岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

私、白神山地の核心部まで行ってきたの、すごいでしょう!(???)

2007-06-18 06:37:02 | Weblog
 ★私、白神山地の核心部まで行ってきたの、すごいでしょう!(???)★

 昨日、白神山地の「核心部」までいってきた。核心部と言っても「白神岳」ではない。当初、白神岳は「核心部」に位置づけされていなかったと思っていたが、最近の案内板には「核心部」の最外縁部に、とってつけたかのように「貼り付け」られている。誰でも登れる白神岳を無理矢理核心部に編入したのであれば、それは姑息というものである。
 誰にも会わないだろうと思っていたが、神奈川から来たという人にあった。挨拶代わりに「どうのような理由で白神山地に来たのか」という意味のことを訊いた。『「世界遺産巡り」をしている。昨年は屋久島に行った。次は知床に行く。』ということであった。つまり、そこが「世界自然遺産」だから来たのである。世界自然遺産に「登録」されている場所だから「来た」に過ぎない。
 何と言うことはない。「百名山」巡りや三十三札所巡りと同じなのだ。
救われたのは、この人は「自分の足」しかも時間をかけて「白神山地」を少なくとも「歩いて」いたことである。自然の解説も出来ないガイドにただ引きつれられて「津軽峠」から「高倉山」を経るコースを歩いたり、「暗門の滝」を覗いただけで世界遺産「白神山地」に行ってきたと満足するものたちとは、いくらかは違いがあるはずだ。ブームは人が作り出すものでなく、業界等によって巧みに操られ作り出されているものだ。  

 同じ山に継続して登っていると、山がいつまでも変わらずそこに在ることを願わずにはいられない。一方、自分の命には限りが在るのだということも自覚させられる。
 ところで、「日本百名山」登りに熱中している人にとって、その山一つ一つは単なる通過点に過ぎないのではないか。「返り見すれば」や「もう一度」という思いはなく、登ってしまえばそれで「おしまい」なのではないだろうか。と、ふと思うことがある。二年ほど前、朝日新聞のコラムでそのようなことを読んだ記憶もある。
 山がそこにいつまでも在ることを願う気持ちの底には、また登りたい、また見たい、この景観的存在を自分の精神の所産にしたい、人々みんなの自然的な共有の財産にしたいという意志がありはしないだろうか。
最近は百名山で足りず、誰かがその個人的な選択眼で指定した二百名山とか三百名山を目標にしている人も増えているという。
 多分に、登山用品業、旅行業や出版業などによって煽りたてられてはいるのだろうが、そこには厳然とした「記録」という競争の原理が働いている。

 「百山名中全て登った。」とか、「あと十五山で終わりです。」など、自慢げに話しをしている中に、それを読みとることは可能である。ところが、おもしろいことに、事は次第にエスカレートしていく。
 それは「より短い期間で全百山踏破」などだ。これをれっきとしたヒマラヤで偉業を成して、称号を手にしたはずの「プロまがい」の登山家(?)がやったりしている。場違い感や違和感を本人も周りの者も持たないところが不思議である。
 より短期間が新記録である。もし、彼が他によるそれ以上の記録樹立を望まない時、彼にとって都合のいいことは、極端な場合には、当該の山がなくなることであろう。永遠に記録保持者になれるというものだ。
そうだ、岩木山をぶっつぶせ、である。
 或いは、自分がうち立てた百山踏破記録とその達成順位に拘(こだわ)るならば、自分たちに続く同一志向者を絶ち切ればいいのである。それで永遠の自己満足は確保されるわけだ。ところが、そう簡単にはいかない。同一志向者を絶ち切ることは困難である。だから案外、その最良の策は「百名山」の消失であるかも知れない。岩木山を破壊せよ、である。
 別に百名山全部がなくならなくてもいいのである。たった一山欠けても十分だ。残された者は永久に「深田久弥の日本百名山競争」に参加は出来ても、永久に全山頂のハンターにはなれないのである。だから既に全山頂のハンターとなった人たちにとって、岩木山が岩木山でなくなることは望ましいことになるはずなのだ。
 ところで、中高年の登山ブームはまだまだ続くだろう。まるで、それは次から次へとウンカのように湧き出してくる勢いを保っている。
 なにせ若者の登山離れが進む一方で、中高年者の登山志向はますます先鋭化してきている。その上、医療を中心とした科学の発展によって彼らの全人口に対する比率は高くなっている。さらに、これまで生きてきたという強い自信もあるし、何よりも「金」がある。資金力が莫大なのだ。これを登山用品やツアー業界が狙っている。
 彼らの中には「百名山」やそれに亜流するアワードが欲しくてたまらない人たちがいる。しかも多数いる。
 競争に勝つためには金がかかる。しかし、彼らは金惜しみをしない。年齢的な負荷や体力と経験や技術不足などすら金で買おうとする。
 この金を登山に関わる業者がほっておくわけがない。彼らの要望と業者の要望は磁石のように直ぐに引き合いくっついてしまう。
 そこで声を大にして、しかも高らかに、「百名山を守れ。岩木山を守れ。岩木山を元に戻せ。」と主張するだろう。
 主張だけを聞くと、それはあたかも「自然保護」を大事にしている人のようだ。まさに有り難いことで頭に血が昇りそうである。
どちらも同じ登山という趣味を持っている人間である。恐ろしいことだ。登山という趣味の世界に「他人との競争」という原理が持ち込まれ、それが第一義的に取り扱われると、こうなるのではないか。
資本主義は競争原理で成り立つ。一方、資本主義には厳しい倫理観が求められる。この倫理観とは企業や個人の自己規制である。飽くなき願望を抑制すること、儲(もう)け過ぎずに、出来るだけ利潤を平等に分かちあうことである。この倫理観こそ「自然保護思想の発揚と自然との共存・共生」につながる。