岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「名」だけを求める行為…は空しい

2007-06-19 06:17:02 | Weblog
 ものには名前があり、その名前が「実体を確実に指し示すこと」が世のならいであろうと思っていた。しかし、日本社会では多くの面で、名前が実体を指示しないことの方が多いような気がしてならない。
 日常世界で「実体から遊離した名」に浸った生活をしていると、バスで運ばれて来て、舗装されたような遊歩道を通り、暗門の滝に行って「白神山地」に行ってきたという「満足」を持つことが出来るのだ。だがこれだと「名と実」に親しむことからはほど遠い行為に過ぎない。
 実際に私たちの日々は「実体」から乖離(かいり)した言葉で埋め尽くされている。
 政治家がよく言う「国民のみなさま」の「国民」と我々が日常的に自覚する国民意識とは明らかに離れてしまっている。多くの公共事業もその名に示す「公共」的な意味合いは削(そ)がれている。今やこの「名は実体を確実に指し示すこと」は神話に近いと言えるだろう。
 「国際協力」「海外援助」「周辺事態法」等も同じである。「周辺事態法」にあってはもっとも肝心な「周辺」とはどこを指すのか、「事態」とは何を指すのかが判然としないように、名は実体から大きく乖離している。これを乱れと言わず何を乱れるというのか。
 しかし、「名は実体を具現する」という、まさに神話的な世の「ならい」をいまだに「善良」な多くの国民は信じている。
 「公的年金」は政府管掌である。社会保険庁は厚労省の傘下にある。いわば「お上」が全責任を負う事業である。多くの人々は「お上」という名に「国民に対してすべての責任を負ってくれる」という実体を見ていた。そして、信じていた。
 ところが、社会保険庁(という言うよりは政府といった方がいいだろう。)は国民に責任を負うどころか、集めた国民の金を使い、「自己目的化」を図った。それが、一連の「箱物建設の無駄使い」である。それだけでも許し難いのだが、多くの国民はまだ「お上」という「名」を信じていた。だが、政府・社保庁はすでに「国民」から離脱した存在になっていた。国民を置きざりにして、「我田引水」勝手に「自分たちのこと」だけに「自己責任」も「組織的責任」もない行為を数十年に渡って続けてきたのである。
 この「神話的な世のならい」を信じている人々を巧みに、この「名」でもって騙すのが、コマーシャリズムと政治世界である。この傾向は次第に先鋭化し、蔓延化して事実は実体と乖離しているのだが「名と実体とはイコール」であると思いこませられて、それを信じる人々が激増している。
 これだから、「白神山地」の欠片(カケラ)的な部分を足早に通過しても「白神山地」の実体を体験し見て知ったと考える人が多くなるのも当然の話だろう。これで儲ける人がいるのである。
 
 「人は自然に守られ、その恵みによって生かされている」と考える人たちがいる。これはきわめて当然なことである。私もそのように考えている。ところが、そうに考えていながら、「自然を保護する」ということに批判的な物言いをする人がいる。「人という生きものは自然の中では、一番弱いもので自然に保護されているのに、自然を保護するなどと、思い上がりもいいところではないか。」と言い、森林伐採には無関心である。だが、一皮めくってみると、自然保護という運動をしたくないだけの方便であることが分かる。
 例えば、スキー場拡張問題にしても、傍観者的な態度をとる。拡張されると、幹の至る所にクマの爪跡を残す原生のブナの森や県内最標高にあるヒバ林などは伐採されてしまう。だが、そこを観察し伐採されることの無意味を実感しようとはしない。
 観察し、その無意味を実感し「実体」を知りたくないのだ。知ったら「拡張はするな」との声が出るだろう。ひょっとしたら、そういう声を出すことが恐ろしいのかも知れないし、反対派にはなりたくないのだろう。
 或いは、「あれほど広いスキー場を開設してしまったんだ。もう遅いよ。今さら反対したところでどうなるというのだ。」と弁解的な意味を込めて、うそぶくかも知れない。こういう人は結果として、「開発」を推進する側に与(くみ)することになる。寄らば大樹だ。

 このような態度や意見の人たちが私を「自然保護活動家」と呼ぶことがある。
多分に、先に述べた彼らの論理で、「揶揄(やゆ)と嘲笑を込めてのこと」だろう。私は「一介の登山者」である。これで十分満足しているし、「名と実」とが一致したものだと考えているから、登山者と呼ばれると嬉しい。
 ただし、「登山家」とは呼ばれたくない。ましてや、「登山客」とは絶対に呼ばれたくはない。嬉しいかな、岩木山はこれまでただの一回も、私を客扱いしてくれたことはない。
 私は山に登りたいだけである。自然保護活動家などと呼ばれてはこの上なく困る。
思うに、自然に対する畏敬があり、これまでの「自然からの恵みや自然を享受するだけの生活」に反省があるから「保護」を大切に考えるのであろう。