10年にはならないだろうが、それくらい前に西丸震哉が、「滅びの大予言・後戻りのきかない滅亡の台本」の中で「長くて、あと40年そして終局に至る。…危険を感知できない生物は淘汰されるというが…」と述べている。
「危険を感知できない生物」とはもちろん、私たち「人」のことである。
杞憂という言葉がある。昔、中国の杞の国の人たちが天が落ちてくるのではないかと憂え(心配し)たという故事から出た成語である。結局、天は落ちてこなくて事なきを得たので、「取り越し苦労」のことを杞憂という。
21世紀の早い時期にこの地球上の人たち、とりわけ先進国やそれに次ぐ「先進国を標榜している国」に住む人たちが、今の生活から「価値の転換」を図らなければ地球という自給自足システムの生態系は確実に破壊され、自給自足であるがゆえに修復が不可能で地球は滅ぶのである。
現状維持すら許されないところまで、私たちは地球という「生態系」を追いつめてしまっている。
本当に、このことが杞憂であればそれに越したことはない。
だが、実際に山を歩き、森林の伐採に出会ったり、高山性の花や植物が、登ってきた「暖気の里植物」に駆逐され、しかも最近は、そのスピードが「ファーストフード」好みの人間の目でさえ「速い」と意識されるようになってきている。
また、視覚メディアを通して大気汚染や炭酸ガスの増加、温暖化の事実、核エネルギー汚染と核のゴミなどのことが気になって、私はこれまでに、これらを主題にした本を100冊以上読んだし、今も読んでいるのだが、その結果、私は「このままでは滅ぶということ」を信じないわけにはいかなくなってきている。
通行人的な、すなわち「一過性」の登山者や登山客には、山岳自然の「滅びに向かう姿」は見えない。年月をかけて、同一場所の連続した観察があると、その「滅びに向かう姿」ははっきりと見えてくる。
昨日から始まったNHK弘前支局「ギャラリーNHK」企画写真展・岩木山の花々に展示されている写真はほぼ20年かけて撮ったものである。そこには、この「滅びに向かう姿」を暗示している植物も登場している。
写真を見て、それに関した文章を読むことで、「危険を感知できない生物」からの脱却が可能かも知れない。「淘汰されない」ために、是非会場に足を運んでもらいたいものだ。
ということで、まあ、この写真展の記念にとでも言おうか、『危険を感知できない生物は淘汰される』ということについてシリーズで書いてみたい。何を大げさなことを言っているのだと思われる方も、どうかちょっとの間、だまされたと思ってこの論に付き合ってほしい。
なお「共生と共存の生態学」的見地と「環境倫理学」的見地を中心的な下地にして、この論を進めることを最初に述べておく。
「登山」以上に自然と深く関わる趣味はあるだろうか。「登山」は自然がなければ成り立たない行動であることは誰もが知っている。
しかし、壊されてしまわないうちに楽しめればいいやとか、自分が楽しむのに夢中で自然が日々壊されて、減少していることに気がつかない人もいるかも知れない。
ひたすら、「山頂」にだけ拘(こだわ)る人は、案外森を見ていないかも知れない。そのような人は「山頂は麓や山腹に支えられて存在しているものである。麓や山腹は緑によって支えられているのである。」ということを理屈抜きで認識したらいかがだろう。
その反面、私たちにこのような楽しさを与えてくれる自然を未来の人たちにも残したいと考える人は、もちろんいるだろう。
そのような人を含めたすべての登山を趣味としている人に、「森を残したいという気持ちから、実際に残して未来世代につないでいく行動を、今すぐに起こすこと」を私は提唱したいのである。
ただし、ここで取り上げることは何も「登山」という一趣味に関わることではない。私たち人間全般に今すぐに、しかも深く関わってくるということは言うまでもない。
さて、未来世代とは、人で言うと自分たちの子供であり、そのまた子供たちのこと、つまり子孫である。
科学の発展による現在の繁栄は、これまで常に「未来をバラ色」に描いてきた。だけど、ここに来て残せるものは「繁栄の残滓(ざんし:残りかす)で、危険極まりないどうしようもないもの」だけになっていることが明らかにされるようになってきた。
森は循環して生々輪廻(せいせいりんね)(絶えず活動を続け、次々と無限にくり返すこと。)だからそのまま残るとそれが未来世代となるのである。
屋久島の縄文杉は樹齢が7200年だという。単純に考えると7200年前にも既に杉が生えていて、その子孫が今ある縄文杉というわけだろう。私たちがこの樹齢7200年という杉を見ているということは7200年前と同じ景観や生物体の住む生態系を見ているのだと言えるわけである。
そして、その7200年前の杉と、今ある杉とでは形態に多少の違いはあっても取り巻く環境も質的にも何も変わっていないのである。
(この稿続く)
「危険を感知できない生物」とはもちろん、私たち「人」のことである。
杞憂という言葉がある。昔、中国の杞の国の人たちが天が落ちてくるのではないかと憂え(心配し)たという故事から出た成語である。結局、天は落ちてこなくて事なきを得たので、「取り越し苦労」のことを杞憂という。
21世紀の早い時期にこの地球上の人たち、とりわけ先進国やそれに次ぐ「先進国を標榜している国」に住む人たちが、今の生活から「価値の転換」を図らなければ地球という自給自足システムの生態系は確実に破壊され、自給自足であるがゆえに修復が不可能で地球は滅ぶのである。
現状維持すら許されないところまで、私たちは地球という「生態系」を追いつめてしまっている。
本当に、このことが杞憂であればそれに越したことはない。
だが、実際に山を歩き、森林の伐採に出会ったり、高山性の花や植物が、登ってきた「暖気の里植物」に駆逐され、しかも最近は、そのスピードが「ファーストフード」好みの人間の目でさえ「速い」と意識されるようになってきている。
また、視覚メディアを通して大気汚染や炭酸ガスの増加、温暖化の事実、核エネルギー汚染と核のゴミなどのことが気になって、私はこれまでに、これらを主題にした本を100冊以上読んだし、今も読んでいるのだが、その結果、私は「このままでは滅ぶということ」を信じないわけにはいかなくなってきている。
通行人的な、すなわち「一過性」の登山者や登山客には、山岳自然の「滅びに向かう姿」は見えない。年月をかけて、同一場所の連続した観察があると、その「滅びに向かう姿」ははっきりと見えてくる。
昨日から始まったNHK弘前支局「ギャラリーNHK」企画写真展・岩木山の花々に展示されている写真はほぼ20年かけて撮ったものである。そこには、この「滅びに向かう姿」を暗示している植物も登場している。
写真を見て、それに関した文章を読むことで、「危険を感知できない生物」からの脱却が可能かも知れない。「淘汰されない」ために、是非会場に足を運んでもらいたいものだ。
ということで、まあ、この写真展の記念にとでも言おうか、『危険を感知できない生物は淘汰される』ということについてシリーズで書いてみたい。何を大げさなことを言っているのだと思われる方も、どうかちょっとの間、だまされたと思ってこの論に付き合ってほしい。
なお「共生と共存の生態学」的見地と「環境倫理学」的見地を中心的な下地にして、この論を進めることを最初に述べておく。
「登山」以上に自然と深く関わる趣味はあるだろうか。「登山」は自然がなければ成り立たない行動であることは誰もが知っている。
しかし、壊されてしまわないうちに楽しめればいいやとか、自分が楽しむのに夢中で自然が日々壊されて、減少していることに気がつかない人もいるかも知れない。
ひたすら、「山頂」にだけ拘(こだわ)る人は、案外森を見ていないかも知れない。そのような人は「山頂は麓や山腹に支えられて存在しているものである。麓や山腹は緑によって支えられているのである。」ということを理屈抜きで認識したらいかがだろう。
その反面、私たちにこのような楽しさを与えてくれる自然を未来の人たちにも残したいと考える人は、もちろんいるだろう。
そのような人を含めたすべての登山を趣味としている人に、「森を残したいという気持ちから、実際に残して未来世代につないでいく行動を、今すぐに起こすこと」を私は提唱したいのである。
ただし、ここで取り上げることは何も「登山」という一趣味に関わることではない。私たち人間全般に今すぐに、しかも深く関わってくるということは言うまでもない。
さて、未来世代とは、人で言うと自分たちの子供であり、そのまた子供たちのこと、つまり子孫である。
科学の発展による現在の繁栄は、これまで常に「未来をバラ色」に描いてきた。だけど、ここに来て残せるものは「繁栄の残滓(ざんし:残りかす)で、危険極まりないどうしようもないもの」だけになっていることが明らかにされるようになってきた。
森は循環して生々輪廻(せいせいりんね)(絶えず活動を続け、次々と無限にくり返すこと。)だからそのまま残るとそれが未来世代となるのである。
屋久島の縄文杉は樹齢が7200年だという。単純に考えると7200年前にも既に杉が生えていて、その子孫が今ある縄文杉というわけだろう。私たちがこの樹齢7200年という杉を見ているということは7200年前と同じ景観や生物体の住む生態系を見ているのだと言えるわけである。
そして、その7200年前の杉と、今ある杉とでは形態に多少の違いはあっても取り巻く環境も質的にも何も変わっていないのである。
(この稿続く)