※花を写しながら考える…
今月も中旬になると岩木山では、特産種の「ミチノクコザクラ」、ミヤマキンバイなどが咲き始める。ミチノクコザクラの早咲きは先月の上旬から咲いてはいるが、例年、今月中旬から「見ごろ」になる。
ところで、撮(うつ)し手であるカメラの持ち主は花であればその「花」にだけ主眼を置いて撮影する傾向があるように思える。だからその「形状」や「色彩」のみを捉えようとして、その花の周囲や空間を含めた多くの植生・土壌・岩石・動物等を見ていない。
つまり、本気で見つめていないわけであり、対象を客観的な存在としていないのである。
カメラの視点は肉眼のそれよりも遙かに狭い。肉眼で広い範囲を見ることで同一場所に生えている種々の植物を客観的に、比較・相対的に把握出来るのである。
私たちの、対象への理解というものは、自分の総合的な経験と知識を無意識のうちに動員して範囲を絞り込み、その結果として理解、つまり花の名や木の名に行きつくのである。多くの情報の中で対象を相対的に決定しているといってもいい。
ところがカメラに頼り過ぎると、一面的な特殊な形象を追うことになり、偏(かたよ)りある限られた視点からだけ物事を把握することになり、対象を網羅(もうら)的、総合的にに捉えることは出来なくなる。
評論家、森本哲郎は「人間の本質は記憶で成り立っている」と言う。写真で記録することは、自分の脳に記録すること、つまり記憶することをカメラという機械に肩代わりさせていることでもあろう。
これはコンピュータに情報を入力・保存し「それでよし。」とする姿勢に似ている。これだと、あくまでも情報の保存であって「記憶」ではない。記憶を機械にさせることは、「人間の本質を損ねることだ。」と考えると何かそら恐ろしさを感じる。
私は「岩木山が大好きだ。」と言いながら、もしかして、カメラに頼る姿勢があったとすれば、それは「本物の岩木山」を見落としていることになるのではなかろうか。
山を遠くから眺め、その山容の美しさだけに満足している者は「見ることの横着(おうちゃく)さ」の中にいるのではないかと、拙著「おお悲し、泣くはみちのく岩木山」で批判したが、カメラに頼る姿勢が私にある以上、そこにもはっきりと、対象を見つめない横着さが存在していると言える。情けないことだ。
高山植物の写真撮影もほどほどにすべきだし、撮るのであれば、それはあくまでも「記憶の補助手段」の一つと考える時にきているような気がする。
かなりの高年者と見受けられる人たちが大型カメラを胸に提(さ)げ、三脚をザックに着け、両手にはストックを握り歩いているのを見るにつけ、彼らの姿に自分を見るような気がして、寂しい上に腹立たしい思いがあるのも事実である。
映像のみに頼ることは、テレビ文化の中で育ってきた若い世代と同じなのである。年配者は少なくとも映像の少なかった時代に育っているのだから、相対的に「ボキャブラリーが貧しい」わけではないはずだ。
思考するという領域を持たなければ成り立たない書くという表現は楽なことではない。絵を描くこともこの点では同じだろう。
だからといって記録や表現をすべて写真映像に頼るのであれば、そこには「対象を見つめないという横着さ」の他に、「楽をしたいという横着さ」までが同居していることになるのではなかろうか。
今月も中旬になると岩木山では、特産種の「ミチノクコザクラ」、ミヤマキンバイなどが咲き始める。ミチノクコザクラの早咲きは先月の上旬から咲いてはいるが、例年、今月中旬から「見ごろ」になる。
ところで、撮(うつ)し手であるカメラの持ち主は花であればその「花」にだけ主眼を置いて撮影する傾向があるように思える。だからその「形状」や「色彩」のみを捉えようとして、その花の周囲や空間を含めた多くの植生・土壌・岩石・動物等を見ていない。
つまり、本気で見つめていないわけであり、対象を客観的な存在としていないのである。
カメラの視点は肉眼のそれよりも遙かに狭い。肉眼で広い範囲を見ることで同一場所に生えている種々の植物を客観的に、比較・相対的に把握出来るのである。
私たちの、対象への理解というものは、自分の総合的な経験と知識を無意識のうちに動員して範囲を絞り込み、その結果として理解、つまり花の名や木の名に行きつくのである。多くの情報の中で対象を相対的に決定しているといってもいい。
ところがカメラに頼り過ぎると、一面的な特殊な形象を追うことになり、偏(かたよ)りある限られた視点からだけ物事を把握することになり、対象を網羅(もうら)的、総合的にに捉えることは出来なくなる。
評論家、森本哲郎は「人間の本質は記憶で成り立っている」と言う。写真で記録することは、自分の脳に記録すること、つまり記憶することをカメラという機械に肩代わりさせていることでもあろう。
これはコンピュータに情報を入力・保存し「それでよし。」とする姿勢に似ている。これだと、あくまでも情報の保存であって「記憶」ではない。記憶を機械にさせることは、「人間の本質を損ねることだ。」と考えると何かそら恐ろしさを感じる。
私は「岩木山が大好きだ。」と言いながら、もしかして、カメラに頼る姿勢があったとすれば、それは「本物の岩木山」を見落としていることになるのではなかろうか。
山を遠くから眺め、その山容の美しさだけに満足している者は「見ることの横着(おうちゃく)さ」の中にいるのではないかと、拙著「おお悲し、泣くはみちのく岩木山」で批判したが、カメラに頼る姿勢が私にある以上、そこにもはっきりと、対象を見つめない横着さが存在していると言える。情けないことだ。
高山植物の写真撮影もほどほどにすべきだし、撮るのであれば、それはあくまでも「記憶の補助手段」の一つと考える時にきているような気がする。
かなりの高年者と見受けられる人たちが大型カメラを胸に提(さ)げ、三脚をザックに着け、両手にはストックを握り歩いているのを見るにつけ、彼らの姿に自分を見るような気がして、寂しい上に腹立たしい思いがあるのも事実である。
映像のみに頼ることは、テレビ文化の中で育ってきた若い世代と同じなのである。年配者は少なくとも映像の少なかった時代に育っているのだから、相対的に「ボキャブラリーが貧しい」わけではないはずだ。
思考するという領域を持たなければ成り立たない書くという表現は楽なことではない。絵を描くこともこの点では同じだろう。
だからといって記録や表現をすべて写真映像に頼るのであれば、そこには「対象を見つめないという横着さ」の他に、「楽をしたいという横着さ」までが同居していることになるのではなかろうか。