モンゴメリーという作家の実像は、「エミリー」と合わせ鏡にしないと見えてこない。
『可愛いエミリー』(Emily of New Moon)から始まるエミリー三部作は、『赤毛の アン』とはうって変わって、この作家の暗黒面を表している作品です。僕はこちらも十代の頃に原文で読んだのですが、とにかくものすごい作品です。 物語のプロットとしては、「 アン」に似ています。アンと同じく孤児になった少女エミリーが、これも未婚で初老のおばさんの 家に引き取られ、プロの作家になることを目指して成長していくという物語。しかしここで描かれている世界は、「アン」で描かれている世界の明るさとは、百八十度異なる暗黒の世界です。 エミリーが引き取られた先は、アンにとってのマシューやマリラのように、無条件に彼女を愛してくれる人々ではありませんでした。また作家を目指して成長していく過程のエミリーの内面の葛藤というものも、すさまじいものです。リアルで、かつか なリスピリチュアル。エミリーという人物はちょっと不思議な力があり、時々聞こえるはずのない声も聞いてしまう。精神の内面に深く入り込みすぎていて、しかもちょっと「電波系」。そういうところで、アンとは全く逆の深く暗い世界が描かれているのです。けれどもおそらく、「クリエーター」の内観ということに関しては、いちばん誠実に描かれていると思います。モンゴメリーは、下積みが非常に長かった人です。『 赤毛のアン』を出版するまで、ありとあらゆる出版社に原稿を送っては返され、送っては返され、と試練の日々を重ねてきました。出版社からの返信が厚いものだと、それは自分が送った原稿がそっくりそのまま入っているとい うことだから、断りの返事だとすぐ分かる。それくらい、何度もチャレンジしては打ちのめされてきたのです。
その頃の精神的なつらさや、それでもどうしても作家になりたい!という不屈の精神。そういった「クリエーター」としての精神面が、「エミリー」シリーズには非常に率直に描かれています。
しかしこうしてみると、アンとエミリーの人生の選択は完全に分かれています。たしかにしかにアンも、子どもの頃は物語クラブを作って創作活動に励んでいました。けれども、結局それは彼女の人生の目標にはならなかった。キャリアを積む人生というより は、ギルバートという素敵な男性と結婚して、家庭を守る主婦の立ち位置に落ち着きました。一方のエミリーは、あくまで「クリエーター」としての道を貪欲に求め続け、なんとか成功への 手がかりを掴み取ろうと努力し続けます。アンにとっての人生が「道の曲がり角」というなだらかな表現で表されているのなら、エミリーにとっては作家になるという絶対的な人生の目標は、「アルプスの頂上」を目指すという比喩で表現されています。この違いからもアンとエミリー、このモンゴメリーが生み出した二人の主人公の人生が、完全に分裂したものであるということが分かります。
ただ面白いのは、カナダや欧米では、実はアンよりもエミリーの方が人気があるということです。アンの方が圧倒的に人気のある日本と比較して考えてみると、これは面白い現象かもしれません。単なる作品に対する好み、というだけでなく、日本という社会の成り立ちの側面が少し見えてくる気がします。つまり、どんな女性になりたいかという話になった時に、アンに共感するかエミリーに共感するかで、その人の人生の志向性が見えてくると思うのです。エミリーのように才能を生かして、自分で自分の道を切り開いていくような女性に憧れるか、あるいはアンのように、必ずしも強烈な才能を追い求めるわけではないが、自分の家族を大切に丁寧に生きていく女性に憧れるか。もちろん、どちらが正しいというものではありません。また、こういった選択は時代背景によっても変化していくものです。しかし少なくとも戦後の日本女性にとっては、アンの生き方は一つの理想の生き方であって、ロールモデルとして人気があったということです。これは突き詰めていくと、女性の幸せとは何なのか、という問題にも繋がってきます。アンの生き方は世間的な意味から見ると、女性の幸せのようなものを手に入れているでしょう。立派な男性と結婚をして子どもがいて。
でも、それではアンが最初に持っていたポテンシャルは何だったんだろいうということになりますよね。あのポテンシャルはどこへ行ってしまたんだろうと。そして、アンのこのような生き方が、特に日本で非常に受けている、ということが表す社会的な意味とは。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』より)
『可愛いエミリー』(Emily of New Moon)から始まるエミリー三部作は、『赤毛の アン』とはうって変わって、この作家の暗黒面を表している作品です。僕はこちらも十代の頃に原文で読んだのですが、とにかくものすごい作品です。 物語のプロットとしては、「 アン」に似ています。アンと同じく孤児になった少女エミリーが、これも未婚で初老のおばさんの 家に引き取られ、プロの作家になることを目指して成長していくという物語。しかしここで描かれている世界は、「アン」で描かれている世界の明るさとは、百八十度異なる暗黒の世界です。 エミリーが引き取られた先は、アンにとってのマシューやマリラのように、無条件に彼女を愛してくれる人々ではありませんでした。また作家を目指して成長していく過程のエミリーの内面の葛藤というものも、すさまじいものです。リアルで、かつか なリスピリチュアル。エミリーという人物はちょっと不思議な力があり、時々聞こえるはずのない声も聞いてしまう。精神の内面に深く入り込みすぎていて、しかもちょっと「電波系」。そういうところで、アンとは全く逆の深く暗い世界が描かれているのです。けれどもおそらく、「クリエーター」の内観ということに関しては、いちばん誠実に描かれていると思います。モンゴメリーは、下積みが非常に長かった人です。『 赤毛のアン』を出版するまで、ありとあらゆる出版社に原稿を送っては返され、送っては返され、と試練の日々を重ねてきました。出版社からの返信が厚いものだと、それは自分が送った原稿がそっくりそのまま入っているとい うことだから、断りの返事だとすぐ分かる。それくらい、何度もチャレンジしては打ちのめされてきたのです。
その頃の精神的なつらさや、それでもどうしても作家になりたい!という不屈の精神。そういった「クリエーター」としての精神面が、「エミリー」シリーズには非常に率直に描かれています。
しかしこうしてみると、アンとエミリーの人生の選択は完全に分かれています。たしかにしかにアンも、子どもの頃は物語クラブを作って創作活動に励んでいました。けれども、結局それは彼女の人生の目標にはならなかった。キャリアを積む人生というより は、ギルバートという素敵な男性と結婚して、家庭を守る主婦の立ち位置に落ち着きました。一方のエミリーは、あくまで「クリエーター」としての道を貪欲に求め続け、なんとか成功への 手がかりを掴み取ろうと努力し続けます。アンにとっての人生が「道の曲がり角」というなだらかな表現で表されているのなら、エミリーにとっては作家になるという絶対的な人生の目標は、「アルプスの頂上」を目指すという比喩で表現されています。この違いからもアンとエミリー、このモンゴメリーが生み出した二人の主人公の人生が、完全に分裂したものであるということが分かります。
ただ面白いのは、カナダや欧米では、実はアンよりもエミリーの方が人気があるということです。アンの方が圧倒的に人気のある日本と比較して考えてみると、これは面白い現象かもしれません。単なる作品に対する好み、というだけでなく、日本という社会の成り立ちの側面が少し見えてくる気がします。つまり、どんな女性になりたいかという話になった時に、アンに共感するかエミリーに共感するかで、その人の人生の志向性が見えてくると思うのです。エミリーのように才能を生かして、自分で自分の道を切り開いていくような女性に憧れるか、あるいはアンのように、必ずしも強烈な才能を追い求めるわけではないが、自分の家族を大切に丁寧に生きていく女性に憧れるか。もちろん、どちらが正しいというものではありません。また、こういった選択は時代背景によっても変化していくものです。しかし少なくとも戦後の日本女性にとっては、アンの生き方は一つの理想の生き方であって、ロールモデルとして人気があったということです。これは突き詰めていくと、女性の幸せとは何なのか、という問題にも繋がってきます。アンの生き方は世間的な意味から見ると、女性の幸せのようなものを手に入れているでしょう。立派な男性と結婚をして子どもがいて。
でも、それではアンが最初に持っていたポテンシャルは何だったんだろいうということになりますよね。あのポテンシャルはどこへ行ってしまたんだろうと。そして、アンのこのような生き方が、特に日本で非常に受けている、ということが表す社会的な意味とは。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』より)
「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫) | |
茂木 健一郎 | |
講談社 |