岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山環境保全協議会には一人参加となった

2007-06-09 06:44:21 | Weblog
 ※「岩木山環境保全協議会」定例会議参加報告の前に、

 残念ながら、岩木山環境保全協議会には私一人の参加となってしまった。
 昨日朝5時、S幹事と私の電話のやりとり(核心部分だけ)である。
「今日はどうしますか。午後から雨が降るらしいので、迎えに行きますが。」「私は12時半ごろ歩いて岩木総合支所に行きます。車での迎えは必要ありません。」
 私がなぜS幹事に「岩木山環境保全協議会」の定例会議に一緒に参加してくれることを頼んだかというと…それは次の理由からである。
 これまで協議会会議には会長といつも二人で参加していた。私は「二人」で参加すということに、より客観性を求めていたからである。
 つまり、一人で参加すると、述べる本会としての意見や見解が恣意的でなくても、証明する人がいないから報告の中で「恣意的」と受け取られかねない。本会としての意見だって私と会長では微妙な点で違う場合もある。協議は「多くの異質な意見」が出てはじめて成立するものだろう。
 それに協議内容や決まったことなども、「たった一人」という密室状態では「都合のいい」ように「作り替え」ることも可能なのである。報告の中で「都合のいいねつ造」だと疑い持つ人もいるかも知れない。発言をしなかったことも、あたかも「発言した」かのような報告でさえ「一人」参加の場合は出来るのである。
 このようなことを出来る限り「払拭」することが「客観性」ということであり、これまで、会長とはお互いに、このことを理解した上で「二人」で参加していたのである。
 私はS幹事に、一緒に「参加」してほしいとお願いした時に、まず、これまで一緒に参加していた会長が研究のため外国に行っていて不在であること、出来るだけ複数で参加することが望ましいこと、加えて、この「二人」参加の客観性と意味を話した。「はい、分かりました。」ということだったのである。
 また、S幹事は6日に明鏡欄の切り抜きを持って来てくれた。本当にありがたいことである。その時には「8日、よろしくお願いします。雨が降っていたら車に乗せて行って下さい。そうでなければ私は徒歩か自転車で行きますから。」と言った。その時も彼は「分かりました。」と言っていたのである。
 
 私は昨日、家を12時30分に出た。天気がいいので「歩いて」岩木総合支所に向かった。着いたのは13時45分である。途中、歩いている私を目ざとく見つけた岩木山パトロール隊事務局長のAさんが、わざわざ車を対岸に止めて「乗っていかないか」と誘ってくれた。これもありがたいことである。しかし、私は「歩く」ことも、その日の目的であったので、感謝しながらも断った。
 便乗することが目的であったら最初からS幹事の車で一緒に来るのである。
会場に着いたが、S幹事の姿はなかった。事前に参加者名を届けてあったので、その名簿にはS幹事の名前が刷り込まれていた。係のBさんが「Sさんは今日来ますよね。」と訊く。「はい、来ますよ。」と私は応える。
 開始予定時間になった。S幹事は姿を現さない。気にしている様子のBさんに「もう少し待って下さい。」と私は目で合図をした。5分ほど遅れて協議会は始まった。
 
 これは「ボタン」の掛け違いである。私は「二人で参加することの客観的な重要さ」を大切にしてS幹事に、同行参加をお願いした。そのことの意味も話したので理解しているものと思っていた。しかし、それは私の思いこみであったのだ。やはり、大切なことほど「理解」してもらうまで何回も話さなくてはいけないのである。S幹事には心から申し訳ないことをしたと思っている。赦してほしい。
 一方、S幹事の方は、軽く「アッシー君」(自動車に乗せて運ぶ役割)のつもりで引き受けていたのである。
 前述の「私は12時半ごろ歩いて岩木総合支所に行きます。車での迎えは必要ありません。」という一言で「一緒に行く必要はない」と考えたことは妥当なことだろう。
  
 いつも思うことだ。「組織にあっては、いろいろな違った意見が沢山あるほどいい。しかし、そこには出来るだけ主観的な要素をそぎ落とした客観性が望まれる。」のであると…。