今朝になっても、まだ腹立たしさと悔しさとむなしさに苛まれている。
こんな心理状態なので、今朝は表題のことを書こうと決めていたのだが、「不愉快」という気持ちも加わり書くことがすごく億劫なのだ。書きたくない。書くためにはあれこれと思い出さねばならないが、そのたびに「むなしさ」だけが心を埋める。
昨日、本会会員で新人市会議員のAさんが議会で質問するというので傍聴に出かけた。質問するAさんのすべては立派だった。まず、それについて報告しよう。
質問内容や意見は本日付けの新聞を見てもらえば分かるだろうから、今朝は割愛する。
第一に、徹底して市民の立場、それも「市民の素朴な思いや疑問」に立って意見を述べたり質問をしていることだ。
第二に、話す、言う言葉が適切であり、わかりやすく、日常語を多用し、自分の言葉で語り、客観性があり、具体的である。
第三に、主張する意見も内容が正しく構成されていて、それを補足し具体性を出すための情報やデータも裏付けがあり、正当性があった。しかも、自分で調査・収集したものであった。
第四に、総じて優しさと暖かみのあるものであった。
第五に、良識と教養を彷彿させる雰囲気が漂っていた。
以上は、これまでの、どの議員の発言や言動にもあまり感じ取れないものであったことは間違いがない。
それに応じる市の幹部(部長級以上)の言動は「文書を読み上げる」姿勢に終始して、「法令や条例」からの「引用」と「年月日」の繰り返し、さらには金額等の「数字」の羅列に終始していた。
このようなことを「小学生の作文」と一般的には喩えるが、私はそうは喩えない。小学生に対して失礼だからだ。
小学生は総じて「語彙」が乏しい。だから表現が幼稚になる。しかし、それ故に、使われる「言葉」はまさに「自分の言葉」であり、生活用語なのである。
そこには、実感がある。ウソがない。無駄な修飾語はない。自分の世界で表現する。
だから、市の幹部(部長級以上)の言動を「小学生の作文」のようだと喩えることは出来ない。それでは、「小学生」以下かというとそうではない。これも小学生に失礼だろう。小学生は総じて生き生きしていて、優しい。何でも目ざとく見つけて、それに興味を示す。
近くの荒れた空き地にクローバが点在して群生している。それを見て、隣りの小学3年生のB子ちゃんは「クローバの島」と表現した。そして、その「島に上陸して幸福を探す」というのだ。
どうするのかと、しばらく見ていたら、まず一つの「群落」(島である)にしゃがみ込んでクローバの花を摘みだした。それから、次々と別の「島」に移動しては花を摘む。その花が両手で支えきれなくなった時に、A子ちゃんは座り込んで、なんの歌か知らないが小声で唄いながら「花輪」を作りだしたのである。楽しそうである。見ているこちらも引きずり込まれて、思わず笑みを浮かべる。
出来あがったらしく、A子ちゃんがその「花輪」を持って私の方にやって来た。そして言う。「これ、おじさんにあげる。」
「ありがとう。」と言って私は「花輪」を受け取った。そして、思わず涙が出そうになった。何と、その「花輪」の下端には、しっかりと「四つ葉のクローバ」が編み込まれていたのである。嬉しいではないか。有り難いではないか。小学生とはこれほどに優しく純粋無垢なのである。このことを今書きながらも、また目が潤んできた。
このような小学生をして、どうして市の幹部(部長級以上)の言動を「小学生」の作文以下だと言えるか。以下ではない。それ「以外」とすべきだろう。市の幹部(部長級以上)たちはそのような「範疇」では論じられない別枠の「生きもの」であるかのようだった。
Aさんの質問や意見に答える市の幹部(部長級以上)には「主観」がないのである。Aさんは血肉ある生身の人間であるが、答える行政側はまるで「人の仮面」をかぶっただけの「スケルトン(骸骨)」たちだった。
こんな心理状態なので、今朝は表題のことを書こうと決めていたのだが、「不愉快」という気持ちも加わり書くことがすごく億劫なのだ。書きたくない。書くためにはあれこれと思い出さねばならないが、そのたびに「むなしさ」だけが心を埋める。
昨日、本会会員で新人市会議員のAさんが議会で質問するというので傍聴に出かけた。質問するAさんのすべては立派だった。まず、それについて報告しよう。
質問内容や意見は本日付けの新聞を見てもらえば分かるだろうから、今朝は割愛する。
第一に、徹底して市民の立場、それも「市民の素朴な思いや疑問」に立って意見を述べたり質問をしていることだ。
第二に、話す、言う言葉が適切であり、わかりやすく、日常語を多用し、自分の言葉で語り、客観性があり、具体的である。
第三に、主張する意見も内容が正しく構成されていて、それを補足し具体性を出すための情報やデータも裏付けがあり、正当性があった。しかも、自分で調査・収集したものであった。
第四に、総じて優しさと暖かみのあるものであった。
第五に、良識と教養を彷彿させる雰囲気が漂っていた。
以上は、これまでの、どの議員の発言や言動にもあまり感じ取れないものであったことは間違いがない。
それに応じる市の幹部(部長級以上)の言動は「文書を読み上げる」姿勢に終始して、「法令や条例」からの「引用」と「年月日」の繰り返し、さらには金額等の「数字」の羅列に終始していた。
このようなことを「小学生の作文」と一般的には喩えるが、私はそうは喩えない。小学生に対して失礼だからだ。
小学生は総じて「語彙」が乏しい。だから表現が幼稚になる。しかし、それ故に、使われる「言葉」はまさに「自分の言葉」であり、生活用語なのである。
そこには、実感がある。ウソがない。無駄な修飾語はない。自分の世界で表現する。
だから、市の幹部(部長級以上)の言動を「小学生の作文」のようだと喩えることは出来ない。それでは、「小学生」以下かというとそうではない。これも小学生に失礼だろう。小学生は総じて生き生きしていて、優しい。何でも目ざとく見つけて、それに興味を示す。
近くの荒れた空き地にクローバが点在して群生している。それを見て、隣りの小学3年生のB子ちゃんは「クローバの島」と表現した。そして、その「島に上陸して幸福を探す」というのだ。
どうするのかと、しばらく見ていたら、まず一つの「群落」(島である)にしゃがみ込んでクローバの花を摘みだした。それから、次々と別の「島」に移動しては花を摘む。その花が両手で支えきれなくなった時に、A子ちゃんは座り込んで、なんの歌か知らないが小声で唄いながら「花輪」を作りだしたのである。楽しそうである。見ているこちらも引きずり込まれて、思わず笑みを浮かべる。
出来あがったらしく、A子ちゃんがその「花輪」を持って私の方にやって来た。そして言う。「これ、おじさんにあげる。」
「ありがとう。」と言って私は「花輪」を受け取った。そして、思わず涙が出そうになった。何と、その「花輪」の下端には、しっかりと「四つ葉のクローバ」が編み込まれていたのである。嬉しいではないか。有り難いではないか。小学生とはこれほどに優しく純粋無垢なのである。このことを今書きながらも、また目が潤んできた。
このような小学生をして、どうして市の幹部(部長級以上)の言動を「小学生」の作文以下だと言えるか。以下ではない。それ「以外」とすべきだろう。市の幹部(部長級以上)たちはそのような「範疇」では論じられない別枠の「生きもの」であるかのようだった。
Aさんの質問や意見に答える市の幹部(部長級以上)には「主観」がないのである。Aさんは血肉ある生身の人間であるが、答える行政側はまるで「人の仮面」をかぶっただけの「スケルトン(骸骨)」たちだった。