前述したように、企業社会のジェンダーはなお健在である。ジェンダーという役割を逆手にとったかに見える対応も結局ジェンダー関係と現在の女性雇用管理システムの枠内にある。多数派ノンエリート女性たちが、仕事に総じて「後向き」であることは、経営者の期待通り、従来の「女の仕事・女の役割」にうずくまっていることである。多くの女性が一般職を選択し、「被差別者の自由」を享受することは、職場生活の全側面にみられる「結果の差別」、すなわち「正当な格差」とみなされもする巨大な性差別をもたらしているのである。[i] 小笠原祐子の記述に沿ってもう少し概観したい。仕事に「後向き」な一般職のOLたちは、性差別を逆手に取ってさまざまな抵抗行為をとる。小笠原の聞き取り調査から抜粋すると具体的には、例えば次のような行為である。例えば好きな男性に頼まれた仕事に対しては、「このようにしておけば担当の男性は喜ぶだろうな」というような、経験に基づいたプラスアルファのフォローを積極的にするが、嫌いな男性には頼まれた仕事しかしないという受身態勢をとる。わざわざ男性の足を引っ張るようなことはしないが、気がついていてもフォローしないというケースはある。相手の男性によって女性の対応が異なるのは、「そりゃ人間なのだから」当然のことである。頼みごとを断るケースもある。決められた時間外に決められた業務以外のことを行うのは、OLにとって頼み事をしてきた男性に対する好意に基づいたサービスなのである。またOLは、仕事の重要性や緊急度にかかわりなく優先順位を勝手につけたり、時には、「すみません。今、忙しいので」とか「ちょっと後で」とか言って仕事そのものをボイコットすることもある。OLがノーと言っても罰則があるわけではなく、人事考課の幅も狭い。さらにほとんどのOLが昇進を考えていないので、こわいものがないという発想になるのである。これまで繰り返し記してきたように性別役割分業が明確な日本の職場においては、男性はジョブローテーションが頻繁にある。特定の職場の細かい決まりごとや了解事項に関することはOLから次世代のOLに受け継がれていき男性は不慣れたことが多い。こうした細々とした事務作業を女性に大きく依存している日本型企業社会では、個々の男性がどのようなサポートを女性から受けることができるかは、最終的には女性がどの程度その男性を助けたいと思っているかにかかっているのである。女性に頼らないで自立している男性もいるが、「仮に自分で一から十まで自分でできる人でも、体は一つだから」女性に手伝ってもらわなければならない部分が必ずある。「女性が手となり足となって動いてくれないと困る」ことがどうしてもあるのだ。男性にとっては女性と良好な人間関係を築いておくことは、仕事を円滑に進める上で重要なことだと考えられる。男性管理職が部下の女性社員に嫌われると組織人として人を管理する能力に欠ける人間と見なされかねないのである。さらに記せば、事務に関する知識と経験に基づいて男性に対して一定の力を得る傾向は、勤続年数が短く経験の浅いOLよりも勤続年数が長く経験豊富なOLの方が強い。一般的には地位の高い者と低い者とが相対した場合、後者が前者に気を遣い、その機嫌を損なわないよう、また良い印象を与えるよう様々な注意を払うというのが常識である。しかし、上記に記したような男女の関係は、常識的な考えとは裏腹に女性が職階の高い男性を気遣うケースよりも、職階の高い男性が女性の気持ちを気遣うケースが多かった。単純事務作業に従事し、仕事の幅を大きく制限されていることがOLの立場を、公的権限を独占している筈の男性に対して強いものにした。OLは男性に比べ、組織の中で守るべき権益がそもそも少ないため、失うものはわずかしかない。そのため、上司の厳しい視線や左遷のほのめかしなど、男性社員には有効な統制手段が女性社員に通用しないのだ。圧倒的多数の男性は会社を辞めたいと思っても簡単に辞めるわけにはいかない。しかし、多くの女性は「とりあえずOLしているのであり、いざとなれば辞めればいいやと思っている」ので、ぎりぎりのところに立たされた場合には女性のほうが極端な行動をとることができてしまうのである。小笠原が引用して述べているところによれば、人類学者のタキエ・リブラは、日本の一般的な夫婦の間に見られる力と従属関係についての考察の中で、夫が身の回りの世話を妻に依存する様は、まさしく家父長制の産物であるとしても、同時にそのような夫の妻に対する完璧なまでの依存は、妻に何がしかの力を行使する余地を与えている。妻の献身が夫にとって必要不可欠なものとなればなるほど、妻は夫に対し一定の力を行使しうることになるからである。[ii] これまで小笠原の記述に沿って記してきた男性の女性に対する依存度が高い日本の職場における男女の力関係は、タキエ・リブラが述べたこのような家庭における妻と夫の力関係に似ている。
しかし、男性と対等に扱われない立場を逆手にとって自身に有利な条件を引き出そうとするOLたちの戦略は、伝統的な性別役割を正当化し、「ジェンダーの再生産」に寄与していることになる。OLたちが「被差別者の自由」を享受して、「女性にとって職場は主要な活動の場ではないというジェンダーを駆使する」[iii]ことは、OLたちにとって合理的な適応の形であった。しかし、OLが男性社員との相違を強調することは、同時に、女性はすぐ感情に流されるとか、女性は冷静な判断ができないとか、女性は仕事への取り組みが甘いなどのステレオタイプ的な女性観を強調することにもなるのである。これらは女性を男性と同等に扱わない理由としてしばしば言われることである。OLが少しでも自身の立場が有利になるよう行動すればするほど、性差別を正当化する根拠を自ら呼び込んでしまう。ジェンダーを武器に優位を形成しようとすればするほど、ジェンダーの深みに自らはまってしまうのである。しかし、OLが職場で感情をあらわにすることと、女性が生来感情的であることとは異なることを小笠原の記述に沿って再度強調したい。職場での物事の把握の仕方が男女で異なるのは、生まれつきそうなのではなく、日本型企業社会において性によって求められる役割が異なるからなのだ。男性の仕事への真剣な態度、冷静な判断力、強固な自制心などは女性に生まれつき欠損しているのではなく、職場の男性と女性はそれぞれの生活の基盤となる文化的、社会的な制約が異なるがゆえに異なる態度をとるのだ。「女の子覚え」と言う言葉を先に紹介しているが、ここでもう一度検討してみよう。多くのOLはある仕事をなぜ特定の方法で処理しなければならないのか、を学ぶ機会も与えられていなければ、積極的な動機も与えられていない。機械的に暗記するよりほか、選択肢がないのである。したがって、機械的暗記をより的確に表現するには「女の子」という性ではなく、「OL」もしくは一般職という職種に言及すべきであろう。しかし、現実には「女の子覚え」という言葉は、機械的暗記を女性という性に起因することとしている。このことによって、女性が男性のような論理的思考ではなく、機械的暗記を好むのであれば、女性には事務職がふさわしいというような思い込みがまかりとおり、職場の中の性別役割が正当化されることになる。第一章で記したが、性を職務分離の基準とすることが最も安定的であり、自然で受け入れやすい。「女の子覚え」というような言葉は、私たちがジェンダーによっていかに特定の社会関係を当たり前のこととして受け入れているかを端的に示している。性差別的企業慣行は、男性と女性に異なる働き方を要求するが、そのような男女の働き方の相違はジェンダーによって納得され、正当化されているのである。[iv]
さらに、非正社員の増加は、ジェンダー差別再生産に最も中心的な方途となりつつある。先に一般職の女性が非正社員へと誘われることは、「被差別者の自由」に生きる多数派ノンエリート女性に単純労働を担ってほしいという日本的経営システムの求めに応じていることになることを記したが、ここで熊沢の記述から、日本的経営システムが非正社員に、一般職に替わる単純事務労働者としてのニーズを求めていることを示したい。熊沢が述べているところによれば、非正社員は専門職型と一般職型の二つに類型され、一般職型が多数を占める。産労総合研究所95年秋の調べでは、約割の企業が「パートを含めた契約社員を採用しているが、うち半数の企業が専門知識をもち、勤務時間、賃金などを個別に契約するスペシャリストを採用している」。もっとも一社平均の契約社員数は40.6人、うち「専門職型」はわずか7.5人で、職種は車のデザイナー、ソフトウエア設計、市場調査、秘書、看護婦など。残りのノンスペシャリストの仕事は営業事務、配達、商品管理などであった(『朝日新聞』1995年9月6日)。 近年、事務や営業の部門では、全体としての正社員に要請される能力水準の高まりが、男性の総合職を以前よりも早期から高度な仕事に集中させ、そうでなくても勤続年数が長期化しつつある一般職の女性を、以前ならば男性が勤続の初期に遂行していたわりあいむつかしい仕事にも進出させると言う傾向も見受けられる。その結果、人手不足になった伝統的な「女の仕事」としての単純・補助作業のために、「一般労働型」の「パートや派遣」が活用されるわけである。例えば商社では、96年秋の聞き取り調査で、近年、男性営業マンは若年層も「大きな商売に夢中になって」その他のことに煩わされることをいやがるようになったという。そこで彼らの「アシスタント」を勤めるヴェテランOLがビジネス関係の予備調査や高度な書類づくりなど、「以前ならば男のものだった仕事」にも手を染め始めている。大手商社は相次いで女性一般職の新規採用を廃止する一方でやはり必要とされる「単純事務作業」のために人材派遣の活用をはかるという人事方針を打ち出したのである(『日本経済新聞』1996年1月1日及び7月26日、『朝日新聞』1996年4月19日)。[v]
女性が職場において、性別職務分離への疑いを口にすれば、上司や同僚の男性から反感を招くのみならず、同僚のOLたちからも非難されないまでも、性差別に対して女性同士が団結して抵抗できる職場環境ではない中では「特殊な人」として孤立してしまうであろうことは想像に難くない。反ジェンダーの立場に身をおいて気苦労で心を暗くするくらいなら、頑固な職場の「おじさん」たちに逆らわずに割切って「女の役割」を引受けてしまうほうが精神衛生上もよいーそう思い定める女性は、今日どれほど多いだろう。そして女性がそのように「やさしく」身を引くと男たちも「親切」になり、人間関係の緊張は一挙に解ける。ここに職場でも家庭でも「性別役割分業の上に立つそれなりの共生」が生まれるだろう。その「共生」が続くなかで、多くの女性は、ジェンダーの論理と現実に対する「妥協」、あるいは欲求を調節した上での「納得」に至るのである。このようなルートでジェンダーかされた慣行がつくる「共生」こそは、男たちが望む「大団円」なのだ。一挙に具体的な労務の世界に飛んで、今なおモデルとされる「共生」の単純な形を示せばこうなるだろう。すなわち、日本の企業社会は二つの典型的な労働者像を析出する。一方の極には、家事・育児をまぬかれ、「高度な」仕事に向かってキャリアを競争的に展開してゆく高収入の男性社員、そして他方の極には、家事・育児の一切を引き受けながら、職場では不安定な雇用保障のもとで「下位ステイタス」の労役を経過的に担う低収入の女性非正社員。この両者が相互に理解しあい、依存しあうことが、日本企業の効率的な稼動の条件であった。
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引用文献
[i] 熊沢誠『企業社会と女性労働』日本労働社会学界年報第6号、15-16頁、1995年。
[ii] 小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』116-179頁、中公新書、1998年。
[iii] 江原由美子「職場とジェンダー」『ジェンダーの社会学』82頁、放送大学教育振興会、1999年。
[iv] 小笠原、前掲書、179-180頁。
[v] 熊沢誠『能力主義と企業社会』121頁、124頁、岩波新書、1997年。