1999年7月31日から8月1日にかけて、福島県の安達太良山を歩きました。くろがね小屋というかけ流し温泉がある山小屋に一泊、夜は疲れた体に食べやすい名物のカレーをいただきました。当時参加していた山歩きのグループの8月の定例登山でした。普段は日帰りでしたが夏は山小屋に一泊して少し遠出。振り返るとこの頃、大学の通信教育が大詰めを迎えていて蔓延睡眠不足の体には無理があり夜更かしになれた体で夜は寝つくことができませんでした。人に迷惑かけながらなんとか無事に往復できました。
くろがね小屋公式サイト
https://www.tif.ne.jp/kuroganegoya/
コースタイムを振り返ってみると、
7月31日:東北新幹線やまびこMAX35号で東京駅を9時に出発⇒郡山駅⇒二本松駅からバスに40分ほど揺られて湯川渓谷へ、2時間10分ほどの行程でくろがね小屋をめざしました。
8月1日:くろがね小屋⇒安達太良山⇒鉄山⇒安達太良山⇒奥岳温泉⇒二本松駅⇒郡山駅⇒東京駅
21年前のことなんてびっくり、いつしか山歩きから遠ざかり、登山靴は劣化により底がばっくりとはがれてしまいましたが、今井道子さんの旦那さんがやっている山用品のお店で買ったすごくいいものなので張り替えればまた使えます。10月のドイツや真冬のモントリオールを訪れた時にはトランクに入れていって現地で履きました。またお世話になるときは訪れると断捨離せず、残しています。
山歩きのガイドブックが10冊ほどありましたが昨年暮れのNPOの本回収に出して全部お別れしました。頁をめくっていると間に定例登山の案内はがきや、この「あだたら高原リゾート」のパンフレットなどがはさんであり、今日まで捨てきることができませんでした。
高村光太郎の詩集『智恵子抄』で「あれが阿多多羅山、あの光のが阿武隈川・・・」と詠まれたことで有名や安達太良山。高村智恵子は今でいう統合失調症だったんですね。光太郎が気分転換にと東京の家から旅行に連れだしたらかえって悪くなってしまったというのも道理。光太郎の生涯の壮絶さに文学紀行を読んでいてうなったのはまた別の話としましょう。
どういう縁で山歩きのグループに参加していたのか振り返ってみると、30年前家を離れて、今また戻った街に
暮らし始めたわたしは、ボランティアをしたいと思い社会福祉協議会を訪ねました。そこでみつけた、娘さんがレッド症候群と診断された女性が立ち上げた、障害をもった人もそうでない人も共に生きるという理念を掲げた自助グループの、当時は人気だった一泊二日のキャンプにボランティアとして参加しました。そのキャンプにやはりボランティアとして参加していた、少しだけ年下の福祉職の女性から山歩きに行ってみないかと声をかけられたのでした。なぜこのボランティアに参加したのか、夜子どもたちが眠ったあとのミーティングの場で妹が亡くなったことをたぶんわたしは話したのでしょうね。定かな記憶ではありませんが、こういう場ならと自死だったことも話したと思います。そして誘われた山歩きのグループに初参加して、冬の石老山ハイクを楽しみました。1997年のことでした。
妹とのお別れから3年、都心近郊で知り合いは大学から東京で暮らしていた小学生時代の同級生だけ(彼女は10年前郷里に戻り免許をとって車を運転しながら暮らしています。)なにかを求めてわたしは必死だったのでしょう、若かったですね、こわいもの知らずのエネルギーがありました。今振り返るとよくこんな行動ができたものだと思います。山歩きのグループに誘ってくれた女性との縁は、ブランクありましたが細々と今も続いています。今年のお正月に会ったし、わたしがこっちに戻ってきたのでまた近いうちに会えるかな。自助グループとの縁も続いています。コロナの影響をもろに受けているそうですが、2014年頃弁護士との闘いとなってしまい、社会から孤立して日中の居場所をなくしていたとき、週に一回の電話相談受付の時に顔出させてもらっていろいろとおしゃべりしていました。
こうして振り返ってみると、自分、いろいろな出会いがあって生き長らえ、生かされているんですね。感謝・・・。
宝塚かルーヴル美術館展のことを書こうとしていましたが長い思い出話になってしまいました。
明日の朝9時ですって。きんちょう、いけなかったらわたし、終わり・・・。