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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『エリザベート』二度目の観劇(1)

2015年06月20日 22時38分13秒 | ミュージカル・舞台・映画
エリザベート:花總まり
トート:井上芳雄
フランツ:田代万里生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:剣幸
ルキーニ:山崎育三郎
少年ルドルフ:松井月杜


 2015年6月20日(土)、夜の部を観劇しました。満員御礼。8月分まで全席完売。

 希望がどこにあるのかわからなくてあれやこれや思い悩んでいることを、帝劇にいる間は忘れようと決めて、劇場に入りました。

 その前に、衣装展とパネル展をやっている日比谷シャンテを歩いていたら、八重洲ブックセンターの前で、小池先生をお見かけしました。目があったかもしれません。

初日プレビューよりさらに安定していました。
トートダンサーの空間の作り方もより躍動感と美しさが増したかなと感じました。
八人のダンサーの方々の衣装や化粧が少しずつ違うのかな。
舞台の照明が落ちている中で、トートダンサーが最初に姿を現して、霊廟の空間を作った後、ルキーニの裁判の場面となり、ハプスブルクの黄昏を生きた人々が登場。
この最初のトートダンサーたちの動く音が、演奏が始まる前の静かな舞台から聴こえるのが好きだったりします。
他にも彼らの踊る時の音が聴こえる場面はあります。
シュっていう感じでしょうか。
マントさばきも動きもみなさんていねいで美しいです。

結婚式の後の舞踏会で、一緒に踊っていたはずのフランツとシシィの相手が、いつの間にかそれぞれ相手がトートダンサーに入れ替わり、
シシィは彼らと踊りながら最後にトートの前に導かれていきます。
舞踏会で宮廷人たちとトートダンサーが入り混じって踊り歌う場面から、トートとシシィだけになる場面の流れと動きが美しいと思いました。

井上さんトートは、眼差しと表情と手の動き、指の動きでより妖しく美しく黄泉の帝王の雰囲気をかもし出されていました。
歌い方も今までの井上さんの舞台の中で一番好きな感じです。
トートって何歳ぐらいの設定なのかな。年齢がないですね。
でもあんまりオジサンでは観客が納得できませんね。
井上さんの実年齢とシシィをひたすら追いかけるトートの雰囲気とがいちばん合う頃なのかもしれません。
舞台の進行と共に、宮廷人たちの鬘に白髪が交じってくる中で、トートとルキーニは歳をとりません。

花ちゃんシシィは、宝塚の時と違って地声で歌っているので、より強く自分を貫いて生き抜こうとする女性像を感じました。
少女時代から晩年までをていねいに演じ分けられています。
声量も宝塚時代よりもずっとあります。
二幕は「私が踊る時」で、一人で歩いてゆけるとトートとはりあう強い感じから、ルドルフの死を経て、「夜のボート」でフランツとすれ違い、耐えがたい孤独の中で、トートを待ちながら生きている場面まで、怒涛のように大きく進んでいきますが、シシィの移ろいがより伝わってきました。

田代さんフランツの老いてからの歌と演技も秀逸。
トートに身内が次々と亡くなっていく悪夢をみせられる時の、あらがえない運命にもてあそばれる孤独の中でも、シシィへの変わらない思い、深い愛情を持ち続けている感じが、よくフランツを体現されています。

剣さんゾフィの存在感はさすがというべきでしょうか。
名前はずっと以前から知っているのに舞台で拝見するのは初めてだと思います。
晩年の「義務を忘れたものは滅びてしまうのよ」と帝国の行く末を案じながら、フランツに思いは届かず旅立っていく、その姿もまた孤独に満ちています。

山崎さんルキーニは、さらにルキーニに同化している感でよくなっていました。
たしかな歌唱力があって、出ずっぱりの舞台のそれぞれの場面で、それぞれの歌い方ができているのだとあらためて思いました。
狂言回しから、トートからナイフを渡された瞬間に狂気の表情へと変貌する、その変化も見逃せません。
トートと絡みついたり、トートのしもべ的な雰囲気が醸し出されているのは、井上さんと山崎さんのもともとの信頼関係からくる雰囲気なんでしょうか。

子ルドは今日も月杜君でした。かわいいし、歌声もきれい。
「もう何日もママの顔を見ていない」
ママにあんなに会いたがっているのに、皇太子であるために会わせてもらえない。
なんだか痛々しくなってしまいます。
幼いルドルフは孤独感に忍び寄ってくるトートに安心して心を開いてしまいます。
この時すでにおもちゃのピストルを手にしていて、大人になってからのトートとの再会を暗示しています。
シシィの気質を受けついだルドルフを、ゾフィとフランツは軍人として育てようとしたことがのちの父子の対立へとつながっていきます。

次回の観劇予定は一カ月後。
その間に、世の中の理不尽さとおかしさを知り過ぎてしまった自分は立ち直って、どこかに希望を見い出して歩き出すことができているでしょうか。
今日の舞台からもらったエネルギーを一カ月がんばれるでしょうか。
そんな思いを胸に帝劇をあとにしました。
どこかに希望を見い出したい。
希望がみえないと前にすすむことはできないでしょう。

シアターガイドを読むと、花總さんは「私だけに」を、希望の歌の側面を感じながら歌われているそうです。
エネルギーもらえたかな。
そんな話はまた次の機会に。

宝塚初演でシシィを演じた花總さんと、東宝初演でルドルフだった井上さんがトートを演じて同じ舞台に立っているというのは、やっぱりなんだか不思議な感じがしました。
絵になるお二人です。

舞台写真は東宝の公式フェイスブックからお借りしました。


ハンガリーの戴冠式の場面。
花總さんシシィとフランツ。
手前は山崎さんルキーニ。



田代さんフランツの執務室。
剣さんゾフィーが宮廷を取り仕切っています。




帝国劇場入口



キャストボード





劇場内巨大パネル





『電車』

2015年06月19日 22時25分27秒 | 日記
混み合う電車に押し込まれ
ガラスに額をつけたまま
大きなため息をついたら
なお気がめいる

どんなに悲しい夜ばかり
過ぎても会社に着いたなら
笑顔を振りまいて
Jokeの一つもとばす

何を求めて明日を探せばいいのか
大きな海を漂うこの葉のようだわ

仕事を始めていたずらに
時間が流れていくけれど
けじめと名のついた
卒業証書がほしい

誰もが自分の生き方を
見つけて歩いてゆくけれど
私は変わらずに
私でいるしかできない

(『電車』作詞・作曲/岡村孝子 編曲/荻田光雄(1987年))


大学を通信教育で卒業してから早いもので11年が過ぎました。
卒業論文のタイトルは「女性の職業観と生活観についての考察」でした。
働きながら書いたので四年がかりでした。
卒業論文の冒頭に、岡村孝子さんの『電車』という歌を引用しました。

『エリザベート』の中で、シシィが歌う「わたしだけに」はなんだか、
岡村孝子さんの歌と通じるものがあると気がつきました。
自分を信じて生き抜いていこうとする、
そんな一人一人の女性が大切にされる社会であってほしいです。
男性優位の中で、声にならない声を心の中で叫び続けながら
がんばっている女性たちが報われる社会であってほしいです。

ようやくおもかった腰をあげて、一週間後に新しい場所を見学に行ってみます。
まずは電話をいれる。それができたので今週はささやかな一歩前進でした。
行ってみて、私が選ぶことになるのか、向こうが選ぶことになるのか、
どちらなのかよくわかりません。
対等な立場であってほしいですが、現実はそんなわけにはいかないでしょうね。
過剰な期待は全くしていないです。
せっかく苦労してとった資格があるので、
今までとは違う世界をのぞいてみようかなぐらいの気持ちです。
私がやってみようと思えるのか、わかりません。
昨今のニュースは、希望の灯がみえなくなるばかりで、どうすればいいのか、
これからどうやって生きていけばいいのかわからないです。
何か感じとることができる場所であればいいと思います。
これ以上、希望を失わせるようなことは進めないでほしいです。
体中の力が抜けていきそうな感じがしています。

明日はまた『エリザベート』を観て、消耗した心のエネルギーをチャージします。
劇場の中にいるときだけでも心と頭を休める時間にしようと思います。

窓の外は今日も雨の音です。

キティちゃんの写真に特に意味はありません。
なにかないとさびしいので選んでみました。




『ちひろのアンデルセン』より『絵のない絵本』_第20夜

2015年06月18日 23時07分08秒 | いわさきちひろさん
「ローマの廃墟を照らして、月が見ていました。
 荒れ果てた遺跡にすみついた
 貧しく小さな姫君が、
 うっかり水瓶をこわして
 泣きくれていたのを」

(いわさきちひろ美術館編『ちひろのアンデルセン』1994年、講談社文庫より)


ちひろさんは今の日本をどんな思いでご覧になっているでしょう。
昨今の、弱い立場の人の声が届いていない状況は本当に心配です。
自分一人の暮らしすら守ることができていない私は無力でなにもできず、
歯がゆい思いがします。
もう少しやれたのではないか、やるべきことがあったのではないか、
がんばる道もあったのではないか。
もやもやしたものがまだたくさん自分の中に残っていることに気づくと、
気づかなかったふりができないので、ついそう思ってしまいます。
弱り過ぎていたからあれ以上無理だったのかな。
私にできることを精一杯やった結果なんだから、仕方なかったのかな。
うーん、でもやっぱりニュースをみながらもやもやしてしまうこの頃です。
きっとこれからどう生きていくかで、私の中での落とし所が決まるんでしょうね。
どうやって生きていけばいいのか、区切りをつけられたら、
新たな出会いもおのずとやってくるのかな。
こっちだよって妹がおしえてくれると助かりますが、それは結果が出てからの話。
導いてくれたからこうなったんだな、って納得する。
こうなっていくんだよって教えてはくれないので、自分でみつけていくしかないです。
見つかるのかな。まだやり直せるのかな。
今はまだわかりません。ただ自分を信じる気持ちだけは失わないでいたいです。


頭の中はずっとエリザベートモードですが、今日は一週間ぶりにはなれました。


『エリザベート』がきっかけでたくさんの方が訪問してくださいました。
ありがとうございます。
いろいろと思いはつきません。
過去にみたミュージカルへの思いなども書きたいですが、今日はこれで終わりです。


絵のない絵本 (若い人の絵本)
クリエーター情報なし
童心社

『ハプスブルクの涙』

2015年06月17日 23時12分04秒 | ミュージカル・舞台・映画
『皇妃エリザベート』の後半にあたる『ハプスブルクの涙』も19年ぶりに読んでいます。
帯には、懐かしい一路さんトートと花ちゃんシシィの写真。
最後に二人が結ばれて天に召されていく場面。白い衣装できれいです。

フランツのシシィへの愛がいじましいぐらいで、シシィも旅から旅へと
さすらいながらも手紙を書いたり、フランツの気持ちにこたえようとしたり、
ようやく自分の手で育てることができた末娘を慈しんだり。
わかりやすく、楽しく読めますが、史実のとおり、二人の後半生は身内との別れが
次々とおとずれます。
本の中に当然トートは登場しませんが、トートがいつもそばにいるかのような、
死の影が忍び寄ってきつつあることを感じさせる書き方になっています。



11日のプレビュー初日の、田代さんフランツの老いてからもシシィを
思い続ける姿も印象的でした。


11日は、夢中になって観ていたらあっという間に3時間が過ぎていました。
色々と見逃していたり、気が付いていないところもたくさんあると思うので
次回の観劇がすごく楽しみです。
プレビューからどう進化しているのか気になります。

だらだらと動画を観たりしてもして、ようやく少し生き抜きもしながら過ごしています。
『エリザベート』の中の歌詞が浮かんでは消えてで、
「わたしだけに」の元気な気持ちになれる歌詞の時もあれば、
ルドルフの「ぼくはなにもできない♪」がなんども出てきたり、色々です。

自分がしてきたことの社会的意味を私自身が一生懸命に考えても仕方ないのかな。
話がでかすぎて自分で決められるレベルのことではないから、私は自分にとって
どうだったかだけを考えればそれでいいのかな。
でもでもそれだけでも、という思いもあってむずかしいです。
もう少しやれたのかな、他にやれることがあったのかなとも思ったりして、
でもやっぱり精一杯だったし、私の限界だったのでしょう。
すり減ったものを取り戻していくまでにもう少し。
次回の『エリザベート』観劇をさらにひと区切りとして、心を休めたら、
また歩きだしていけるのかな。

ずっと半端なく緊張し続けてきたので、心のお休み時間は大切。
次の土曜日をそんな一日にできるよう、区切りをつけていこうと思います。
いい意味であきらめていくことも必要ですね。
そしたらきっと自ずと何か見えてくる
そう信じ続けていくしかありません。

「あきらめるにはまだはやい。生きてさえいれば自由になれる♪」

次はようやくフランクルの『夜と霧』を読みます。
図書館で予約してきました。


ハプスブルクの涙―皇妃エリザベート (集英社文庫)
クリエーター情報なし
集英社

『エリザベート』からの徒然の

2015年06月16日 11時07分22秒 | ミュージカル・舞台・映画
エリザベートのプレビュー初日の感想にたくさんの方が訪問してくださいました。
つたないものを読んでいただき、ありがとうございます。
ついでに他の記事ものぞいてくださっていたら嬉しいです。

私のような立場の者が、19年前のエリザを観ていて、2000年も観ていて、今回のプレビュー初日も観ているというのは、たぶん稀少ですね。

この舞台を観るたびに、ルドルフ亡き後シシィが棺にすがって、「ママは自分を守るため、あなたを見捨ててしまった♪」と泣く姿に、21年前妹との突然のお別れとなった時の自分を重ね合わせているんだろうと思います。
今ならシシィとフランツは、私と同じ立場ということになります。
シシィは、トートに連れて行ってほしいとすがりつきますが、トートは「まだ私を愛してはいない」と拒みます。
宝塚版では、そのあとに「死は逃げ場ではない」というトートの台詞がありましたが、東宝版ではないですね。
今回からなくなったのかな、ちょっとあやふやです。

ルキーニに刺された後、シシィが自ら黒いドレスを脱いで真っ白な簡素なドレス姿になる演出になったのは、シシィがのぞんで黄泉の国へと旅立っていくということを表現しているのかな。
今まではトートダンサーが、黒子のように黒いドレスを脱がせるという演出だったと思います。細かいところで変わりました。
井上さんトートと花ちゃんシシィ、二人ともシンプルな白い衣装で手をとりあう立ち姿はすごく美しかったです。
なんだかこういう日がおとずれるなんて夢のような。
こんなコンビでのエリザベートは二度とないかもしれません。

初日カーテンコールの動画をみると、井上さんが「若くない人もいますが・・・」と言った時に、花ちゃんは苦笑い?またそういう話をするの?っていう感じだったのかな。
香寿さんは大爆笑していますね。19年前はルドルフでした。
変わったようで変わらないタータンにすごく安心感。
同時に過ぎた年月のおもさを感じます。
20年ぐらい前、宝塚の中でも雪組がすごく好きでした。
杜けあきさん、一路さん、なんどもなんども観ました。
香寿さんの演技とダンスも好きでした。
はなちゃんの初舞台は、涼風さんがオスカルを演じたベルばら。
星組でミーミルを演じていたのも観ています。
それから雪組にきて一路さんとコンビを組みました。
全作品観たと思います。

それから20年が過ぎ、きっと役者さんたちも私個人も、それぞれに精一杯自分の時間を生きてきて、現在(いま)なんだろうと思います。
こうしてまた新生エリザベートとして出会うことができたし、私自身も人生やり直しの時、
この作品も宮廷を舞台にしたどろどろの家族劇とも言えるわけで、生きていくことはどろどろの中にひとすじの希望の灯を見出していこうと必死にもがきながら進んでいくことなのかもしれません。
私希望の灯がどこにともっているのか見えなくて苦しい時が続いています。

宝塚版では、結婚式の翌日ゾフィに叱責されたシシィが一度はナイフを抜いて、「わたしだけに」を歌い、歌いきるとナイフを鞘におさめて倒れます。
そこに舞台の盆がまわってセリがあがり、スモークがたかれる中、トートが姿をみせて倒れたシシィを見つめます。
宝塚初演の一路さんトートの、この時の立ち姿と表情が好きです。
東宝版の初演では、一路さんシシィが「わたしだけに」を歌いながら、重い扉を必死にあけていくという演出でした。


「生きてさえいれば自由になれる♪」
生きていこう、もう少しがんばってみよう、自分を信じて進んでいこう。
そういうエネルギーを、私もまた取り戻していくことができるのかな。
いやなものを知り過ぎてしまったので今はまだわかりません。
どこに行ってもこれからもまたどろどろで、それに耐えられるだけのエネルギーはまだ戻ってきていません。死力を尽くすということはそれぐらい人を消耗させます。
今度の土曜日の観劇までに、もう少し心のエネルギーを回復できているといいです。今はまだ悔しさと虚しさに引っぱられています。
これでも回復のペースが早い方かもしれません。時間は必要ですが、それほどのんびりしているわけにもいきません。でもやっぱり時間は必要。
むずかしいところ。希望がみえればな。希望がみえないときついです。


今回は子役のスケジュールがアップされないですね。
次回の子ルドはだれか楽しみにしたいと思います。
2013年のレミゼではガブローシュだった月杜君。
将来は清史郎君や知憲君と切磋琢磨しながらに日本のミュージカル界をひっぱっていってほしい。期待感の持てる美しい歌声でした。
そんな日がくることをすごく楽しみにしています。


『エリザベート』プレビュー初日からの思いなど、徒然に書いてみました。
なんだか自分の歴史と重ね合わせながら観ているところがあって、どこまでも思いは尽きません。


東宝のフェイスブックにアップされた舞台写真をさっそくお借りしてしまいました。


山崎さんルキーニ



花總さんシシィ、結婚式の場面




花總さんシシィ、鏡の間



井上さんトートと花總さんシシィ、少女時代に最初に出会った場面



井上さんトートと山崎さんルキーニ、



井上さんトート


『エリザベート』プレビュー初日(3)

2015年06月14日 21時32分14秒 | ミュージカル・舞台・映画
雪組初演の頃に買ったマリールイーゼ・フォン・インゲンハイム著
『皇妃エリザベート』を19年ぶりに読んでいます。

訳者があとがきで、必ずしも史実に忠実ではない。
一種の宮廷のホームドラマとして読んでほしいと書かれています。

根っからの自由人シシィをなんとかウィーン宮廷になじませようと、皇妃らしくしつけようと必死になればなるほどシシィの反感をかい、大帝国を守るためには対立せざるを得なくなった皇太后ゾフィ。
こんなゾフィ像がタータンさん(香寿たつきさん)ゾフィにはにじみ出ていたのかもしれません。若いシシィには、ゾフィの思いは伝わりませんでした。
こんな見方もあるのかな、と思う一冊です。

「暗殺者のルイジ・ルケーニは犯行後も悪びれることなく、昂然としていたが、1910年牢獄で自殺した。すでに20世紀になっていたが、1917年にはロシア革命が起り、ロマノフ王朝一家は惨殺され、亡命し、同時にハプスブルク王朝も700年近い栄華の後に、地上から消えた。二十世紀は血なまぐさい階級闘争の時代に突入していった。そのあとにスターリン、ヒトラーが続く。

 こうして見ると、エリザベートの暗殺は20世紀の荒々しい時代の予兆ともいうことができよう。エリザベートに突然訪れた暗殺というドラマはあまりにもドラマティックで、なにか歴史の運命の力だったようにも思える。」

(2000年の東宝公演プログラムより)


 宝塚版ではデフォルメされているルキーニの自殺の場面が東宝版ではリリカルになっています。私のような立場の者には何回観てもそこだけはだめですね。
前回までは幕開きと同時に登場する高嶋さんルキーニのその姿に音楽と共に観る度にどきっとして目をそらしていました。
今回は演じる人が変わったし、演出も変わっているのでそこまではどきっとしないかな。
最後にシシィがトートに招かれて神に召されていこうとしているのと同時に、
ルキーニも自ら神に召されていく演出になっているので目をそらすわけにはいかない。
でもやっぱりどきっとして山崎さんルキーニの最期から目をそらしてしまった気がします。
2012年の『ルドルフザラストキス』の時には坂元さんが歌っている間中舞台から目をそらすしかなかった場面がありました。
物語を観客に伝えていくためには演出として必要ですものね。仕方ないかな。
それでも音楽の世界観に惹きつけられて何度でも観たい作品です。

雪組初演の轟さんルキーニがあまりにも役者さん本来の持ち味にあいすぎていて秀逸でした。インパクトがありすぎました。
物語の狂言回し、進行役として舞台に出ずっぱり。
囚人服の着たきりすずめで、その上にエプロンつけたり、帽子かぶったり、カメラを持って写真撮ったり。
高嶋さんルキーニは、轟さんがつくり上げたルキーニ像を踏襲し、さらに男性が演じることで骨太なルキーニになっていたかなと思います。
宝塚では削られているナチスドイツが台頭してくる様子が描かれる場面で、東宝版ではルキーニが最後にヒトラーになります。
高嶋さんルキーニのヒトラーはインパクトがありました。

山崎さんルキーニは線が細くて、かなり雰囲気が違ったかなと感じました。
軽やかに、気がついたら、あの場面にもこの場面にも、シシィが慰問する精神病院の場面にもいるという感じで、歌い方も場面によって色々だったと思います。
『レディベス』とも『モーツアルト』ともたぶん歌い方が違ったし、こんなに歌い分けられるんだっていう感じだったでしょうか。

トートダンサーのみなさんも背が高くて細い方ばかりなのかな。
振付も前回と違っていて、美しいダンスだったと思います。
全体的にたしかに役者さんたちが若くなって美しい系の方が多い舞台でした。
初日前記者会見の動画をみると、年齢の話になった時の花ちゃんがかわいいですね。
仲間にいれてくれないの、って。

苦悩しながらも自分で人生を切り開いていこうとする「わたしだけに」に、心のエルぎーをもらいたいです。
次回の観劇までに、少しは私自身も切り開いていくことができるのかな。
自信喪失状態なので、今は全くわかりません。

一年前の今頃は、三回『レディベス』を観て心がかなり救われました。
井上さんが日経トレンディの記事の中で話されているように、舞台をみることはアナログな行為。
生の舞台との出会いも、人との出会いも一期一会。
心のエネルギーを満たしてくれるものにたくさん出会っていきたいです。
すり減っている身に消耗させられるものは、しばらく遠ざけた方がいいですね。
ここしばらくは、『エリザベート』が大きな心の糧になりそうです。

携帯で撮った写真があるのに、SDカードからコピーするのがなかなかやれません。
心のエネルギーチャージを求めて清史郎君の舞台を観に行った時の写真も
ためこんでいます。

皇妃エリザベート (集英社文庫)
マリールイーゼ・フォン インゲンハイム
集英社

『エリザベート』プレビュー初日(2)

2015年06月13日 15時50分22秒 | ミュージカル・舞台・映画
昨日は訪問者が一気に増えました。
『エリザベート』初日の感想が気になる方が読んでくださったと思います。
ありがとうございます。

日本初演から観ている大好きな舞台に、花ちゃんシシィ、井上さんトートで再会できる日がくるなんて夢みたいですね。
私も含めて待ちに待ったプレビュー初日でした。

今日が本開幕。私の次回の観劇は一週間後。
幸運にも東宝ナビの抽選先行であたりました。
すり減ってしまった心のエネルギーをチャージします。
一週間の間に舞台は進化していくだろうと思います。
その間に私自身もほんの少しでも前に進むことができればいいですが、まだまだ怒りと悔しさを抱えながら、すり減ったものを取り戻していくには時間が必要なのでわかりません。

初日を観て舞台装置が気になってしまったのは私だけではないみたいですね。
花ちゃんシシィが「わたしだけに」を歌う場面。
棺の蓋が上がってそこを這い上がり、すべりおちながら歌う演出になっていて、すごく狭いので落っこちはしないかとひやひやしました。
万が一の時の安全対策はどうなっているのかな。
心配なところです。
過去に本田美奈子さんが『ミスサイゴン』の舞台装置で怪我をされて休演ということがあったので気になります。手直しがはいっているといいですが・・・。
高い所は、『レディベス』のように少し傾斜があるようにみえました。
ふわふわドレスで足元も見づらいだろうし、役者さんたちの安全が確保されているのかなと
気になってしまいます。


2000年公演のプログラムの稽古場風景。
一路さんシシィに、まだ大学生だった井上さんルドルフ、
トートは山口さんと内野さんのダブルキャスト。
山口さんがカンパニー全体を見回しながら締める役割を自然と担っていた感じでした。
15年が過ぎて、今回は井上さんがその役割を担っている感じでしょうか。
トート以外は全てシングルキャストだったいうのも今考えるとすごいことでした。
一路さんシシィは大変だったろうと思いますが、演じきられました。
結婚式の後の舞踏会の赤いドレスで運命に翻弄されるようにトートに導かれていく場面。
客席が、エリザベートってなんて勝手なんだ人なんだろうという空気になっているのを受けて立つという強さがあったことなど思い出します。
強いと同時にドレスを着こなす時のデコルテが本当に美しいのが一路さんシシィ。
井上さんは、私が忙しくて何年も観劇から遠だかっていた間に、ミュージカル界のプリンスと
呼ばれるようになり、トークも饒舌な、日本のミュージカル界になくてはならない存在に成長されました。
長い髪もよく似合い、『モールアルト』の時とは歌い方も違っていて、色気もあり、美しいトートでした。
過ぎた年月に、私自身の歴史も重ねあわさっていろいろな思いがこみ上げてきます。
きりがありません。

田代さんフランツも若き日から、身内が次々と亡くなっていってしまう老齢まで、シシィへの愛を貫きつつ、自分では選び取れなかった、生まれながらにして与えられた皇帝という職務を全うしていく、その一生を全身で体現されていました。
「皇帝に自由などないのだ♪」と自分の感情を押し殺さなければならない苦悩を語る場面に、雪組初演の高嶺さんフランツが重なりました。
一幕最後の鏡の間で、シシィの要求をすべて受け入れることを歌う場面は、シシィの「わたしだけに」と同じ音楽になっていることに、これまた今さらのように気がつきました。

二幕で娼婦たちを宮廷に呼んだ母親ゾフィーにフランツが抗議し決別を告げる場面も印象的でした。
香寿さんゾフィーの、厳格だけではない傾きつつある大帝国を守っていかなければならない
責務を担っていこうとする苦悩もまた伝わってきました。
初演ではルドルフだった香寿さん。大劇場だけだったので私は映像でしか観ていないですが、
ゾフィーとしてこの舞台に戻ってきたことにすごくエネルギーをもらえます。

見所がたくさんあって、オペラグラスを使えば全体が観えず、全体を観ていると細かい表情は分からずで、たくさん目がないと見尽くすことはできないですね。
キャストが発表された時から楽しみで仕方なかった舞台。
一週間後を楽しみに、私自身も少しずつ回復していきたいです。
生の舞台を観ることは心のエネルギーチャージになります。
昨年からなんどもなんども助けられました。
怪我なく千秋楽を皆さんが迎えられることを祈りたいと思います。

写真は初日前記者会見。
東宝のツィッターよりお借りしました。


山崎さんルキーニと井上さんトート



城田さんトートと尾上さんルキーニ


悲嘆からの再生-闇の中から生き延びる力を-

2015年06月12日 19時47分23秒 | グリーフケア
2015年2月7日の柳田国男先生の講演会のメモ書きをようやくワードに起こしてみました。

言葉が足りなかったり、聞き間違いなどもあるかもしれませんがそのまま載せます。
よろしかったら読んでください。

昨日・今日の、弱者の声が上に届いていかないニュースに全く希望を持つことができずに、
自分のしてきたことは結局無駄だったのか、何の力にもならなかったのかなど、
ひとりで思い悩んいます。
どうやって社会に戻っていけばいいのか、こんなもんだといい意味であきらめれば
希望の灯もみえてくるものなのか。でも私が知ったことは確かに社会の中で現実に起っていることで知らん顔はできない。かといって一個人が正義感をもったところで、社会を変えられるわけでもない。いつまでもそこに私自身がとらわれていれば先に進むことはできない。
かといって知らなかったことにはできない。かといってずっとそればっかりでも、
自分の生活を立て直すことはできない。
現実にはもっとひどいことがいっぱいあって、私の経験はそのカテゴリーの中では
まだマシなほうだったのかもしれません。
話が大きすぎてどこまでこだわっていくのか、わからなくなっています。
それでも妹の分まで生きるという思いを大切にしながら精一杯生きていくのが
私の役割なのかな。わかりません・・・。


************************

2015年2月7日柳田邦男先生講演会の記録
「悲嘆からの再生-闇の中から生き延びる力を-」

グリーフ・ケアのプロセスは、亡くなり方によって大きく違ってくる。
人の話をきいて、「できたらいいな」と思うことが大切。

1.①兄夫婦から学んだこと(一番上の12歳年上の兄)
南方に送られて終戦となり、22歳で帰還。肺結核。
大手術をしたが50才ぐらいまで生きられればいいと言われた。
二番目の兄と父は相次いで肺結核で亡くなる。
古書店を営みながら、地元の郷土史研究をやりたかった。
七才年下のナースと結婚。徹夜で仕事。C型肝炎を65歳で発症。
75歳で肝硬炎。80歳で肺がん。50才を過ぎたらあとはお駄賃だと腹のすわったところがあった。ユーモアを忘れなかった。

②義姉の喪失からの再生
・お世話になった人に直筆で令状を書いてほしいという夫からの遺言を実行した。80人ぐらいの人に令状を書いたことが、夫の足跡をたどることになった。グリーフ・ケア。
・自分が亡くなったあと、この世で起ったことをしっかりみて、あの世に来た時つぶさに話してほしいという夫からの遺言を実行している。鳥取のホスピスの徳永先生に会いに行く。周辺とのつながりを途絶えさせないように動いている。

③私の学び
兄は戦争で亡くなった人のことを思えば、自分は生かされているという感謝を忘れなかった。郷土史研究への使命感。
母の運命の受け入れ方が影響を与えている。

信仰を持つ人からの学び。キリスト教、仏教それぞれに-。
①原崎百子さん
『わが涙よ、わが歌となれ』35年ぶりの再刊。
牧師の奥さん。肺がんで亡くなったあと、夫が日記を本にした。
キリスト教徒だからといって、病気を受け入れられるものではない。
告知を夫からきいた後で、人生をこれから本番だと受け入れた。
在宅で自分の生を全うしようとしていた。

「たとえ明日地球が終りであっても私はリンゴの樹を植える」
この言葉を忘れなかった。支えとなった。
口述筆記で最後は夫が日記を書いた。

②東京・江戸川区の唐泉寺
ガンで亡くなった住職の奥さん:高田正圜(タカダショウエン)さん
自分もガンになった時、夫のガンとの向き合い方をみてきたことが支えとなった。「死はいきることへの通過点」

宗教をもたない人
①ハンセン病患者の俳句人生
村越化石さんが歩んだ道-『篭枕(かごまくら)』
(一昨年90歳で亡くなった)
隔離されて生きた人生。静岡県で生まれ、草津温泉の療養所で生涯を送る。
18歳で故郷を離れ、帰ることはできなかった。故郷で石碑が立てられることになり、除幕式に出席。(80歳を過ぎて)

②村越さんの人生から学んだこと。
自分の内面を表現することは、心を支える大切な行為。自己肯定感につながる。・

傾聴の力
人は物語を生きている。全体がみえてくると。

徳永進『ホスピス通りの四季』
自分の人生の物語を振り返るのを静かにただきいている。

「あとどれぐらいですか?」自然に出てくる。
「梅の花か、桜の花が咲く頃でしょうか」

自分の人生を振り返ることで運命を受け入れることができていく。

子どもの感性に学ぶ。
荒川区 絵本を読んだ感想を先生に送ってもらう。七年間で4,000通。

①12歳の女の子。おばあちゃんが亡くなった後、『わすれられないおくりもの』(イギリス、バーレイ)という絵本を読み返した。
私を本好きにしてくれたこと。将来の夢をもたせてくれたこと。おばあちゃんから二つの贈り物があることに気づいた。
絵本を介して、おばあちゃんからの贈り物を考えた。子供は前向きに生きる力を持っている。

②弟の死と小6少女(みゆちゃん)の気づき。
5歳の弟が難病で亡くなる。
『だいじょうぶだよ、ゾウさん』(柳田先生訳)
ねずみの気持ちに自分を重ねる。
自分の心の中に弟は生きている。

絵本は語りかけてくれる。
心の中を整理してくれる。

それでも人生にイエスと言う。
フランクル『夜と霧』
「人生が何を我々から期待しているのかが問題である。
「我々が人生の意味を問うのではなく、我々が問われている。」
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない」

「根こそぎ喪失体験」からの再生を支えるもの。
福島・飯館村、小林麻里さんの人生。
①失われた青春 20代をうつで過ごした。
②30代で結婚。福島に移住。人生をやり直そうとした。結婚して二年半で夫がガンで亡くなる。
③立ち直ろうとした矢先に原発事故。
「あーあ、私の魂はこういう経験をしたかったんだ」と気づいた。

精神性のいのちは最後まで生き続け、残された人の中で生き続ける。
残された人の人生を膨らませ続ける。

死後生を考えた時、今という生き方を問われている。
「肉体は亡くなっても人の生きた証は、残された人の中で生き続ける」



『エリザベート』プレビュー初日(1)

2015年06月11日 21時56分27秒 | ミュージカル・舞台・映画
エリザベート:花總まり
トート:井上芳雄
フランツ:田代万里生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:香寿たつき
ルキーニ:山崎育三郎
少年ルドルフ:松井月杜
 
 開幕しました。ずっと頭を使い過ぎてきたし、極度の緊張感の中に身を置いてきたので今日は忘れて楽しもうと決めました。
おかしな、でも気になるニュースばかりでそうもいきませんが、ネットで他の方の感想を読みながら今はひたっている感じです。

 1996年の雪組初演、1998年の宙組再演、2000年の東宝初演を観ている私には幾重にも感慨深いものがあるキャスティングです。

19年の時を経て舞い降りてきた花ちゃんシシィ。16歳でフランツに見初められた少女時代は、
本当にかわいらしかったです。全く年齢を感じさせません。
プロローグの後、エリザベートの肖像画が上がっていくのと同時に、少女時代のシシィが客席をふりかえって登場した時の拍手の大きさが、皆さんの待ち望んでいた感を感じました。
68歳で旅立つまでの一生が怒涛のように綴られていきますが、少女だったシシィが自我にめざめ、孤高の皇后へと表情が変わっていく姿は、皇后の姿そのままでした。
横顔の凛として美しいこと。宝塚時代よりも美しく、高貴で、歌もパワーアップして、初演から今までの彼女の生きてきた時間がそこに込められているように思いました。

真骨頂は、シシィの星と言われる髪飾りをつけて、一番豪華な衣装をまとった鏡の間のドレス姿とルドルフ亡きあとの棺にすがる場面でしょうか。
22歳だった花ちゃんが喪服をまとい背中を丸めて、ルドルフの棺にすがり、後悔にくれ涙する姿は、娘役としてのキャリアがまだ浅かった花ちゃんの力量がついたことを思わせてくれました。よく演じられていたと思います。
20年目の今日は余裕と貫録で演じられていました。
より心が震えて涙が出ました。
その直後にルキーニが登場して、皇后のしたたかさを歌う場面があるのは、宝塚版と東宝版で大きく違うところのひとつです。
皇后のエゴイズムで客席はなんて勝手な人なんだと思う瞬間がありますが、その客席の空気を受けて立つ強さが、東宝版のシシィには求められます。
前回までは男役出身の人が、男役で培った強さでその強さをにじませていました。
今回初の娘役出身の東宝版シシィ。
その要求に十分に応えられる強い皇后になっていたと思います。

シシィが「ルドルフどこなの、きこえてるの、さむくないの、ふるえてるの♪」と歌うのと、
少年ルドルフが「ママどこなの♪」と母の姿を求めて歌うのとが同じフレーズになっていることに今さらのように気がつきました。二人が似たもの同士であることをちゃんと音楽で現わしています。

夜のボートを歌う場面で、舞台装置の鏡に、花ちゃんの後姿がずっと映っている場面も印象的でした。ルドルフ亡きあと、夫フランツとの間にある、うめることのできない心の隙間があること、耐えがたい孤独感と一緒に生きている孤高の美しさが、鏡に映る後姿に込められているように感じました。

プログラムを読むと、舞台装置はハプスブルク家の霊廟の中で行われている裁判劇というコンセプトとあります。シンプルで抽象的になった分、キャストが自由に動く空間は広くなったのかなという印象でした。
結婚式の後の舞踏会で、シシィがトートダンサーたちに翻弄されて、トートと再会するシーン
の演出も変わったところの一つでした。
眠りながら夢の中を漂っているような花ちゃんシシィの表情も印象的でした。

井上さんトートは、今までよりも自由自在に動いている感じがありました。
登場シーンも増えているようです。
初舞台が2000年のルドルフだった井上さん。
初役とは思えない安定感で、シシィをどこまでも追いかけていく姿には、15年間の役者人生が込められていると思いました。
手足の長さがやはり舞台に映えます。長い髪に最後は白い衣装、ブーツもよく似合ってかっこいいです。
衣装がシンプルになっているので、より軽やかな感じがしました。

香寿さんゾフィー、安心してみていられる演技と歌でした。やはり裏切りません。
宝塚時代から歌、ダンス、芝居と三拍子そろっていて、どんな役でもこなす香寿さん、さすがです。

古川さんルドルフ。
2012年よりもより美しく、孤独と狂気をよく表現されていました。

田代さんフランツも初役とは思えない演技と歌の安定感。
晩年身内が次々と不幸に見舞われ、愛する妻シシィも暗殺によって亡くしながら、粛々と自らの与えられた皇帝という役割を全うしていく、その姿もまた孤独に満ちていました。

育三郎さんルキーニもよかったです。あごひげが違和感なく、2012年までの12年間ひとりでルキーニを演じてきた高嶋さんとは全く雰囲気がちがう色気といやらしさがあって、ちょっと心配していましたが、今までの二枚目イメージを跳ね返していると思いました。キッチュの場面など楽しそうでした。

トートがルキーニにナイフを渡す場面。音楽と共に一気に緊張感の高まる場面です。
シシィがトートに手をとられて天に召される最後の場面で、裁判が終わったことを客席に知らせようとするかのようにルキーニも同時に旅立っていく演出に変わっていました。棺が出てこなくなってシンプルなラストでした。

少年ルドルフの月杜君の歌声もきれいでした。歌がうまいです。
トートと出会う部屋の装置もシンプルで、トートダンサーが鉄火面をつけてまわりにいる演出になっていました。

ルドヴィカお母さんとマダム・ヴォルフを演じた未来さんが、ミルクのシーンの群集にも登場されていてよくわかりました。
なんかきっぷのいい母さんぶりといった感じだったでしょうか。

キャストが前回までよりもぐっと若くなって、躍動感があり、同時にプレビュー初日とは思えない安定感のある舞台でした。
何役もこなすアンサンブルのみなさんも安定していました。
耳慣れた歌の世界観はそのままに、同時に全体的な雰囲気は変わったかなと思いました。

それにしても鬘がすごくうまくできていて、それぞれの役者さんたちにすごくしっくりきていると感じました。素晴らしい技術。

宝塚版と東宝版ではいろいろと違うところがありますが、この舞台を女性だけで最初につくり上げた雪組初演はすごいと改めて思いました。

まだ何回か観る予定です。
きりがないのでこれぐらいに。
久しぶりに混乱のことが頭から離れたひとときでした。
孤独な人びとが、それぞれの人生を精一杯に生き抜かれました。

19世紀、ハプスブルクという大帝国の終焉を象徴したかのようなエリザベートという人。
20年前と西欧の資本主義が限界にきているのではないかと思わずにはいられない今観るのと
では違うリアル感もあります。
トートとエリザベートのラブストーリィが軸ですが、時代の大きなうねりの中で必死にあがなう人々の姿としてみることもできるかもしれません。

写真は東宝の公式ツィッターよりお借りしました。


無駄じゃなかったのかな

2015年06月10日 10時35分08秒 | 日記
私が心身をすり減らしてがんばり続けてきたことには社会の中でちゃんと役に立っている。
あまり報われなかったけれど無駄なことでは決してなかった。
昨日の夜は、集会に参加して、悔しさやら、いろいろな方がそれぞれに自分の歴史を背負いながらがんばっているその姿に涙が出てしまったり、いろいろな思いが交錯してしまいました。
朝方おトイレで一度目が覚めると、そのあとなかなか寝付けませんでした。
怒りと悔しさをため込んだ苦しい日々は続いていますが、
明日の新生『エリザベート』で一度リセットボタンを押せるようにしたいと思っています。

写真は昨日の初日前会見の様子。
東宝のツィッターよりお借りしました。
花ちゃんきれい・・・。