 協力いただいた三浦章男さんは現在、当文化センター講座「津軽富士・岩木山」の企画&講師のお一人として、また長いこと「山野・路傍の花々を愛でる」講師としても活躍いただいております。
また、岩木山を考える会の事務局長としても、地域に密着された活動をしておられます。これまで撮影された「花々」を随想とともにどうぞお楽しみください。
 そしてご感想をぜひ、このアンケートにお書きいただきますようにお願いいたします。
1.お気に入りの花や写真は何でしたか

2.新しい発見はございましたでしょうか

3.岩木山を考える会や三浦さんへの応援メッセージをどうぞ

 地域住民の本会への要望をくみ上げてくれる配慮までしてくれていることは、本会に対する理解の深さであり、本当に喜ばしいことである。心から感謝したいと思う。
 すでに数名の方がこのアンケートに答えてくれている。この写真展示が終わった時点で、まとめて発表するつもりだが、その中に5歳の坊やが書いてくれたものがあったので、あまりの嬉しさに発表まで待てないので、今朝紹介することにする。
 この坊やは「シュン」ちゃんという。本会幹事で、本HPの管理人である葛西さんの息子さんである。
 本会が毎年開催している写真展「私の岩木山」で、「将来の会員」という題で、1歳の「ハイハイしている赤ちゃん」の写真が紹介されたこともある有名人なのだ。
 もう、5歳になったという。ああ、月日の経つのは本当に早い。
その上、まだ5歳だというのに驚くこと、「字」が書けるのである。しかも、ひらがなとカタカナをはっきりと区別して書けるのである。すごいことではないか。
 これだとこれだと「将来の会員」などと言わないで、「近未来の会長」と呼ぶことも出来そうではないか。何と、楽しくも微笑ましく、しかも頼もしいことだ。

  「シュン」ちゃんの回答
1.お気に入りの花や写真は何でしたか
   ・エゾアオイスミレ
2.新しい発見はございましたでしょうか
   ・きれいです
3.岩木山を考える会や三浦さんへの応援メッセージをどうぞ
   ・5さいになりました    かさいしゅんじ

 (危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」シリーズは明日続きを書く。)

「岩木山の花々」写真展で・自然とは「自給自足して完結する体系」

2007-08-05 05:49:41 | Weblog
☆「NHKギャラリー・岩木山の花々」写真展…でのこと
 △ 出版依頼のこと:
 毎日、何名かの方々から「これ(展示してある写真とそれに対する随筆的な文章)を本にしないのですか。」という意味のことを言われるし、訊かれる。
 昨日は多かった。午前中2時間の間に3名、午後の3時間に2名である。私は10時から午後3時まで、ギャラリーに常駐している。しかし、心理的に妙な圧迫感があって疲れるので、早めに帰宅することにしているのだ。
 自分の下手くそな写真と文章が、自分のいる前で「他人」さまに見られ読まれるということは、すごい緊張を伴うもので、私は四六時中おどおどしている。だから、出来るだけ、その時間を短くしたいと思っているのである。私が帰宅した後の2時間はNHKギャラリーの担当者が常駐している。
 私のいない2時間にも結構来ているらしく「芳名帳」記名数は、翌日確認すると多くなっている。これを勘案すると「出版してほしい」という要望はかなりあるように思える。
 要は誰でも購入出来るという「手頃」な値段である。カラー写真枚数300枚(種)、写真のない「索引」記載のもの170種、合計470種に及ぶ「岩木山の花々」、それに300種には文章が付く。かなり分厚くなり、写真も多いので一冊の単価が高くなるのである。「手頃な値段」に拘っているので、先に進まない。でも、決心するべきだろう。今年中には出版に漕ぎつけたい。

 台風は大した被害も残さず、オホーツクの海に去った。青森県を横断したのだから、もし、97年の19号並のものだったら、「青森県は壊滅」状態だったろう。自然には逆らえない。受け入れるしかない。だから、今回の5号(台風名ウサギ)には素直に「静かに暴れずありがとう」と言っておこう。
 という訳で、昨日の18時45分台に、この写真展がNHKテレビで放映された。しっかり見た。ひょっとしたら、今日も12時10分ごろ、18時45分ごろに放映されるかも知れない。

(承前)
 危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」
    ☆自然とは「自給自足して完結する体系」、つまり生態系である

 自然とは、雪崩や土石流による剥離・崩壊、火山噴火や地震によって生み出された、その地形や地質・土地にそった形で生物が息づいていることである。それは、人間が手を下さなくても、自らの力で生まれ育ち何もしないでも、しかるべき姿になっていくものである。
 これを自然界と呼び、生態系とも呼ぶ。自然界ではあらゆる個性(生命)が同等の価値を持つ。
生態系の中には別の生態系に依存することなく「自給自足し」完結しているものもある。大きくみると、地球がそうなのである。
 地球は、他の天体や宇宙によって支えられているものではない。自給自足をしながらその歴史(45億5000万年。ただし、生態系というものが生まれてからは35億年)を培(つちか)ってきた。
 そして、その「自給自足するミニチュア地球」と喩えられるものが、「森林」なのである。
 恐ろしいことに、地球も森林も、内部で破壊がおこれば修復が不可能なのである。しかも、森林の破壊が地球の内部破壊のひとつとなっている。つまり、森林の破壊は絶望的な地球の破滅へとつながっていく。
 現在、アラスカの森林地帯で大規模な山火事が発生している。それは非常に広範で、ある場所では「四国」の面積に該当するという。そのような山火事がアラスカ全土で頻発しているのだ。その原因と理由であるが地元の学者たちの見解では、「地球温暖化のため、森林帯の地表を覆う苔が枯れて乾燥していること」だそうだ。つまり、乾燥した苔が、火打ち石の「ぼくち(火口)」の役割をし、落雷が「火打ち石」の役割をして山火事を、連続的に発生させているのである。
 一見、人工的な山火事ではないように思えるが、「温暖化」自体、人間の営為にその原因がある以上、このアラスカの森林火災も人工的なものである。これも、「絶望的な地球の破滅」への一里塚であるかも知れない。
 「森林」は空気中の酸素を21パーセント以上にならないようにコントロールしているのだそうで、21パーセントを越えると森林火災が広範囲に発生して、森林が滅亡する。
 その時は酸素が少なくなり、バクテリア以外の生命体は死滅する。人は5分間酸素を吸わなければ死ぬという弱い生命体なのだ。

 「生態系」とは物質の動きから「入力」と「出力」、「物質の変化」と「貯蔵」に分けて考えられる。前者は気象的・地学的・生物的・人間的なものであり、後者は合成と分解とストックを繰り返す。
 生態系の中には入出力をほとんど欠くものがある。これが森林である。雨、雪として外部からの入力は7%でいい。仮になくても枯渇することはない。
 ところで、生態系の型は大別すると次のようになる。
1.自給自足的なサイクル型-この代表が森林である。
 人間の介入はシステムの自律性を損ない、連鎖を断ち切り、破壊という結果をもたらす。
2.入出力というハンドを持った他律型のシステム- 河口湿地や河川である。
 これらは外力に変更を加えると別な生態系に変わってしまう。
                              (この稿続く。)

「岩木山の花々」NHK(テレビ)が取材、本日放映・人と森… 地球の歴史の中で人は何をしてきたか…

2007-08-04 03:51:15 | Weblog
   ☆「NHKギャラリー・岩木山の花々」写真展…NHK(テレビ)が取材

 今日の開始時間に、取材クルーはすでに来ていた。開口一番「放映予定の本日正午少し前と18時からのローカル番組では、未定となってしまった。」と言う。私はそれを覚悟していた。台風5号には勝てない。自然現象には勝てないのである。台風被害は、または台風情報はニュース性が大きく強い。それを優先させることは当然である。
 それに引き替え、「岩木山の花」などはニュース性に欠ける。「ボツ」にされてもしようがないと、昨日以来の台風関連ニュースを見て思っていた。
 ところが、「土曜日か日曜日」には必ず、放映します。」というのである。まずは、ほっとした。
 ニュースの原稿文も読ませてもらった。写真は「ずぶの素人」であることを「強調」したい意向のようで、そのような私として「紹介」してあった。私は撮ろうなどと考えないし、ただ、そこにあるがままに写っていることを願って撮っている。全くの「素人」だ。これも嬉しいことである。
 それにしても、念入りな取材だった。放映時間がほんの「数分」だというのに1時間近くかけて、いろいろな角度で、展示写真を撮影したり、来場者とコンタクトをとったり、来場者に私が説明をしている場面を撮影したりというわけである。
 実は1日に、すでに私とのインタビューは終えていたのである。その時間を入れると、ほんの「数分」の放映といえどもずいぶんと時間をかけるものだなあと感心してしまった。
 とろで、昨日の18時ごろにNHKの担当者から電話があった。「台風がそれほど大したことがなさそうですから、明日(今日のこと)の12時10分ごろと18時45分ごろに放送します。」ということだった。

 今日で始めてから5日目だ。だが、来場者の数は今一である。前回の「厳冬の岩木山」の時よりも、はるかに少ない。放映されると少しは「宣伝」にはなるのだろうか。期待しよう。
 ところで、この「ねぷた祭り」期間中、観光客として弘前にやって来る人は「年々」減少しているのだそうだ。
 ねぷた祭り初日の、桜大通りに設けられている「桟敷席」はガラガラだったそうだ。ひと頃は、この桟敷席の奪い合いが起きるほどの「満席」状態が続いたそうで、それがねぷた祭り期間中に弘前を訪れる観光客数の指標になっていたそうである。しかし、近年は「満席」にはほど遠い状態で推移し、今年に至っては「ガラガラ」状態となったというのである。
 行政は弘前公園の扱い方にしろ、「ねぷた祭り」の集客方法にしろ、もっと工夫をしなければいけない。基本的な目的と主題を明確にして、各催しごとのヴァリエーションとコンビネーションをしっかりととらえ直さなければいけない。これが、ヒントだ。

(承前)
 危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」
     ☆人と森… 地球の歴史と人、人は何をしてきたか…。

 人は地球のエネルギーを使い果たそうとしている。長い人類の歴史の中で、現在世代を含めた僅か数百年に生きていた世代が、地球に生態系が誕生して、35億年かけて蓄積した太陽エネルギーの化石である石油・石炭を使い切ってしまうのである。
未来世代には、化石エネルギーの恩恵はなく、「現在の繁栄」は皮肉にも「未来の窮乏」となる。
 現在世代が欲張り、進歩や成長だけを求めれば、求めるほど「未来はますます貧しくなる」のだ。

 人という動物がこの地上に発生したのは地質時代の第四紀である。
その時すでに、ずっと前の白亜紀から被子植物時代が始まり、第三紀には被子植物の繁栄を迎えていた。ブナやカエデなどの植物は現在と同じ形態で、すでに、その営為をしていたのだ。人以外の動物も、ちょうど哺乳類の繁栄期にあってほぼ同じだったのである。
今、地球誕生からの「45億5000万年」を「1年」に短縮して、地球と生物の歴史を見てみよう。
まず、ゼンマイやイチョウの仲間の裸子植物やブロントザウルスなど恐竜であるは虫類の繁栄が一年最後の12月、その17日である。10日後の27日が、ブナやカエデなどの被子植物とオオツノジカやマンモスなどのほ乳類の繁栄である。
 そして、原人(人の祖先)の出現が12月31日の23時である。1年の最後の「残り1時間」という頃である。このように、人は「すべての生態系が完成した時期に出現した」のである。このことは、「人は生態系の一部であり、生態系なしでは生存が出来ない」存在であることをもの語っているものなのである。
 そして、今現在が、31日の23時59分にあたる。ということは、58分から59分の「1分間にも満たない瞬時」に、地球が「45億5000万年」をかけて蓄積した太陽エネルギーの化石燃料を現在世代の私たちがを使い切ることになるのである。
 だが、それでも足りずに森林を破壊し、大気を汚染し、地球そのものを存亡の危機に追い込んでいる。このような現状を造りだしておいて、「未来世代の幸せのために」とか「美しい国」などとどうして言えよう。
                       (この稿続く)

鑑賞には「魂の孤立化」と「自照行為」が必要・森と人との関係…「人」とは何か

2007-08-03 05:19:24 | Weblog
   ☆「NHKギャラリー・岩木山の花々」写真展で感じたこと…
    鑑賞には、「魂の孤立化」と「自照行為」が必要だろう

 一昨日も昨日も出会(でくわ)した。恐らく今日も出会すだろう。どうして黙って写真を見て、貼付された文章を読めないのだろう。会場にやって来る女性の集団(大だろうが小だろうが)はだいたいが姦(かしま)しい。
 まさに、「女三人寄れば姦しい」を地でいく。本当に、かまびすしくもやかましい。内心「あなかしまし。ものな言ひそ。」と言いたいのだが、あきれ果てて、じっとあきらめ的なガマンをしている。
 何も文章まで、読んでほしいとは言わない。せめて、沈黙の中で、つまり、自己沈潜の中で、対象である写真を見てほしいものだ。
 ものを見るとは、見られる対象と見る主体者の「一対一」的な「真剣勝負」ではないかと考える。周囲の夾雑物的な物事をすべて消去して、対象に没入した上で、さらに対象から距離を置いて客観視することで、本当の理解なり、評価が出来るのではないかと考えるからだ。おしゃべりをしながら見るのであれば、それは出来ない。自照という行為に欠けるからである。
 その内容は、だいたいが自分の体験談であり、自慢話である。時には「携帯電話」でしゃべり出す者までいる。この手合いは何もこの「NHKギャラリー」だけで見かけるものではない。
 美術館や博物館、または、各種資料館などでも必ずいる。だが、そのようなところには、「警備」関係者がいて注意するので、声高と多人数ではなくなる。
 ところが、本会場にはそれがいないので、「ところかまわず」である。年齢だって若くはない。いわゆる「いい年をしたおばさん連中」である。けじめや慎みという日本人としての美徳を身につけているだろうと考えられる人たちである。子供の母親をしっかりとしてきた人たちであろう。ふと、ますます別なことが不安になった。その子供たちはどんな大人になっているのだろう。
 まずは、物理的に「集団」を組まねばいいだろう。「一人」になることだ。そうするときっと、「慎み」が取り戻され、「時・所・位」をわきまえることが可能になるだろう。私は基本的に、一人で物事が出来ない人を信じないことにしている。

  (承前)
 ☆森と人…「人」とは何か。

 自己認識のないところに客観的な理解はない。その客観的な理解を得るために「人と森の関係」における「人についての自己認識」を深めるための「人」とは何かについて考えてみたい。
 森は変化を望まないのだが、「人」が一方的に自分の都合で、森に「変化」を押しつけてきたという歴史的な事実に立って、先ず、このような私たち「人」とはどのようなものであるのかについて考え、自己認識を改めてもらいたい。

① 人はサルと同じ「物質系の動物であり、自然」でありながら、自然の操縦者としての「人間」である。また、同時に、人(ヒト)は人間によって制御されるという二面性を持った生き物である。
② 生態系と食物連鎖からみると、人間は生産者ではない。
 徹底的に光合成をする植物(生産者)が作った有機物を消費する消費者である。また同類の消費者である肉食や草食動物をも食べる「消費者」である。
③ 人(ヒト)は人(ヒト)以外を「被支配者を自然物」とみなす支配者である。時にはヒト・人間をも支配する。
④ 人(ヒト)の本性は「易(やす)きにつく」ことであり、衣食住を含むすべての面に渡って、その生活を便利にすることを考えてきた。便利にすることとは、楽をするということである。人が作り出して享受してきた文明とは「便利にすること、手間を省くこと、合理化の体系」そのものである。

 人は脳を発達(進化)させ、道具を使い、自然との「共生の世界」から脱却する方向に進んできた。逆を言えば、自然に適応することを拒否してきた。つまり「生態系に自分を組み込む」ことである「身体的な進化」を捨てたのである。よって、自然の「激変」は言うに及ばず「軽微な変異」に対しても、その「身体的、生理的な面や機能」は非常に弱く、太刀打ちできない。
 しかし、すでに、始まっている「温暖化」等の「変異」に対しても「他人事」であり、まるで数光年かなたの出来事のような感覚でいる。それほどに、みんなが頼りとする「文明」は万能ではないということに気づき、文明からの「距離」を置かねばならない。
 人は自然との共生と調和から遊離した存在になっていき、人間となったのである。
 これは自然からの制約を排除して、自然を収奪の対象としたことを意味する。それは二足歩行の時に始まったのであり、ここで、他の動植物との共生への道は絶たれた。
 つまり、狩猟採集→収奪・農耕牧畜→制御・多頭飼育→ブロイラー化(ニワトリなど一羽しか住めない不自由なケージの中で餌を与え、卵を産ませるだけ産ませるか、肉用に飼育する方法。)という流れと、多種多面的な技術化などで、人以外の生物体は、人と共生する対象から離れてしまうことになったのである。

 基本的に、先に述べた①~④の流れは現在も変わらず、ますます強力で激しくなっている。
 家畜や栽培植物、それに今盛んに喧伝されているバイオテクノロジー(生命の科学技術・品種改良や食品製造に応用する生物工学・地球上にこれまで存在していなかった生命まで製造が可能である。)でつくられた生物は、人間の意図、個々人の欲求充足を目的に恣意(しい)(自分勝手)的に造られたものである。だから、これらは「人工生物」と言えるものであって「自然」ではない。
 クローン(生物体のコピーと考えればいい)技術による生物体も同じである。これは人間の欲望の具現物である。
 したがって、これらの生物に課せられた目的は人間の欲望によって容易に別の目的に転換できる。だから、自分のために戦う「兵士」などの量産も可能となる。
                          (この稿続く)

森は変化を求めない…

2007-08-02 04:25:42 | Weblog
 ☆NHKギャラリー「岩木山の花々」写真展のこと

 昨日、陸奥新報が取材に来た。今日の紙面に掲載されているかも知れない。一昨日会場を訪れた方が「これだと単なる写真展でなく〈テーマを持った資料展示館〉のようですね。」と言ってくれたことを、伝えた。
 これはただ、単に「岩木山の花」の写真を展示しているのではなく、写真の下に「科名・属名」「花を象徴化したキャプション」「花の生育場所、出会い時の感動や季節感、逸話、その花のを取り巻く他の草花の情景、気象」などについて書かれたB5版横書き紙を貼付していることと展示枚数が多く、花の種類も多いということをさしている。その辺りをうまく記事にしてくれるといいのだが、果たしてどうだろう。

 次に、そのサンプルを掲げる。

花名: カキラン(柿蘭) 科名属名: ラン科カキラン属の多年草
 象徴化したキャプション: 静かな風情と幻覚的な色調、橙黄色の左右相称花
その他本文として:
草々をかき分け足許に注意しながら、萢の中央へと進みはじめた時だ。ふと、橙黄色の点々が足許でまばらに光り、周りの草葉を淡い橙色に同化させている場所に出た。風に草頂は揺れるが、この点々だけは茎上に互生する狭い卵形の葉を従えたまま、動くでもなく無言で静かだった。
 背を屈め、腰を低くしてそれらの一点に向き合う。静かな風情を漂わせている割にはなんという動的でサイケデリックな色彩、色調、カキランの花だ。
 茎の上部に横向けに開いた橙黄色の左右相称花は白色の唇弁を持ち、それには紅紫色の斑点まであるという念の入れようだ。背を起こした私を風がまたひとしきり掠めて吹き去った。
(承前)
 ☆森は変化を求めない…

 森は変化を求めない。いつも今ある状態を保とうするし、何か手が加えるられると、その時から過去に戻ろうとする。
 ブナの森が伐られると、そこは十数年後にはタムシバの咲く森に変わるが、その後、気が遠くなるような年月をかけて、「ひこばえ」(切り株から枝を出して成長していくもの。)や「実生(みしょう)」(種から芽をだして成長していくもの。)が生育して、ブナの森に変わるのである。だが、これも地球が正常な「生態系」を維持していればの話しであって現状では、森は「過去」へすら戻れなくなっている。
 ところで、人はどうだろう。
 人という時、後でも述べるが、縄文人と現在世代である私たちとは「生物的」に「DNA」から見ても同じで、性向と形質には大差がなく、縄文人と現代人の間には変化はないと言える。
 ところで、縄文時代の「人間」と現代の「人間」は同じかとなると、そうではない。人は、人間という社会性を帯びたその時から、「生存の条件を変えながら生きていくこと」に専念し始めた。
 人間は直線的な、しかも時間の推移とともにy軸の値が高くなるような生活を追い求めるようになった。つまり、「人という生物的な特性を変えないで、自分たちを取り巻いている環境を自分たちのより良い都合に適合(変化)」させてここまできたのである。
 ところが、森はy軸に高さのないx軸上を行き来するという、まるで水平線や地平線のような高さも低さもない一定の循環の中で生きることをやめなかった。
 つまり、変化を求めないのである。この一つの円をぐるりぐるりと巡(めぐ)ることが森の生き方なのである。
 円を巡るがその円は決して螺旋(らせん)(巻き貝の殻のようにぐるぐる回りながら次第に上がっていくもの。)にはならない。螺旋とは一巡りすると一段高いところに位置するという性質があるから、一見変化がないように見えても、確実に変化はある。これは都合に合わせてより良いものを、より高いものを変化として求める人間に好まれる。

 北海道のエゾマツは倒れた親木の幹や根を苗床にし、しかも、それらから栄養分をもらって成長する。これを「エゾマツの更新」というのだそうだ。自然はこのようにして自分の生命を確実に未来世代につないでいく。
現在生きている私たちは、もちろん現在世代である。
 森は今年と同じ春を来年も迎えるという循環的なめぐりの中で変化しないものである以上、現在世代である人が何か手を加えない限りは、森の未来世代は決して自己崩壊はしない。
 私たち人間も今年と同じ春を来年に迎えたいと思うならば「今年の春」に手を加えないことだ。自然に対しては「進取の気質・気風」は必要ではない。徹底した「保守の大道」を歩いていい。

 ところで、「森」とは何だろうと考える時には、「人と森との関係」に触れないわけにはいかないだろう。だが、その前に、「森という生態系を常に脅(おびや)かしてきた人」とは何であるのかという視点から、少し論じてみたい。ここで断っておくが、この文章を読み続ける意志がおありの方は、次のことをしっかりと「インプット」してから、十分に時間をかけて考えてほしいということである。

『核のゴミを残すことにはじまり、大量廃棄からの無機質ゴミ。森林伐採と自動車の排気ガスや工場からの二酸化炭素の排出。それらが原因となっている酸素不足や温暖化。フロンガスによるオゾン層の破壊、原子力発電所から出た核のゴミなどを、このままにして未来世代に残していくこと』…
 それは、「未来世代」に対して、「時限装置の付いた爆発物を贈り、どうぞ自由に始末してください。」ということであり、「ピストルを突きつけて、手を上げないと撃ちますが、あなたに上げる上げないの自由はあります。」と言っていることに等しいことである。
                          (この稿続く)