☆NHKギャラリー「岩木山の花々」写真展のこと
昨日、陸奥新報が取材に来た。今日の紙面に掲載されているかも知れない。一昨日会場を訪れた方が「これだと単なる写真展でなく〈テーマを持った資料展示館〉のようですね。」と言ってくれたことを、伝えた。
これはただ、単に「岩木山の花」の写真を展示しているのではなく、写真の下に「科名・属名」「花を象徴化したキャプション」「花の生育場所、出会い時の感動や季節感、逸話、その花のを取り巻く他の草花の情景、気象」などについて書かれたB5版横書き紙を貼付していることと展示枚数が多く、花の種類も多いということをさしている。その辺りをうまく記事にしてくれるといいのだが、果たしてどうだろう。
次に、そのサンプルを掲げる。
花名: カキラン(柿蘭) 科名属名: ラン科カキラン属の多年草
象徴化したキャプション: 静かな風情と幻覚的な色調、橙黄色の左右相称花
その他本文として:
草々をかき分け足許に注意しながら、萢の中央へと進みはじめた時だ。ふと、橙黄色の点々が足許でまばらに光り、周りの草葉を淡い橙色に同化させている場所に出た。風に草頂は揺れるが、この点々だけは茎上に互生する狭い卵形の葉を従えたまま、動くでもなく無言で静かだった。
背を屈め、腰を低くしてそれらの一点に向き合う。静かな風情を漂わせている割にはなんという動的でサイケデリックな色彩、色調、カキランの花だ。
茎の上部に横向けに開いた橙黄色の左右相称花は白色の唇弁を持ち、それには紅紫色の斑点まであるという念の入れようだ。背を起こした私を風がまたひとしきり掠めて吹き去った。
(承前)
☆森は変化を求めない…
森は変化を求めない。いつも今ある状態を保とうするし、何か手が加えるられると、その時から過去に戻ろうとする。
ブナの森が伐られると、そこは十数年後にはタムシバの咲く森に変わるが、その後、気が遠くなるような年月をかけて、「ひこばえ」(切り株から枝を出して成長していくもの。)や「実生(みしょう)」(種から芽をだして成長していくもの。)が生育して、ブナの森に変わるのである。だが、これも地球が正常な「生態系」を維持していればの話しであって現状では、森は「過去」へすら戻れなくなっている。
ところで、人はどうだろう。
人という時、後でも述べるが、縄文人と現在世代である私たちとは「生物的」に「DNA」から見ても同じで、性向と形質には大差がなく、縄文人と現代人の間には変化はないと言える。
ところで、縄文時代の「人間」と現代の「人間」は同じかとなると、そうではない。人は、人間という社会性を帯びたその時から、「生存の条件を変えながら生きていくこと」に専念し始めた。
人間は直線的な、しかも時間の推移とともにy軸の値が高くなるような生活を追い求めるようになった。つまり、「人という生物的な特性を変えないで、自分たちを取り巻いている環境を自分たちのより良い都合に適合(変化)」させてここまできたのである。
ところが、森はy軸に高さのないx軸上を行き来するという、まるで水平線や地平線のような高さも低さもない一定の循環の中で生きることをやめなかった。
つまり、変化を求めないのである。この一つの円をぐるりぐるりと巡(めぐ)ることが森の生き方なのである。
円を巡るがその円は決して螺旋(らせん)(巻き貝の殻のようにぐるぐる回りながら次第に上がっていくもの。)にはならない。螺旋とは一巡りすると一段高いところに位置するという性質があるから、一見変化がないように見えても、確実に変化はある。これは都合に合わせてより良いものを、より高いものを変化として求める人間に好まれる。
北海道のエゾマツは倒れた親木の幹や根を苗床にし、しかも、それらから栄養分をもらって成長する。これを「エゾマツの更新」というのだそうだ。自然はこのようにして自分の生命を確実に未来世代につないでいく。
現在生きている私たちは、もちろん現在世代である。
森は今年と同じ春を来年も迎えるという循環的なめぐりの中で変化しないものである以上、現在世代である人が何か手を加えない限りは、森の未来世代は決して自己崩壊はしない。
私たち人間も今年と同じ春を来年に迎えたいと思うならば「今年の春」に手を加えないことだ。自然に対しては「進取の気質・気風」は必要ではない。徹底した「保守の大道」を歩いていい。
ところで、「森」とは何だろうと考える時には、「人と森との関係」に触れないわけにはいかないだろう。だが、その前に、「森という生態系を常に脅(おびや)かしてきた人」とは何であるのかという視点から、少し論じてみたい。ここで断っておくが、この文章を読み続ける意志がおありの方は、次のことをしっかりと「インプット」してから、十分に時間をかけて考えてほしいということである。
『核のゴミを残すことにはじまり、大量廃棄からの無機質ゴミ。森林伐採と自動車の排気ガスや工場からの二酸化炭素の排出。それらが原因となっている酸素不足や温暖化。フロンガスによるオゾン層の破壊、原子力発電所から出た核のゴミなどを、このままにして未来世代に残していくこと』…
それは、「未来世代」に対して、「時限装置の付いた爆発物を贈り、どうぞ自由に始末してください。」ということであり、「ピストルを突きつけて、手を上げないと撃ちますが、あなたに上げる上げないの自由はあります。」と言っていることに等しいことである。
(この稿続く)
昨日、陸奥新報が取材に来た。今日の紙面に掲載されているかも知れない。一昨日会場を訪れた方が「これだと単なる写真展でなく〈テーマを持った資料展示館〉のようですね。」と言ってくれたことを、伝えた。
これはただ、単に「岩木山の花」の写真を展示しているのではなく、写真の下に「科名・属名」「花を象徴化したキャプション」「花の生育場所、出会い時の感動や季節感、逸話、その花のを取り巻く他の草花の情景、気象」などについて書かれたB5版横書き紙を貼付していることと展示枚数が多く、花の種類も多いということをさしている。その辺りをうまく記事にしてくれるといいのだが、果たしてどうだろう。
次に、そのサンプルを掲げる。
花名: カキラン(柿蘭) 科名属名: ラン科カキラン属の多年草
象徴化したキャプション: 静かな風情と幻覚的な色調、橙黄色の左右相称花
その他本文として:
草々をかき分け足許に注意しながら、萢の中央へと進みはじめた時だ。ふと、橙黄色の点々が足許でまばらに光り、周りの草葉を淡い橙色に同化させている場所に出た。風に草頂は揺れるが、この点々だけは茎上に互生する狭い卵形の葉を従えたまま、動くでもなく無言で静かだった。
背を屈め、腰を低くしてそれらの一点に向き合う。静かな風情を漂わせている割にはなんという動的でサイケデリックな色彩、色調、カキランの花だ。
茎の上部に横向けに開いた橙黄色の左右相称花は白色の唇弁を持ち、それには紅紫色の斑点まであるという念の入れようだ。背を起こした私を風がまたひとしきり掠めて吹き去った。
(承前)
☆森は変化を求めない…
森は変化を求めない。いつも今ある状態を保とうするし、何か手が加えるられると、その時から過去に戻ろうとする。
ブナの森が伐られると、そこは十数年後にはタムシバの咲く森に変わるが、その後、気が遠くなるような年月をかけて、「ひこばえ」(切り株から枝を出して成長していくもの。)や「実生(みしょう)」(種から芽をだして成長していくもの。)が生育して、ブナの森に変わるのである。だが、これも地球が正常な「生態系」を維持していればの話しであって現状では、森は「過去」へすら戻れなくなっている。
ところで、人はどうだろう。
人という時、後でも述べるが、縄文人と現在世代である私たちとは「生物的」に「DNA」から見ても同じで、性向と形質には大差がなく、縄文人と現代人の間には変化はないと言える。
ところで、縄文時代の「人間」と現代の「人間」は同じかとなると、そうではない。人は、人間という社会性を帯びたその時から、「生存の条件を変えながら生きていくこと」に専念し始めた。
人間は直線的な、しかも時間の推移とともにy軸の値が高くなるような生活を追い求めるようになった。つまり、「人という生物的な特性を変えないで、自分たちを取り巻いている環境を自分たちのより良い都合に適合(変化)」させてここまできたのである。
ところが、森はy軸に高さのないx軸上を行き来するという、まるで水平線や地平線のような高さも低さもない一定の循環の中で生きることをやめなかった。
つまり、変化を求めないのである。この一つの円をぐるりぐるりと巡(めぐ)ることが森の生き方なのである。
円を巡るがその円は決して螺旋(らせん)(巻き貝の殻のようにぐるぐる回りながら次第に上がっていくもの。)にはならない。螺旋とは一巡りすると一段高いところに位置するという性質があるから、一見変化がないように見えても、確実に変化はある。これは都合に合わせてより良いものを、より高いものを変化として求める人間に好まれる。
北海道のエゾマツは倒れた親木の幹や根を苗床にし、しかも、それらから栄養分をもらって成長する。これを「エゾマツの更新」というのだそうだ。自然はこのようにして自分の生命を確実に未来世代につないでいく。
現在生きている私たちは、もちろん現在世代である。
森は今年と同じ春を来年も迎えるという循環的なめぐりの中で変化しないものである以上、現在世代である人が何か手を加えない限りは、森の未来世代は決して自己崩壊はしない。
私たち人間も今年と同じ春を来年に迎えたいと思うならば「今年の春」に手を加えないことだ。自然に対しては「進取の気質・気風」は必要ではない。徹底した「保守の大道」を歩いていい。
ところで、「森」とは何だろうと考える時には、「人と森との関係」に触れないわけにはいかないだろう。だが、その前に、「森という生態系を常に脅(おびや)かしてきた人」とは何であるのかという視点から、少し論じてみたい。ここで断っておくが、この文章を読み続ける意志がおありの方は、次のことをしっかりと「インプット」してから、十分に時間をかけて考えてほしいということである。
『核のゴミを残すことにはじまり、大量廃棄からの無機質ゴミ。森林伐採と自動車の排気ガスや工場からの二酸化炭素の排出。それらが原因となっている酸素不足や温暖化。フロンガスによるオゾン層の破壊、原子力発電所から出た核のゴミなどを、このままにして未来世代に残していくこと』…
それは、「未来世代」に対して、「時限装置の付いた爆発物を贈り、どうぞ自由に始末してください。」ということであり、「ピストルを突きつけて、手を上げないと撃ちますが、あなたに上げる上げないの自由はあります。」と言っていることに等しいことである。
(この稿続く)